20歳の頃

番長プロデューサーの世直しコラムVol.61
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

この原稿を書いている今日は成人の日です。 成人の日、自分は何をしていたのか、思い出せますか?

僕の成人の日は、浪人2年目の、大学入試センター試験(当時は共通一次試験)の直前で、そんなことを祝う余裕も権利もなく、成人式にも参加できませんでした。 福岡の大きい予備校の、浪人生ばかりが住む、大きい寮に暮らしていて、ほとんどが一つ年下の人間の中、数少ない同じ年の奴らと、「成人おめでとう」と、誰かの部屋に集まってみじめな気分でちびちび酒を飲んだ思い出があります。公衆電話から母親に電話したら「成人式には来年行けばいいじゃない」と言われてさらに悲しい気分になりました。

浪人生の生活は悲惨な気分でした。今考えると、どうってことない事だったのですが、当時は同級生からずいぶん遅れてしまったみじめさや、所属する場所も無く、世の中のために何の役にも立っていない自分をひしひしと感じていました。息抜きに映画を見ても、何をしても来年の試験のことが頭から離れず、憂鬱で不安な毎日。 自分の中に無限の可能性を信じていたのに、現実はひたひたと近寄ってくるんだ。自分が特別な存在ではなく、どっちかというと何者でもなかったんだ。 ということが解ってくる時期でもありました。

予備校の寮で2年も暮らしていると色んな事が起こります。満たされない思いでいっぱいの二十歳前後の若者が200人ほど、夜8時の門限に縛られながら3畳くらいの部屋に押し込められて共同生活をしているわけですから、ゆがんだエネルギーの衝突がいつも起こります。冷蔵庫の飲み物が無くなったとか、ドライヤーの音がうるさいとかで殴り合いのけんかは起きるし、夜中に遊びに行こうと2階の部屋から飛び降りて出て行く奴が、着地に失敗して骨折したり。「いつもお風呂であなたを見ています」と、気持ち悪い男から毎日ラブレターをもらったり。

ある秋の日曜日の朝、天気が良かったので布団を干したり掃除したりしているときでした。いきなり、部屋の窓の外から何かが跳んできて、部屋の中で割れて飛び散りました。「うえ~!なんだこりゃあ?」と。 窓の外をみたら、向かいのマンションの屋上で、子供らしい影がひっきりなしに、こっちに向かって何かを投げ込んでいました。バン、グシャ、バン、グシャ!部屋の中やベランダで割れているのは生卵でした。 干していた布団は汚れ、部屋の中は生卵が飛び散ってぐしゃぐしゃ。寮全体が大騒ぎになりました。割れた卵の殻を拾い、飛び散った黄身や白身を雑巾で拭いて、布団やシーツを洗濯したりして、もうせっかくの休みの日がパーです。そして、それより何より、理由も相手も分からない突然の攻撃と、あからさまな他人の悪意に恐怖していました。

騒ぎが落ち着いた頃、夕食の前に、寮の食堂に寮生全員が集められ、事の顛末を寮長が話し始めました。寮長が警察に通報して調べてもらったところ、犯人は隣のマンションに住む小学生の4人組でした。空っぽの卵のパックが6つ、まだ開けていない卵のパックが3つ、隣のマンションの屋上に残っていたそうです。で、犯行の動機を聞かされて情けなくなりました。 犯人の小学生は、日頃、母親から「ちゃんと勉強しなさい」とうるさく言われている。「勉強しないと隣の変な建物に住まなきゃならなくなるよ」と。隣の建物は学校でちゃんと勉強をしなかった悪い人たちの集まりで、バカと悪の集団である。と。 で、小学生は考えた。隣の建物がそんなに悪の集団ならば攻撃しなければならない。隣の建物に住んでいるような奴らのせいでゲームをしていると怒られる。日頃から「隣の奴らは悪」と親に言われている勇士を集めて、予備校の寮襲撃作戦を企てた。日曜日に生卵をしこたま投げ込んであいつらを退治してやる。というのが犯行動機だったのです。 寮生の中にはショックですすり泣くやつさえいる有様でした。 俺たちは近所の小学生からもバカにされるような身分なんだ。と。

