WEB・モバイル2021.10.06

広告戦略立案や様々な企画をゼロから挑む08LABO。大手広告会社で得た知識と経験を生かし富山をちょっとだけ元気にしたい。

富山
株式会社08LABO(レイワ・ラボ) 代表取締役
Yutaka Nakabayashi
中林 寛

目標を達成するというのはゴールではなく、次の目標へのステップかもしれません。中林寛(なかばやし ゆたか)さんは富山県内の高校を卒業後、進学のため上京しました。

大手百貨店グループのハウスエージェンシーに勤務し、「電子商取引」の国内での広がりを受け、百貨店のオンラインショッピングサイトの立ち上げに力を尽くします。その後、ふるさと富山へ戻り、大手広告会社の富山支店に転職し、自治体や民間の様々な企業の広告・広報業務のプランニングから実施、効果測定まで幅広く多くの経験を積み、さらなるスキルアップにつなげ、多くのチャンスをものにし、影響力のある仕事に取り組むことができました。

「やるべきことはやり尽くした」と次に目指したのは独立。取引先だったデザイン・Web制作会社の社長から事業を譲り受け、株式会社08LABO(レイワ・ラボ)と社名を変更して事業の継続発展に着手しました。そのミッションは「ゼロから無限大を生み出す」と語る中林さんは新たな次の目標へと歩みを始めています。

 

地域に根差した「クリエイティブエージェンシー」を目指して

「レイワ・ラボ」の立ち上げまでのキャリアについて教えてください。

東京でデザイナー兼ディレクターとして働いていましたが、ある程度のスキルを積んで富山へ戻り、大手広告会社の富山支店に勤めました。そこで様々な広告やイベントなど大きな業務に関わったんです。

北陸・富山にとっては時代の大きな節目となる、2015年3月の北陸新幹線開業に向けたいろいろな仕事に携わることに。

私はクリエイターとして、また管理者としてさまざまな業務をこなし、「新幹線開業」という大きなプロジェクトを成し遂げ、自分の中で、やるべきことはやりつくしたという思いが強く、開業翌月の4月に退職しました。

そこで独立・起業は考えなかったのですか?

実家は富山県東部の魚津市で、古くから地元に根差した屋外広告の制作やサイン・ディスプレイ・イベントの設営等を行っていました。社長である父親も年齢を重ねていましたので、広告会社を退職した後は、家業を継ぐために専務の職に就きました。

新たな業務で拡大していった際に、前職で取り引きがあった、富山市内にあるデザイン・Web制作会社の社長から「体調を崩したので事業を引き受けてくれないか」という打診がありました。

前職時代には、制作パートナーとしてともに汗を流し、私が退社する際も、親身になって様々な相談に乗ってもらい、その後もパートナーとして様々な仕事に取り組んでいた矢先の出来事でした。

お世話になった社長からの頼みであり、恩返しのつもりで快く引き受けることにしました。

譲り受けた会社の名前を「レイワ・ラボ」と変更しました。由来をお聞かせ願えますか?

事業譲渡による新たなスタートが「令和元年(2019年)」だったことが名前の由来の一つです。「レイワ」のロゴマークには「08」(レイワ)の数字を当てました。これは私を含めて“スタッフ計8人がゼロからのスタートを切る”という意味を込めました。

さらに「8」は横にすると、無限大を示す記号∞(インフィニティ)になります。そこで「ゼロから無限大を生み出す」という会社にとって最も重要なミッションを設定しました。

ご実家との兼ね合いはどうされたのでしょうか?

