グラフィック2021.07.07

「現状を変える、原点にかえる」気づきを後押し! かえるデザイン舎はコミュニケーションを大事にブランディングし、ファンを作る

仙台
株式会社かえるデザイン舎  代表取締役 
Yusuke Endo
遠藤 祐輔
拡大

丸森の地域おこし協力隊が作った日本酒のラベルのデザイン

拡大

酒粕を使ったチーズケーキの商品パッケージ

拡大

伊達政宗の水玉模様の陣羽織をモチーフにした、仙台市・カフェミティークのレアチーズケーキのパッケージ

「誰かの課題を解決し後押しがしたい。それができるなら、デザイナーじゃなくてもいいんです」と話す、かえるデザイン舎代表取締役社長の遠藤祐輔(えんどう ゆうすけ)さん。

仙台のデザイン学校を卒業後、アパレル業界に勤め、3回の転職を経て、フリーのデザイナーとして独立。2021年4月1日に株式会社としてスタートしました。人と人のコミュニケーション、ヒアリングを大切に仕事の可能性を広げてきた遠藤さんに、これまでの歩みや、会社へのこだわり、これからの夢などについて話を伺いました。

 

デザイン学校の先生の言葉でグラフィックデザインに転向

 

もともとデザイナー志望だったのでしょうか。

子どもの頃から絵を描くのが好きで、高校卒業後は絵が上手になりたくて、仙台デザイン学校に入学しました。入学すると絵が上手な人がたくさんいて、自分はまだまだと思い知らされました。2年に進級する前に適性を見直す機会があり、担任の先生から「君の得意分野はコミュニケーションだから、イラストを描くより、人と話をして課題を見つけて、情報を整理するデザインの方が絶対向いている。デザインの分野に進んでもイラストはついて回るから、イラストも描けるデザイナーになるべき」と言われて。そういう道もあるのかと気づかされ、イラストデザインコースからグラフィックデザインコースに転科しました。そこで、本格的にグラフィックの勉強をして、アイデアの出し方、デザインをするときのサムネイルの書き方、コピーライティングなども含めて、“デザインとは何か”を学べたのは大きかったと思います。先生たちとの距離が近くて、学生をよく見てくれていました。その先生の言葉がなければ、今この仕事をしていなかったと思いますし、大きな転機になりました。

卒業後にアパレル業界に勤めたのはなぜですか。

当時、学校の求人を見ても印刷所のオペレーターなどはあっても、デザインをする仕事は少なくて、デザイン業界の就職は難しいと思いました。そんなときに、好きなファッションブランドの求人広告を見て、Tシャツのデザインや商品企画などをしたいと思って応募しました。たまたま、その会社の部長と親しくなったこともあり、とんとん拍子で就職が決まりましたが、「現場で売れるものがわからないと、売れるデザインもできないから、まず売り場に立って」と言われたんです。Tシャツのデザインはさせてもらえませんでしたが、新店舗の立ち上げで全国各地を回ってさまざまな人と話ができて、お客さんが欲しいものを見抜く力やヒアリング、マーケティング力を養えたので、結果的に良かったです。

 

東日本大震災、交流会での出会い、結婚をきっかけに3度転職

それからデザインの仕事に就くまで、いろいろご経験されたそうですね。

アパレルの仕事をしているときに東日本大震災が起きて、「全国を渡り歩いてTシャツを売っている場合じゃない」と、地元の宮城県に戻りました。当時はガラケーからスマートフォンへ移行する時期で、アプリのデザインを学びながら報酬がもらえる職業実習のようなものがあったので、これからアプリがくると思い参加。 半年間勉強しましたが、スマホのアプリの開発は苦手でマスターできませんでした。でもクリエイティブ関連の人たちとの距離が近くなったんです。

クリエイターの交流会やコミュニティにたくさん参加して、自分で作った名刺を使って名刺交換もしました。そこで仲良くなったデザイン事務所の代表に誘われて、初めてデザイナーの仕事に就きました。主な仕事は、ロゴマーク、チラシ、名刺、ポスター、グッズの制作、Webの制作とカスタマイズなどでした。

