東京の記者から北海道のTV番組ディレクターへの転身~これからも現場を楽しんでいきたい
テレビ番組制作や映像制作を行っている「株式会社アトリエ北海道」。代表取締役の久田英彦(ひさだ ひでひこ)さんは、現場ディレクターとして30年近く映像業界に携わってきました。現場で業界を見てきた久田さんに、これまでの活動と現在の業界動向、今後の取り組みについて話を伺いました。
北海道のプロダクションでテレビ番組の立ち上げに携わる
立ち上げ以前の経歴、職歴についてお聞かせください。
大学卒業後は東京の新聞社に就職しました。ちょうどバブル絶頂期で、何よりもステイタスが優先の時代だったので、私も例に漏れずステイタスだけで選んだという感じです(笑)。ひと通りの新人研修を終えて配属されたのが、当時できたばかりの映像部門で、記者としてテレビ番組のニュースに関わる取材を行っていました。
テレビ局に出入りしていると、たまにニュース以外の番組制作の現場に出くわし、タレントさんのいる華やかで楽しそうな現場に、自分も番組制作の仕事をしてみたいと憧れる気持ちが強くなり、映像の世界へ転職しようと、2年で新聞社を退社しました。また、このタイミングで住む場所も変えてみようと思い立ち、北海道へ移住しました。
東京出身の久田さんが、北海道に移住された経緯は何だったのでしょうか?また、その後のキャリアについて教えてください。
自然への憧れが強くあり、体型的に暑さに弱く、寒さに強かったので、おのずと北海道を選んでいました(笑)。
札幌の制作プロダクションを探して、1991年4月に入社しました。その年の10月に、STV(札幌テレビ放送株式会社)の夕方の情報番組「どさんこワイド120(現:どさんこワイド179)」の立ち上げに合わせ、当時勤めていたプロダクションから私を含む4人がディレクターとして加わることになりました。私が担当したのは札幌駅前からの生中継で、アナウンサーが通行人にインタビューをしたり、視聴者にテーマに沿ったアイテムを持って集まってもらったり、といった視聴者参加型のコーナーでした。
独立されたきっかけは何ですか?
「どさんこワイド」が始まって半年くらい経った頃に、番組プロデューサーから番組に加わった4人での独立を勧められたのがきっかけです。特に崇高なビジョンはありませんでしたが、なんか楽しそうだし皆でやってみようと、1992年に「有限会社プランニング金久(株式会社アトリエ北海道の前身)」を設立しました。社長はなぜか私がやる羽目になりました(笑)。
現場と社長業との兼任は大変ではありませんか?
社長業を特に行うわけではなく、これまでと同様に番組ディレクターとして働いていました。番組の視聴率もうなぎ上りだったため、毎日が文化祭の前日の様に楽しくて仕方ありませんでしたので、社長という自覚はほとんど無かったです。
ただ飽きやすい性格もあり、若いスタッフが入社した時にこれはチャンスと捉え、「番組外で稼いできます」と言ってスタッフに現場を任せ、社長業に専念する事にしました。しかし、番組作りしか知らない20代半ばのお兄ちゃんに世の中は甘くありませんでした。いくつか出した企画がボツになると 知り合いの飲食店でバイトをしたり、バイクで鹿児島まで行ったり、社長業をサボリまくっていました(笑)。やがて他の立ち上げスタッフに所業がバレ、以降は反省の意味を込め様々な放送局で助っ人ディレクターとして働きました。色々な放送局で働くうちに、どの放送局やどんな現場であっても やりたい演出を貫く「自分スタイル」を発見し、その心意気のまま現在に至っています。
昔はフットワークの軽さ、今は経験値が強み
具体的な事業内容について教えてください。
テレビ番組のコンテンツ制作と、CM プロモーションビデオの制作です。営業活動は特にしていませんが、様々なクライアント、プロデューサーから声をかけてもらえます。この点は制作に専念できるので、本当にありがたく思っています。
御社の強み、セールスポイントについて教えてください。
何よりも人と会って現場の空気感を感じる事が好きなので、すぐ打ち合わせや下見に出かけるフットワークを売りにしてきました。ただ現在は身体がついていかないので(笑)、これまでの経験値を頼りに「自分スタイル」で仕事をさせて頂いています。
印象に残っているお仕事、エピソードについてお聞かせください。
