いろんな人の「縁」と「恩」を胸に、人の心を動かす傘づくりにこだわりたい
ものづくりの街・大阪府東大阪市で創業して25年の傘メーカー、株式会社カムアクロス。国内の傘メーカーではほとんど例のない中国・自社工場を持ち、企画から製造、販売まで一貫して行うことでデザイン性に優れた高品質のレイングッズをつくっています。工場では熟練職人が技術指導を行い、日本品質の傘を安定的につくれる体制を整えていることから、ブランド品の受託製造(OEM)や企画製造(ODM)の引き合いが多く、アニメキャラクターをプリントした傘のシリーズも展開し話題となっています。
代表取締役社長の今中光昭(いまなか みつあき)さんは、これまでどんな思いで会社を築いていったのか、今後の展望と併せて伺いました。
12年勤めた会社が倒産。避けていた「社長」になる決意
起業までのキャリアをお聞かせください。
高校卒業後、専門学校に通いながら、親戚が勤める傘の製造会社でアルバイトをしたのが始まりです。もともと実家がファスナーの製造と貿易を手掛けていたので、子供の頃からものをつくる流れを肌で感じていたんでしょうね。内職さんのところを回って段取りする仕事ぶりを社長に見初められ、「12万5000円あげるから、学校を辞めてうちに来ないか」と声をかけていただきました。1984年当時、高卒の初任給は10万5000円から11万円が相場。遊びたい盛りだったこともあり、即決で「行きます!」と答えました(笑)。
入社して12年、若造の私の「こうだったらいいのに」という意見に、「じゃあ今中やってみろ」と、社長が応えてくれたおかげでいろんな仕事を経験させてもらいました。当時は傘が海外生産に変わりつつあった頃。不良品が多く、クレームが多発していたことから、台湾の委託工場へ改善を求めに出向いたりもしました。ほかにも品質が良くて身近な人に贈っても喜んでもらえそうな商品を企画したり、飛び込み営業や展示会で国内外に販路を拡大させたり、出荷や発注、仕入れをしたり…。
私自身は傘職人ではありませんが、熟練の傘職人から構造などの理屈を教わり、傘をつくる技術についても知見を得ることができました。その職人、2017年「なにわの名工」認定の渡邊政計(わたなべ まさむね)は、今では弊社の工場の技術指導にあたってくれています。
その後、なぜ会社を立ち上げたのですか?
25歳を過ぎた頃から、私は漠然と「30歳になったら新しい世界を見たい」と考えるようになっていました。そうしたら29歳のときに、会社が倒産してしまったんです。会社にも取引先にも恩義がありましたし、今までたくさんの経験を積ませていただいたこの業界で自分の力を試したいと思い立ちました。
でも本音は社長になるのがイヤで、責任がのしかからない「No.2」でいたかった。10歳のときに父が亡くなり、その後家業を畳むことになった光景を間近で見たことも影響しているのかもしれません。でも、得意先の社長から「今中君は番犬じゃない、闘犬だからね」と言ってもらったり、「今中がやるんなら」と多くの取引先の方から後押ししていただいたりして、会社を立ち上げる覚悟がつきました。
もうひとつ大きかったのは、事業をスタートするにあたり、前の会社で一緒に働いた営業、物流、商品企画、経理の仲間や、台湾や香港のスタッフが、みんな「一緒にやりたい!」と言ってくれたこと。おかげで1995年に無事創業にこぎ着けました。
なぜみなさんが付いてきてくれたと思いますか?
前職では最終的に課長の立場でしたが、社長や常務、部長に対してもおかしいと思うことには「違う!」と言ってきたことを評価してくれていたのかなと思います。
例えば、私の独断により商品企画会議で不採用になった案を進めたことがありました。当時の商品企画会議では実績のある色やパターンしか採用しない空気があったんです。でも、企画スタッフにとっても、会社にとっても新たなチャレンジをしてほしいと思って。当然社長からは大目玉を食らいました(笑)。今考えるとただの恐いもの知らずの若造。ホントにお恥ずかしい限りです。しかし、そんな若造の発言に耳を傾けてくれた当時の会社上層部には感謝しかありません。
約束を反故にされても負けずに自社工場を立ち上げ
自社工場立ち上げを、なぜ中国で行ったのでしょうか?