26歳のときに結婚。翌年、第一子が生まれ、稼ぐために会社員に転職。震災復興に関わる建設系の派遣会社で、東北と札幌の支店長を務めましたが、身体に危険を感じるほど忙しくて退職。人材派遣会社に登録して転職をしようと調べて、デザイナーに特化した求人サービスを行っているフェローズ仙台支店に登録、広告代理店を紹介してもらい就職。主に、お客さんと打ち合わせをして、企画を考え、デザイナーに仕事を発注するディレクションの仕事を1年くらい経験し、その後フリーランスとして独立しました。

 

肩書きはデザイナーでも、メインの仕事はコミュニケーション

フリーのデザイナーとなり、今の基礎ができたわけですね。

それまでの仕事経験も無駄になったことはひとつもなくて、今につながっています。

以前から一人で何かをやりたい気持ちはありましたが、家族と話しても折り合いがつかなくて。でもこのときは「身体を壊すくらいなら独立して一人でやってもいいよ」と賛成してくれました。

根本にあるのは、誰かが困っていたら解決したいという思いで、デザインじゃなくても良かったんです。人と話して、何か面白いことで解決していけるなら、デザインじゃなくても良かった。ただ、自分ができることで、他人にも自分が何者であるか分かりやすいのがデザインだったんです。今も、デザイナーという肩書きですが、「面白いことをしている人」でいたい。自分では、コミュニケーションがメインの企画屋さんのような仕事だと思っています。

フリーのデザイナーになって、どのように仕事を増やしたのでしょうか。

最初の一ヵ月くらいはひたすら交流会に顔を出して友達作りをしていましたね。東京なら別なやり方があるかもしれませんが、仙台では人付き合いを一番に考え、覚えやすい名前と、キャラクターをつくりました。「かえるの面白い人がいたな」と印象に残すためです。交流会に数回顔を出すと、顔なじみができて、次々と友達の幅が広がっていきました。

僕自身を面白いと思い、人間性で選んでもらう。「遠藤さんと何かやってみたい」というお付き合いですね。当初は、交流会で会った人、友達の友達と仕事をすることが多かったです。友達の紹介だと、僕は友達の顔に泥は塗れないプレッシャーがあるし、友達も変な人は紹介できない、結果的にいい仕事ができて、みんなの株が上がって、口コミで次に広がりました。

フリーランスは、仕事も友達も増えて、楽しいことばかり。一緒に仕事をする相手を選べるし、自分で作業を調整できる。得意な人にお願いしたり、足りないところは補い合える。大きくは変わりませんが、税金とか保険とか経営面のメリットを考え、2021年に個人事業主から株式会社にしました。

現在の事業内容を教えてください。

簡単に言うとブランディングのお手伝いをしています。新しく会社や事業を立ち上げる際に、ヒアリングからコンセプトや世界観を決めて、ロゴ、イメージキャラクター、コーポレートアイテムを作成。さらに名刺、看板、暖簾、Webサイト、チラシなど、ブランディングに必要なものをトータルで制作する仕事が多いです。先にコミュニケーションがあって、雑談をしながら課題を見つけます。「かえるデザイン舎」の名前は「現状を変える、原点に返る」といった意味を込めました。お客さんが今悩んでいる現状を打破して、戦略を一緒に考えて、本当は何をしたかったのかという「原点」に戻るためのお手伝いができればと思います。「Webサイトを作りたい」と相談されてもSNSだけで十分な場合もあります。相手に合わせたオーダーメイドで、お金を使わせないことも仕事です。「クリエイティブにお金をかけなくても良かった」なんて後悔してほしくないんです。

 

医療業界や飲食関係などの実績を積んでフリーから株式会社へ

フリーになってからの仕事で、印象に残っている案件を教えてください。

医療関係で初めて担当したのが、ゆうき婦人科産科クリニックさんでした。長町に新しくクリニックを開院するときに、院内を施工する会社の人と交流会で知り合って、クリエイティブの部分を依頼されました。

院長先生と直に打ち合わせをしたときに「平仮名の『ゆ』をロゴマークとして使いたい」というご要望がありましたが、温泉みたいになっちゃいますねと笑いながらも先生の思いを大切にしつつ、母から子どもへの贈り物のようなリボンやへその緒、つながり、産声という音楽のト音記号などもイメージしながら、先生のこだわりである『ゆ』にも見えるロゴを作り、名刺や封筒、診察券、Webを制作しました。