まず業務としては、レイワ・ラボは、広告戦略に基づくコミュニケーションデザインの提案をします。具体的にはグラフィックやWebのデザインや動画など全ての制作を行う、ソフトが中心の「クリエイティブエージェンシー」です。

一方、実家はレイワ・ラボで企画されたものを屋外での展開やイベントの設営・運営などリアルな現場を受け持つ、いわゆるハードを中心とした会社、というすみ分けです。

現在、レイワ・ラボと実家の代表取締役を務め二足のわらじを履いています。

偶然が重なり、大手百貨店グループの広告会社へ

幼いころから実家がイベント・看板製作会社だったことの影響はありましたか。

実家の会社は1956年に祖父が設立。子どもの頃からたくさんの人が出入りし、看板を制作する現場を目の当たりにして育ちました。

台風の前後は、お客さまから「看板が風で飛んでいったので直してほしい」という電話が入り、深夜に父親にたたき起こされ現場に向かい、看板を取り外す手伝いをさせられたのはいい思い出です。いまだに強風時はトラウマですが。

そんな意味では、商売やモノづくりの空気を常に感じながら育ったといえるのでしょうね。進学のため高校卒業後は都会に憧れて上京しますが、「いつかは家へ戻らなくてはいけない」という気持ちは常に頭の片隅にありました。

東京ではどのような仕事をされていたのですか。

当時はApple社製のパーソナルコンピューター初代の「Macintosh」や「Macintosh Classic」が市場に出回り始めたころ。

まだまだパソコンソフトを使いこなす人材が少なかった中、私は子どものころから、日常的にゲーム機や当時のコンピューターで遊んでいたためにパソコンの扱いに抵抗もなく、比較的苦労せずにパソコンを使ったデザインスキルを身につけられました。

そのスキルが重宝され、大手百貨店グループの広告制作会社、いわゆるハウスエージェンシーに入社することになりました。

大手百貨店の広告制作とは華やかな舞台ですね。

デザイナーとして入社し、ポスターやチラシ、通販カタログなどの制作に携わりました。しかしそこで、多くのデザイナーと出会い彼らの仕事を目の当たりにして、「デザイン力で勝負してもかなわない」と考えるようになります。

幸い経験を積んだこともあり、ディレクション業務へとシフトできました。販売促進のバイヤー、デザイナー、コピーライターたちと力を合わせ、お客さまにより訴求する企画やデザインの制作に没頭します。

いまでは当たり前のダイレクトマーケティングに当時から関わる

当時の通信販売ってどんな感じだったのでしょうか。

百貨店は対面販売が基本です。その中で店舗のない地域や大型家具やお悩み商品などは当時から売れていました。宝飾品も百貨店のロゴがしっかり入った認定品など、そのカタログ制作に携わり通信販売の仕組みや、どうやったらモノが売れるのかを徹底的に学びました。

写真ひとつ、キャッチコピーで売り上げが何倍も変わるんです。通信販売は紙面が売り場。ABクリエイティブテストなど、当時から最先端の広告戦略やマーケティングを組み合わせたクリエイティブとは何か、を考え続けていました。

そしてもう一つ、百貨店のオンラインストアの構築に関わったことが思い出深いですね。「電子商取引」「eコマース」と呼ばれた1990年代、「楽天市場」が立ち上がった頃で、うちも他の百貨店に先駆けて取り組むことになりました。

サイトをどのように見せるのが効果的か、百貨店の高級感をどう表現するか、当時ナショナルブランドが百貨店サイトで通販を行ったのも日本初でした。悩みながら立ち上げにこぎ着けました。

重要な案件を担当される中、なぜ富山へのUターンを考えたのですか。

大きなプロジェクトを達成する中、理由はいろいろありますが、サケが母川に帰巣するような本能的欲求なのかもしれません。

Uターンを考えるに当たって、広告会社の東京本社の知人を頼りの富山の営業所で「私を雇ってくれませんか」と売り込み、運よく採用が決まります。

順調に遡上(そじょう)できたのですね。

ところが、百貨店で仕掛かりの案件もあり、すぐにUターンとはいきませんでした。ちょうど2000年を迎え、コンピューターが誤作動する可能性があるとされた「2000年問題」があり、これを無事乗り切り円満退社が認められたころには、富山で内定をいただいてからかれこれ1年が過ぎていました。

時間が経過したことで社内では「もう(採用は)いいんじゃないの」という声もあったようですが、当時の上司が「ぜひ、一緒に仕事がしたい」と言っていただき無事入社できました。