30代前半の頃に、番組内で放送する漁業関連のコンテンツ制作を1年半ほど行いました。その制作手法は独特で、まずノープランで港町に向かい、そこで漁師さんや浜の母さんと酒を酌み交わし、コミュニケーションを取りながら演出プランをリポーターと練り、撮影を行うというスタイルでした。通常撮影はプランを組んでからロケ先に向かいますが、現場の雰囲気を感じながら構成を組めるという、映像制作者にとって至福の経験をすることが出来ました。ただ、そんなノープランに付き合ってくれる技術スタッフは少なく、気が付いたらカメラ・照明などの技術仕事は私とリポーターの二人でこなしていました(笑)。結果「自分スタイル」にさらに磨きがかかったのは言うまでもありません。
この漁業関連のコンテンツ制作と並んで印象的な業務がもう一つあります。
札幌市内の学校で配布する環境教育情報紙の企画で、情報誌と連動した番組を作りました。内容は、子供たちが主役となって環境問題を考えるというものです。番組サイドの出演者として大人や子どもタレントは登場させず、とある児童会館に声をかけ、希望する子供たちに出演してもらいました。
「普通の子どもが環境問題をどう考えるのか?」それを大切にして番組制作を行いました。
その番組出演者の中で、自分で小説を書いているという意識の高い中学生の女の子がいて、その子の小説を元に短編映画作品「アプリ少女」を作りました。この短編映画は会社全員を巻き込んで制作しましたので、当時社員は平日に通常番組制作業務、土日は短編映画製作と彼らに大変な苦労をかけてしまいました。さらに当時は反省もせずに製作規模を広げ、札幌市と新篠津村の子供たちとの合作で「トモダチ」という作品も撮りました。会社のスタッフを引き連れて、春休みや夏休みを使ってロケをしたのが楽しかったですね。収益化とはなりませんでしたが、今でも子どもや社員と作った短編映画は自分の誇りと思っています。
テレビは公共性を守りながら、安心して見られるメディアであってほしい
会社設立から30年近く経ちますが、振り返ってみて、映像業界の変化をどのように捉えていますか?
テレビ業界に限ると、「花形産業」から「守るべきモノ」に変わってきていると感じています。テレビ番組制作はひと昔前までは「花形産業」でしたが、今ではネットに押され先行きが怪しいとさえ言われています。ではこのまま衰退しても良いのかというと、決してそんな事はありません。私たち番組制作者には、情報を簡潔に分かりやすく伝える力があり、また誹謗中傷せず、偏りを持った情報を流さないというリテラシーも備わっています。そしてその技術の結晶が番組です。昨今の日本の番組制作実態には疑問を感じますが、先輩たちや私たちが培ってきた技術や理念は、情報が蔓延する現代でこそ「守るべきモノ」と言えるのではないでしょうか。
YouTubeなどのWebサイトについてはどのように考えていますか?
私は視聴者としてYouTubeを純粋に楽しんでいます。
驚いたのは、世の中にはモノを伝えたい人がこれほどたくさんいるんだということです。伝えたい気持ちは私たち番組制作者以上じゃないかなと感じる時もあります。この点については、私たちも見習わなくてはいけないと思っています。
ただ、中には裏が取れていない、ネットの情報の丸写しというものもあって、それを垂れ流しにしているのは心配です。
今後の取り組みや将来のビジョンを教えてください。
会社としては、「自分スタイル」を貫きたいので、仕事を限定し、今は新規の取引先を増やさないようにしています。また私個人としては引退まであと何作手掛けられるか分からないので、全ての作品に全力投球していけるよう気力体力に注意しています。
今後どのようなクリエイターといっしょに働きたいですか? また、クリエイターを目指している人にアドバイスをお願い致します。
「自分スタイル」主義者なので特に一緒に働きたいクリエイターさんはいないです(笑)。クリエイターを目指すなら、自信と決意しかありませんね。時には運も必要ですが、自信と決意さえあればフリーランスでも生きていける能力が持てると思います。また、とにかく「自分スタイル」で仕事を楽しんでほしいですね。
取材日:2022年4月1日 ライター:八幡 智子
株式会社アトリエ北海道
- 代表者名:久田 英彦
- 設立年月:1991年4月1日
- 事業内容:テレビ番組制作、プロモーション映像制作など
- 所在地:〒060-0001 札幌市中央区北1条西9丁目3-10 松崎大通ビル8F
- URL:http://atelier.tv/index.html
- お問い合わせ先:上記コーポレートサイト内「お問い合わせ」より