また、ある日、生活費が少なくなってきたので、パチンコで3倍にしてやろうと思い立ち、予備校をさぼって博多駅近くのパチンコ屋に朝から並んだ日がありました。そもそも、なけなしの金ははした金です。あっという間に全額パチンコ台に吸い込まれてしまい、一度もフィーバーせずに無くなってしまいました。あまりのあっけなさに愕然として、また、今日からのごはんが無くなってしまったショックにうちひしがれてパチンコ屋を出ると、土砂降りの雨になっていました。当然傘も無く、帰りのバス代すら無い。数メートル先すら見えないような雨の中、ずぶ濡れになって、寮に向かってとぼとぼと歩いている途中に、「俺はいったい何をしているんだろう?」と思ったら、あまりの情けなさに涙が止まらなくなり、どうせ濡れてわかんねえよと、わんわん泣きながら歩いた事もありました。

食費も無くなったので、近所のパン屋さんでおばちゃんに頭を下げてパンの耳をもらって食べる生活に入りました。世の中はバブル景気の真っ只中。大人達は浮かれて金儲けに狂っている中で、なんで俺だけは不況なんだろう?と。 パンの耳を食べていたら、申し訳なさそうに「そのパンの耳をすこしくれないか?」という奴が部屋に来ました。おお、おまえも金ないのか。よし、半分あげるよ。とかわいそうな気になってそいつにもらったパンの耳を半分あげました。大盤振る舞いですよ。 しばらくして、近所のスーパーの試食のコーナーでウインナーをもらったので、これもそいつに分けてあげようと思い、そいつの部屋にいったら、俺があげたパンの耳をミルクに浸して、拾ってきた子猫にあげていました。「バカ野郎!てめえ、俺は子猫並みか!」と本気で頭に来て怒鳴っていました。

そんなことを思い出していると、成人の日、成人式を含めた20歳になる頃というのは、何でも出来る気になっていた子供の自分と決別して、ある意味、現実を突きつけられる時期だと思うのです。 「君は若いから無限の可能性をもっているんだ」なんて大人の適当なウソに気づいて、自分は何ができるのか、何ができないのかを考えなさいと。

20歳。何をしたいのか、自分は何者なのか、何ができるのかさっぱり解りません。ただ、これは無理だな。ということは徐々に解ってきます。それを自分の中で選別するには、自分と現実と向き合わなければいけない。これほど嫌な作業はありません。でも、やんなきゃいけない。

だから僕は、あの頃、ああやって、一言でいうと「情けない自分」という感情をもって過ごしたことが、とても今の糧になってくれていると思うのです。 実際、あの予備校での日々で、「俺はおまえらと違って生まれながらのスターなんだから何でもできちゃうんだぜ。」と本気で思っていたのに、実は世の中的になんの役にも立たない、生きているだけで地球を汚すだけの、近所の小学生にもバカにされるような存在だと気づかされたからです。 あの落差は今考えてもぞっとしますが、適当になんとなくうまくいっていたら、勘違いしたまま大人になっていただろうし、そろそろ現実を考えなければならない時期だったのでしょう。

成り行きに任せて情けない思いをしたのだから、もう成り行き任せにするのはやめよう。と思ったことも大きかった。 何でも、自分で決めてそれに向かって努力するんだ。はやく何者かにならないとまたガキに卵をぶつけられちゃうぜ。と。

漠然と、何でもできるような気になって努力も決断もせず、勝負もかけず、結局、「俺のことを理解できない世の中がわるいんだよ。」みたいな事を言わずに済んだのは、あの頃のおかげだったのかもしれません。 まだこれからはわかりませんが。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
~株式会社リフト 第一制作部 チーフプロデューサー~

  • 1968年 佐賀県生まれ、44歳。
  • 1991年 ニッテンアルティ入社(旧 日本天然色映画株式会社)
  • 2000年にプロデューサーに昇格。
  • 2009年 社名がリフトに変更。

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが(日本にはCMプロデューサーと名乗る人が2000人もいるそうです)、自分のケツを自分で拭こうとしているプロデューサーは何人いるでしょうか?矢面に立つのは当たり前だとつっぱって仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。根性論を書いているかと思ったら、意外に現実論者でもあります。

<主なプロデュース作品>

  • AGF ブレンディボトルコーヒー(原田知世さんと子供)
  • 日清食品 焼きそばU.F.O
  • マルコメ 料亭の味
  • リーブ21 企業CM
  • コーセーサロンスタイル 『髪からはじまる物語」行定勲監督Webムービー
  • クレイジーケンバンドPV
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