「フィルムでばかり撮ってきて、ビデオワークは未経験だったが、決めギャグをこね回して吟味する現場の遊び方を知った、いい機会だった。」
脚本らしい脚本ではなかったが、おかしなギャクがいっぱい詰められた、『COMBATってんねん!』は、――米軍服の西川のりおサンダース軍曹が相方のよしお伍長が戦車に乗って、砲弾を撃ちながら現れて、ハッチを開けて現れるや、漫才を始める。片や、前線本部では金髪のドイツ軍将校(伊武雅刀)がワイン片手にディナーを味わっている――というのが、書き出しだった。
土木作業用のブルトーザーに鉄板を貼りめぐらせて、砲台を乗せて被せただけの大型戦車(角川映画が『戦国自衛隊』で、オリジナルで作ったなかなかのシロモノ)を、湾岸の工場の廃屋に運びこみ、大砲からボカーンと一発、音のデカい白煙火薬を破裂させて…、危なっかしいビデオ撮影が始まったのだ。
1984年の秋、この頃、パフォーマンスビデオというものは世間的にはまだ目新しかったようだ。東京のシティ文化らしいスネークマンショーユニット上がりの伊武稚刀という怪優さんと、大阪浪波の漫才コンビ・のりおよしおさん等が繰り広げるバカバカしいコント仕立ての作品はとても自由気ままに作れる、有名な映画のワンシーンのパロディ場面の寄せ集めだった。
巻頭は、「下町のエクソシスト版」からで、夜霧の濃い街頭に現れた悪魔祓い師に扮した伊武さんが団地の部屋を訪れて、「西川さんのお宅はこちらですか?」と訊ねるや、「西川の布団屋ならここやないよ、駅前やがな」と隣のおばちゃんに言われた挙句、のりおさん宅にやっと辿り着く。そこで二人で「笑い」とは何ぞやと談笑していたら、急にのりおさんの頬やデコがぶくぶくと変容して顔面が歪み出し、口から緑の液を吐き、魔物に憑りつかれてしまうコントだった。部屋の中はスタジオにセットを組んで、突然、タンスやガラス窓が震え出して飛んでいく展開で、なかなかお金のかかる仕掛けだった。
とにかく、自由な発想で作れて、映画作りの時の、物語を綴らなければならない苦心やストレスが溜まらないのが何より良かった。中島らも氏が書き加えてくれた、その「下町のエクソシスト」のオチもなかなか奮っていた。
その悪魔祓い師が十字架を掲げてお祓いする途中、実は覚せい剤中毒者で、自ら腕を捲って注射を打ち始めるものだから、悪魔ののりおさんが驚いて、「シャブだけは止めろ!それは絶対アカン!」と逆に咎めるというとんでもないドタバタ劇だった。(今なら、さぞやユーチューブで話題を呼んだことだろうが・・・)。
『昭和の忠臣蔵』版では、よその助監督たちも現場に四十七士の衣装に着替えて、応援に駆けつけてくれて、都内中、ロケしてまわった。東京タワーの展望階でも四十七士を連れて上った。伊武さんが大石内蔵助(くらのすけ)、のりおさんが大石主悦(ちから)の役、以下45名。観光客たちがその異様さに笑っていた。
そして、吉良邸に討ち入る前に皆でスタミナをつけようと、渋谷の焼き肉店に四十七人で行って、挙句に精がつき過ぎて各々が鼻血を垂れて、もう一度、皆で気分を直して五反田のキャバクラに全員が寄り道する場面もロケして、深夜には郊外の生田スタジオの江戸時代のオープンセットに移動して、オチの場面だった。あんまり、だらだらと四十七士が寄り道をしてしまったので、吉良邸に着いた頃には炭焼き小屋にずっと隠れひそんでいた吉良上野介の方が先に凍え死んでしまい、浪士の本懐が叶わなかったというわけだ。のりおさんの主悦が「遅かったぁー!」とアドリブを飛ばしていた…。
翌日は、泉岳寺にも出向き、全員で赤穂浪士の墓の前で礼拝場面もコントにして撮った。ここまでしたら霊に祟られるかもしれないなと皆が笑ったが、でも、「パロディー」がここまで愉しいクリエイトとは思いの外だった。
こんな気ままな創作ビデオでも、レンタルビデオ用と販売レーザーディスク用の完パケを仕上げるのに一か月かかった。製品定価は劇映画の1万2600円より安かったかもだ。6千円ぐらいだったか…、今、ボクの手元にはどっちの現物も残っていないので分からないが。
ビデオテープで収録し、ビデオワークで編集して仕上げるのは、この時が初めてだった。まあ、(客じゃなくて)ユーザーが見る画面サイズ自体が家庭のテレビだし、写りの細かい部分までは気を遣わずに現場モニターチェックで済んだし、力のかけ方が違うし、気楽なものだった。
ボクの持ち合わせてきたコメディセンスとは? ギャグとは、セリフの間と何なのか。それも勉強できて良かった。現場のスタッフたちがお客だった。スタッフを笑わせてナンボだとも思った。
さて、このビデオ仕事の後、話は戻るが、秋の終わりに日活撮影所の所長さんから電話がかかってきたのだ。「来年のゴールデン用に、ロマンポルノじゃなくて久しぶりに一般モノを企画してんだけど、会えたら」という妙な頼まれ方だった。日活でポルノは撮らされたことはないが、これは逃げられないなと思った。
(続く)
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。