当初は、前職で長年委託していた台湾工場と「残っている商品は全部私が責任を持って売る」という条件で、専属工場になってもらいました。実際、約3億円分を売り切ったんですが、約束を反故にされてしまったんです…。それまで前職の会社から職人を派遣・指導していたので、その工場は品質が良い商品がつくれるという評判が立っていました。当然日本のメーカーさんから引く手あまたとなり、工場のオーナーは「他社の仕事もしたい」となったんです。
そこで私は、「それなら自分で工場をつくるしかない」と考えました。その頃、海外製の傘はそれまでの台湾製から中国製に変わりつつありました。産地移動していたんです。とは言え、中国で自社工場を持っている日本人はいなかったので、日本人初なら商売の大きな切り口にもなるというよこしまな思いもありました(笑)。
工場立ち上げには経験者の力が必要だと思っていたところ、タイミング良く委託先の工員の一人が一緒にやりたいと声をかけてくれて、傘仕事の経験者を80名ぐらい連れてきてくれました。前職での出張時などに工員さんたちと身振り手振りで対話したり、教えたりする機会を重ねてきたことで良い関係性を築けていたのか、ここでも「今中がやるんなら」と言ってくれたのはうれしかったですね。
ミシンや作業台の調達先から電気工事の発注先、日本人になじみのない食べ物に至るまで、彼らに教えてもらいながらみんなで準備を進めて、1996年に香港に近い東莞(トンカン)市で来料加工工場として操業しました。
日本国内でとは考えなかったのですか?
その頃はすでに国内で流通している傘の95%以上が海外製造でした。同じ商品を日本でつくると価格が2倍以上になってしまうので、国内で生産する考えはありませんでした。それよりも中国で生産し、「日本人が手掛けたリーズナブルで高品質な傘」であることが一番のセールスポイントだと考えたんです。
最大の取引先が倒産。ピンチを救ったのは…
順調に軌道に乗ったのですか。
最初の5~6年は、工場でのロスや経費がかさんで多少しんどいと感じることはあっても、「こんなに順調でええの?」と思うほどでした。この調子で業務を拡張させるには、より広くて新しい製造環境が必要だと考え、かわいがってくれていた仕入れ先の台湾人社長にご指導、ご尽力いただき、2001年に中国福建省の廈門(アモイ)市に独資の新工場を建て、東莞市から移転しました。
ところが、軌道に乗りかけた矢先、最大の取引先が倒産してしまい、年間利益の4倍以上にものぼる焦げ付きが発生しました。もう絶体絶命の大ピンチです。しかも仕入決済の期限が迫っていたのに加え、次のシーズンに向けて商品をつくるのにまた数億円分の仕入れが発生する…。どうしたものか思案投げ首でした。
工場を明け渡すのも覚悟で、先ほどの台湾人社長に相談に伺いました。一通り説明させていただいたところ、支払猶予と次シーズンの材料供給までも快諾していただきました。お願いしているこちらがビックリしたほどです。 私の人生最大のピンチを救っていただいた大恩人です。あの時助けていただいていなければ、今の私やカムアクロスはなかったと思います。それが36歳のときです。
本当に良かったですね。なぜその社長はそこまで目をかけてくれたのでしょうか。
その社長は2011年秋にお亡くなりになりました。その年の旧正月前に食事をご一緒させていただいた際、こう言ってくださったんです。「私はたくさんの日本人を知っているけれど、中国に飛び込んできた日本人の傘メーカーはあなただけです。本当に勇気のある若い日本人だと思いました。だから応援したのです」。思わず目頭が熱くなったことを思い出します。
その社長をはじめ、これまで出会った方々の恩のおかげで今があります。私がどれだけお返しできているかわかりませんが、元気に事業を続けていることが一番の孝行で、恩返しなのだと思っています。