ただ、パンフレットや看板はそれぞれ印刷会社さん、看板屋さんが担当され、その当時の仕事のやり方が、私には多く学びになりました。トータルで制作をまかせてもらえるように提案するようになったのもこのときからです。

飲食関係では、仲良くなった丸森町の地域おこし協力隊が作った日本酒のラベルのデザインや、酒粕を使ったチーズケーキの商品パッケージを担当。これをきっかけに、パッケージデザインを少しずつ頼まれるようになりましたね。

仙台市のカフェミティークのブランディング、ロゴマークなどをまかせてもらうことになり、そこで作ったレアチーズケーキのパッケージもデザインしました。伊達政宗の水玉模様の陣羽織をモチーフに、チーズケーキを宝石に見立てて宝石箱をイメージしました。

コミュニケーションを広げる、人と仲良くなるコツがあれば教えてください。

僕は単純に人と話をするのが好きで、常に周りを大切にして、自分も大切にしてもらってきました。コツではありませんが、嘘はつかない、常に対等な関係でいられるようにしています。また、仲良くなれない、エネルギーを使いすぎてお互いにプラスにならないなら、無理に合わせる必要はなく、距離をとるようにします。

 

自分も周りもワクワクするような面白いことに挑戦していきたい

「DOWZO(ドーゾ)」というサービスについて教えてください。

僕は高校卒業後に保育の道に進もうかと迷ったくらい子どもが好きで、子どもが自死したりしない世の中を願っています。今は6歳、5歳、2歳の3児の父親です。親は子どもの写真をたくさん撮るので外見の成長は分かりやすく残せますが、内面の成長は残すのが難しい。3歳になって描ける絵があります。ただ1才のときに描いていたぐちゃぐちゃな絵、奇抜な色遣いの面白さ、尊さも残せたらいいなと思います。

「DOWZO」は、子どもが描いた絵をデザイナーが色やバランスを調整して、劣化しにくい特殊な素材で整えてアート作品として仕上げるサービスです。東日本大震災で写真が泥にまみれた経験から耐水性も重視しました。子どもの絵をアートにするサービスはたくさんありますが、「DOWZO」は子どもが描いた絵をできるだけそのまま活かして、デザイナーが最小限の手を加えるだけです。子どもが描いた絵をまとめて押入れにしまっておくのではなく、飾ってあげたいですね。

今はコロナ禍でできていませんが、外で大きい布を広げて自由に絵を描くイベントも組み合わせて、子どもの絵を残すサイクルを作りたいと思っています。今は手が回らず止まっていますが、一番やりたいことです。

「DOWZO(ドーゾ)」のほかに、これからチャレンジしたいことはありますか。

東北でデザインイベントを開催したいです。東京ビッグサイトで年2回行われるイベント「デザインフェスタ」のようなものです。出展料を始め、制作費や交通費、宿泊代といった費用で、関東での開催に参加しにくいクリエイターたちの悩みをよく耳にします。地方のクリエイターの活性化になればと思い計画していましたが、現在コロナ禍で進んでいません。

会社としてのこれからの夢、展望を教えてください。

自分も周りもワクワクするような、面白いことをやる集団でいたいです。「惜しい、せっかくあるのにもったいない」と思うものを教えて、後押しができればと思っていて。子ども達の感性の後押し、自己肯定感の後押し、東京のデザインフェスに参加できないクリエイターたちの後押しもそうだし、コロナで苦しんでいる飲食店の後押しも何かできたらいいと思います。ざっくり言えばデザインだけにこだわらず、みんながハッピーになるようなことができればいい。

若いクリエイターにメッセージをお願いします。

やらない後悔よりやる後悔、という言葉が好きです。今の若い世代は、一回でもミスをしちゃいけないという感じがすごくあると思います。僕は転職を3回もしていますが、どれも現在に経験として活かせています。辛いなら、力を発揮できないなら、環境を変えることは逃げではありません。

一度の人生、息苦しくないようにしたいと思っています。人に迷惑をかけなければ、何をやってもいいはずです!「まずはやってみよう!」と言いたいですね。

取材日:2021年5月19日 ライター:佐藤 由紀子

株式会社かえるデザイン舎

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP