ネットと放送の融合[1]
- Vol.10
- 東京大学大学院情報学環教授 西垣通さん
胸躍らせたことが間違いなのか?いえ、そんなことはないと思います。ブロードバンド環境で映像配信できるインターネットは、明らかにテレビの電波配信に劣らないメディアだし、それ以上の可能性を秘めている。一方テレビには、歴史がある、ノウハウがある、コンテンツの蓄積がある。そのふたつが合体して何になるのか?がドラスティックすぎる疑問というなら、せめてその接点で今何が起ころうとしているのかくらいは知りたいし、知っておくべき。それが今回の視点です。シリーズで追いかけます。第1弾は、情報学・メディア論の論客、東京大学大学院情報学環の西垣通教授にお話を伺いました。情報学の見地から、ネットと放送の融合について、分かりやすい指針を提示していただくことができました。
<取材協力者>
西垣通さん
~東京大学大学院情報学環教授~
1948年東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。日立製作所、スタンフォード大学でコンピュータ・システムの研究開発に携わった後、明治大学教授を経て、東京大学へ。『基礎情報学』(NTT出版)や『IT革命』(岩波新書)などの情報学関連書を多数執筆しているだけでなく、『アメリカの階梯』『1492年のマリア』(ともに講談社)という小説も発表している。
着実に放送に追いつきつつあるネット。
その結果、境界線がぼやけ始めてもいる。
まず、インターネットとテレビがどんな位置関係にあるのか、という現状分析からお話ししましょう。端的に言って、現状ではまだテレビのほうが圧倒的に影響力があります。たとえば2005年現在で、テレビの広告収入は2兆円を超えていますが、ネットの広告収入は2000億円に届くかどうかというところ。したがって大まかにですが、ネットはテレビの10分の1の規模と考えていい。しかし、インターネットの広告収入の伸びは、前年度比で約50%を示しています。この調子でいくと、単純計算では5、6年で追いつくことになりますね。
アメリカの家庭を見てみると、インターネットの追い上げは顕著です。1980年代には、夕方、3大ネットワークのニュースを国民の75%が観ていました。ところが今ではもう、視聴率は30~40%に落ちています。ニュースはネットで観るほうが面白いという人が、着実に増えているんです。
ただし、インターネットが追い上げているという現象のもとで、ネットとテレビを分けること自体が難しくなってきているという側面もある。第二日テレのように、自社番組をブロードバンドで配信するサービスが生まれているわけです。境界線がぼやけ始めているんですね。
マスメディアとしてのネットの今後は、
技術が鍵を握っている。
映像メディアとしてのインターネットの今後には、技術というファクターも大きな要因となって影響します。
ブロードバンドに関して言うと、いわゆる、ADSLを中心とした普及は行き渡った。現在、契約者数は1500万人とも2000万人ともいわれています。光ファイバーのほうは、少し前までは2~300万人でしたが、2005年末のキャンペーンで400万人くらいに到達したかもしれない。とにかく、本命は光ファイバーです。映像配信はADSLでは、つらい。NTTは2010年までに3000万回線を達成すると宣言していますから、インフラは今後着実に整っていくでしょう。
問題は端末です。現存するものはパソコン、テレビのセットトップボックス、そしてもうひとつは携帯のワンセグ放送。でも、これらだけでは成功の見込みはないと思います。とくにパソコンはメンテナンスが大変。お年寄りや子供だけじゃなく、機械に強い人のいない家庭にも維持は無理です。私自身の経験から言っても、しょっちゅうOSが変わり、ブラウザのバージョンも変わるから使いづらくて仕方ない。自動車でいうなら、ボンネットを開ける車好きだけを対象にしているような感じ。メンテナンスフリーな環境にならないと、これ以上の普及は難しいでしょうね。
ブロードバンドが映像の主流となる。
電波が希少資源だということが再評価される。
次にテレビのセットボックスは、過渡的なものです。現状すでに、衛星放送だDVDだと、テレビの裏側の配線は、ごちゃごちゃ。そんなところにセットトップボックスです。これもまた普及には限界があるのは明らかでしょう。携帯の放送は広がるでしょうが、実際にはたとえば今日のスポーツの結果を見る程度です。あんな小さな画面を、ずっと観ていられるものではない。
端末の行き着く先ははっきりしています。テレビでブロードバンドを楽しめるような簡潔な製品です。もちろん関係者はみなそれを真剣に考えています。ですが、まだうまくいってない。ボタンを押せばすぐに画像が出てくるような機械を作らないと難しい。そういう製品が出ると圧倒的な変化が生まれます。ブロードバンド配信の主流機器は、インターネット用テレビということになっていくでしょうね。
そうなれば、電波で情報を送っていた時代は明らかに変わります。光の帯域幅は圧倒的に広い。波長分割多重という技術を使うと、配信できるデータのビット数はメガではなくテラ単位になります。1本の光ファイバーで17万番組くらいのテレビ放送映像が送れることになる。ほぼ無限ですね。
そうなると、映像配信の主流が、電波である必要がなくなる。電波という希少資源を何に使うかということを考え直す場面も出てくるでしょう。
独自の多様性を開花させる。
ブロードバンドがそれを担えるか。
では、そんな中で、映像メディアはどう変わっていくのでしょうか。私は、ふたつの方向性がありうると予測しています。
ひとつは、これまでと変わらないという予測。つまりメジャーなものが絶大な支持を受け、そのコピーが市場の大きな部分を占める状況。ハリウッドビジネスが典型ですね。巨大な資金ですごいものを作り、皆が望むものとしてそのコピーを大量にばらまく。巨大資本とメジャーコンテンツの寡占状態です。
もうひとつは多様化。私はこうなってほしいと思っています。今までのように国民全員が同じものを観るという文化が、ブロードバンドを契機に変わるかもしれないと期待している。つまりは、オリジナリティーをいかした多様性の開花です。
プロスポーツを例にとりましょう。現在のプロ野球はメチャクチャに野球のうまい少数の人だけがプレーし、それを日本中のファンが観る。テレビには、コピーが配信されている。でもむしろ、それほどでない、そこそこうまい人が集まってのローカルなプロ野球があり、そこにローカルなファンが集まり、プレイヤーもそこそこ食べられるような、そういう分散化を実現するほうがいいんじゃないかと思う。地元の高校野球を観て楽しむことが、それに近いですね。やんちゃ坊主だったあの子が元気にプレーしているのを応援するとか。今のプロ野球はロボットがプレーしているようなもの。超一流の技術のすごさが、かえって目に慣れてわからなくなってしまう。テレビを通してロボットの同じコピーを観るより、血の通ったいろんなレベルのプレーをネットで楽しむことから、健全な多様性や富の分散が生まれる。
もうひとつ同じような例え話をすると、ほとんどの前衛芸術家はまず、日本では経済的な自立は無理ですよね。彼らがそこそこ生活できるような多様な文化が必要なのではありませんか?少数のスターの礼賛は文化を画一化してしまう。いろいろな芸術のよさがあり、いろいろなファンがいていい。それをインターネットでなら実現できるのではないかということです。
映像制作者が多様化開花の
立役者になるために。
これからの映像制作者には、独自の多様性を開花させる立役者になってほしい。そうなれるかは、ネット社会が今後どういう方向に向かって行くのかにかかっています。
技術というものは、単独で自立自存しているわけでなく、利用され方をはじめ様々な社会的要因に影響されて発展するものです。たとえばテレビだって、最初は通信技術として発展する可能性もあった。それがブロードキャストとして成熟したのは歴史の要請があったからです。そして、今や近代国民国家のためには必要不可欠のものになった。つまりマスメディアとしてのテレビ放送は、同一のコピーを送り手から受け手へといちどきに大量配信することで、国民的な共感や同意を支えてきたのです。
では、ブロードバンドインターネットが、それを肩代わりするだけでいいのか。それがまさに世に問われているところです。
バラエティ番組のせいで、
視聴者はバカになるのか?
ブロードバンドインターネットで何ができるか?インタラクティブ性ひとつを取り上げても、放送と違う可能性があるのは明らかですが、本質は仕組みの工夫だけにあるわけではない。コンテンツの制作と配信にかかわる人には、。
たとえば進歩的文化人はよく、お笑い番組やバラエティ番組の低俗性を糾弾します。しかし、番組の内容がバカバカしいから視聴者がバカになるという論理は単純すぎる。問題は番組マスメディアの性質と、マスメディアを含めた社会システム全体のあり様と変化に目を向けてほしいと思います。テレビのの低俗性ではなく、テレビから流れてくるメジャーエンターテインメントのコピーに資本主義的な欲望が依存している、という状況にあるのです。
さらには、バラエティ番組を作っている人が、なぜ?と問われると、「視聴者が求めているから」と答えて自分を納得させていることにも疑問を感じます。メディアは特定の情報をいつまでも自己循環させるという構造的特徴をもっています。ですから、芸能人の浮気ニュースが一度メディアに載ってしまったら、その騒ぎがどこまでエスカレートするのかわからないし、そこには視聴者のニーズなんて実はないのです。しかし、配信する側も、受け取るほうもそれが個人の主体的な選択の結果だと錯覚している。本当は主体的な選択などではなく、視聴者はそこに“参加させられている”だけなのです。現代のマスメディアが、システムとしてそういう自己循環的な特徴を持っているということを、コンテンツ側の人間はきびしく自覚すべきでしょう。