エリアを超えた様々なプロジェクトを成し遂げ独立

 

そこからは、ふるさとが仕事場になります。

北陸の有名な企業や団体とは、誰もが知っている大きく影響力のある仕事をさせていただきました。クライアントは電力会社や製薬メーカー、食品メーカーなど幅広く、CM制作やイベント企画、販売促進活動といったさまざまな取り組みを行いました。自治体のPR広報もいろいろと手掛けましたね。

当時は東京への出張は飛行機が主で、おかげさまで短距離にも関わらずマイルがたまり、ステイタスメンバーになれました。そのくらい国内外を飛び回っていました。

活躍される中で、独立を考えられたのはなぜですか。

2015年3月に北陸新幹線の金沢開業を迎えることになりました。従来の東京-長野間が延伸され、新たに富山を経て金沢までが結ばれました。

県内の経済界、自治体にとって経済効果の大きな「百年に一度の好機」と期待が高まり、私が富山の会社に入ったころからは、観光誘客や企業誘致のための企画やPRの動きが大きなうねりとなっていったのです。

私自身も汗を流し知恵を絞り、開業プロジェクト業務に全力で取り組みました。その間、制作責任者として管理業務もこなしていくようになりましたね。開業後、大きなプロジェクトを達成したという充実感とともに、自分の立ち位置でできることはやり尽くしたと感じ退職を決意。いまだに感じるのは富山が置き去り感が強く、とくに実家のある魚津はとんでもない状態。そこを今まで培ったスキルで微力だけど、自分自身でどうにかしたい思いが強かったです

今後、「レイワ・ラボ」ではどのような取り組みを計画していますか。

当社のミッションは「ゼロから無限大」=0から1へとモノやコトを動かすチカラだと考えております。

それは単なるデザインをすることではなく、コミュニケーションをデザインすること。「人」の「心」を動かすこと。多様化する案件を0から無限大まで成長させていくため、クライアントに最適な広告戦略を提案し、効果の最大化を図るクリエイティブエージェンシーを目指しています。

そして、富山県は食材の豊富な土地です。魚介類に加えて、米も野菜も肉もおいしい。そこで、地元の農業組合と連携し、新鮮で安心、安全な食材を使い、キッチンカーで調理したばかりの食を提供するイベントの企画・運営を予定しています。
これもクリエイティブエージェンシーならではの取り組みのひとつです。デザインだけ、映像だけ、WEB制作だけ、メディアプランだけでは、先が見えています。

新型コロナウイルス感染拡大により多くの方が各地に足を運ぶことが制限される中で、こちらから出向いて都市部をはじめ豊かな食の魅力を伝えられたらと願っていますね。

地域に根差し、地域の特性を生かした取り組みが期待されます。

地域の特産品である立山杉を生かせないか、国の伝統的工芸品に指定されている木彫の「井波彫刻」の技とコラボして何か新たなモノを生み出せないか、などと考えています。富山にある素材や技術をアイデアで組み合わせて、発信していきたいですね。

そして、2つの会社でできることは限られていますが、ひとつひとつに丁寧に向き合い、最善のクリエイティブエージェンシーとしての提案を行い実行する。その積み重ねが「人」の「心」を揺さぶり、ちょっとだけ富山を元気にできたら最高です。

取材日:2021年8月20日 ライター:加茂谷 慎治

株式会社レイワ・ラボ

  • 代表:中林寛
  • 設立年月:2019年10月
  • 事業内容:広告戦略立案、グラフィックデザイン・イラスト・アニメーションの制作・販売、テレビCM・各種動画の制作・販売、Webマーケティング戦略立案、Webサイトの制作・販売、モバイルアプリの開発・制作・販売、イベント企画・運営、富山県産品を活用した加工品の企画・開発・販売
  • URL:https://www.08labo.jp/
  • お問合せ:info@08labo.jp

※会社名、製品名、サービス名等は、それぞれ各社の商標または登録商標です。

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