創業25周年、「黒子からの脱却」を目指す
現在の事業内容と強みをお聞かせください。
傘・レインコートのオリジナルレイングッズと晴雨兼用傘を企画・製造・販売まで一貫して手掛けるほか、OEMやODMも承っています。
傘をつくるには生地の裁断から縫製、持ち手の取り付けに至るまで、工程のほとんどが手作業で、大量生産となると品質もバラつきがちです。その点、廈門市の自社工場には、現地で20年余り渡邊の技術指導をうけた弟子たちがいます。創業から25年経つ今もベテラン工員が30人以上いて、工程ごとに厳密な基準を設け、徹底した品質検査を実施し、日本製にも引けを取らない、高い品質と生産力が強みです。現在は約150名体制(直接生産人員は約100名)で生産しています。
また、大阪本社の傘工房で日本製の高級傘(販売価格¥25,000~30,000)を渡邊をはじめとする職人が手作業でつくっています。同時に傘を大事にご使用いただいているお客様のご要望にお応えするため、2018年「なにわの名工」認定の川下昭(かわした あきら)が傘のお医者さんのように隅々まで診察し、修理も承っています。
今中社長は、傘を作ることにどんな思いがありますか。
傘には雨をしのぎ、暑さを遮る役割があります。しかし、ご使用いただくお客様に機能性だけでなく、「お気に入りのこの傘を差してお出かけしたい!」と思っていただける、人の心を動かす傘をつくりたいと常に思っています。
弊社では1年で約90万本の傘を取り扱わせていただいています。即ち90万人のユーザー様がいらっしゃる。「そのみなさまが感動する傘って何だろう?」と考えると、少なくともビニール傘や安価な傘ではない。品質はもちろんのこと、斬新なアイデアを追究し続けなければなりません。これまでにないような傘づくりにも挑戦しており、お客さまが傘のアイデアをお持ちなのに他社で断られたケースでも、当社の企画力や技術力で実現に向けて取り組んでいます。
たとえばアニメ作家の方からのご依頼で、キャラクターを全面にプリントした「痛傘(いたがさ)」を製作させていただいたらヒット商品になりました。ほかにも「笑顔は世界共通のコミュニケーション」をテーマに、アート・デザインの力で「MERRY=楽しいこと、幸せなとき、将来の夢など」の輪を広げる「MERRY PROJECT」で、世界中の子供たちの笑顔がいっぱいの傘を製作しました。
今後の展望についてお聞かせください。
これまでOEMやODMも多く取り扱わせていただいてきましたが、創業25周年を迎えたのを機に、もっと会社の存在をアピールして知名度を上げたいと考えています。「黒子からの脱却」がテーマです。繊研新聞社様のご協力も得て、「傘デザイン・コンペティション」を開催したほか、キャラクターブランド傘を複数発表する予定です。
また、異業種からの参入も増えているなか、弊社は自社工場を持つ強みを生かした高品質な商品を生産できること、そして本社の工房ではなにわの名工の2人を含む4人の職人がお客様のさまざまなご要望にお応えした日本製の高級な傘を生産し、修理にも対応できることも武器に、多くの企業様や学生さんから選ばれる会社を目指していきます。
取材日:2020年11月17日 ライター:小田原 衣利
株式会社カムアクロス
- 代表者名:代表取締役社長 今中 光昭
- 設立年月:1995年5月
- 資本金:2,000万円
- 事業内容:レイングッズや日傘の企画・製造・輸入・卸販売
- 所在地:〒578-0982 大阪府東大阪市吉田本町1丁目11番10号
- 電話番号:072-967-2725
- URL:http://www.come-across.co.jp/
- お問い合わせ先:上記URLの「お問い合わせ」より