夢の局アナウンサーとして就職、3年で起業した理由とは?タレントの力で新潟を盛り上げたい
東京で生まれ育ち、幼いころからの夢、アナウンサーになることを新潟で実現した元・TeNYテレビ新潟のアナウンサー・大島 巧(おおしま こう)さん。2024年7月に同社を退社し、新潟をフィールドに新たに株式会社トークパスを立ち上げ、自ら代表に。会社立ち上げまでの経緯やその動きの要因、今後の事業への思いなどを聞かせていただきました。
アナウンサーに憧れスクールへ。一度は夢を諦めるも再挑戦、その理由は?
アナウンサーには小さいころからなりたかったのですか?
はい。しかし、本格的に動き出したのは、ほかの人よりもずっと遅くて、大学3年のゴールデンウィークにアナウンススクールに通い始めました。当時は大学4年6月から就職活動の解禁だと思っていて、まったく準備をしていなかったのですが、大学の先輩からインターンという名目で採用が始まると聞き、慌てて通い始めました。
アナウンススクールに通い始めた当初のアナウンサーに対する印象を教えてください。
スクールの扉を開けた瞬間、「場所を間違えたかな」と思ったことを覚えています(笑) 僕はゴルフ部の活動があったので、大学の制服のまま、スクールに行ったのですが、扉を開けたら全員がアナウンサーっぽい格好。女性はきれいな服を着ていて、男性はポロシャツを着て爽やかな印象。見た目からして、負けたって。みんなは1年、2年生のときから通っているからスキル面でも当然、差がありました。行き帰りの電車で目に見える景色を実況したり、自宅の車庫で発声練習をしたりと人一倍努力を重ねました。
そうしたなか、採用試験が始まります。大島さんはどのような形で試験に臨んだのですか?
プロ野球とJリーグの実況をしたかったので東京、大阪、福岡、北海道、名古屋と規模感の大きい局の試験を受けました。しかし、ご縁がありませんでした。一般企業の採用試験も受け、内定をいただいていました。でも、どうしてもアナウンサーになることへの夢が捨てきれず、NHKとTeNYテレビ新潟の採用試験を見つけ、受験することにしたんです。
最後に挑戦することにしたその原動力は何でしたか?
僕が一般企業の内定をいただいた後、アナウンススクールの同期たちがアナウンサーの内定を続々ともらうようになったんです。そのたびに彼らのお祝いをする。「なんで僕は祝っているんだろう。内定をもらっているのになんで祝ってもらえないんだ」と。そう思うと悔しくなってきて……。これが原動力かもしれません。
採用面接でぼんやり感じた「ここで働くんだ」。入社当時から3年後の“ある節目”を決めていた!?
当時のTeNYテレビ新潟の採用試験を振り返っていただけますか?
とにかく面接官の方々に僕の話を引き出してくれたことが印象に残っています。それまで受けてきていた試験とは雰囲気がまったく異なり、ぼんやりと「ここで働くんだな」と思ったほどです。リラックスしながら自分の思いを伝えられました。
アナウンススクールの同期の反応は?
内定をもらってすぐにお祝いしてくれました。とてもうれしかったのと同時に、どこかでみんなと交わる方法を探し始めました。いずれ新潟を離れて東京に戻るのか、新潟で成果を残して、東京とつながるのか。そういった未来思考にこのタイミングで切り替わったのを覚えています。
独立という思考はいつからあったのですか?
TeNYテレビ新潟入社時にはすでにありました。日付のカウントダウンアプリに3年後には会社を辞めて、フリーアナウンサーになるか、自分で事業を起こすと決め、カウントダウンを始めていました。3年という期間の間に、ジャンルを問わず多くの人脈を作り、仕事で結果を残していく。自分が新潟に来た意味を考えながら、マンダラチャートを書きましたね。大島巧の人生のなかでアナウンサーというのは一つのフェーズであると捉え、将来から逆算したときにこのフェーズをどう使うか、生かすかを考えていました。
当時の新潟のイメージを教えてください。
海、海鮮、お米、自然の豊かさ、山、ウインタースポーツ……。その印象も仕事を重ねるうちに変わっていきました。特に大きかったのは、アルビレックスに関係するお仕事、なかでもサッカーですね。1年目でDAZNの実況を担当し、これだけ多くの人が集まるコンテンツが新潟にあるんだと、驚きました。先輩アナウンサーの方から「今はコロナ禍だから来場者はまだまだ少ない。多いときは4万人もいたんだ」と聞き、人を引き付ける魅力的な場所なのだと知りましたね。
今現在の新潟の印象を教えてください。
新潟の町は、それぞれの特徴がはっきりしています。上越といえばスキー、村上なら酒に鮭。長岡ならラーメン……。情報バラエティのメインMCをさせていただいていた際に毎週、その土地ごとの名物などをご紹介していたから余計にそう思うのかもしれませんね。
大学時代の恩師の教え「社会にインパクトを残す人になれ」。二足の草鞋で“やりたい”を実現
起業の件を含め、大島さんの今に大きく影響を与えた人はいますか?
大学のゼミの先生、鈴木寛先生ですね。鈴木先生のゼミは、ソーシャルプロデューサーになることだけを追求したゼミ。「何年かかってもいいから社会にインパクトを残せる人になれ」という教えでした。アパレル事業を主とした会社経営者や愛知県日進市の最年少市議会議員、チャンネル登録者数600万人超えのYouTuberなど、本当に個性豊かなメンバーがそろうゼミでした。そういった仲間、恩師の影響が今の僕の言動に大きな影響を与えていると思います。
フリーアナウンサーになるのではなく、起業することにした要因は?
Jリーグの実況をさせていただいているなかで、フリーアナウンサーになるという思いが強くなるタイミングがありました。しかし、ふとしたときに「会社の代表をしながらでもフリーアナウンサーをしていいのではないか」と思ったんですね。テレビだってラジオだって、オファーがあればできるはずだって。せっかく新潟でのコミュニティーがあって、応援してくれる方々もいる。挑戦するなら起業だと思い、行動に移しました。
どのようなことをしたのですか?
「どうしたら自分の個性を生かせるのか?」「収益性があるのか?」「スケール感が最も大きくなるのは何か?」など、時代の流れも考慮しつつ、50個くらい可能な事業内容を書き出しました。それを先輩起業家の方々に見ていただき、客観的なアドバイスをさまざまいただきました。そこで決まったのが現在の事業内容となります。
タレントの力で地域を盛り上げるシステムを構築し、3年後には他県展開へ!
御社の事業内容を聞かせてください。
主は総合プロモーション業になります。具体的にはタレントを起用したプロモーション施策を手掛けています。新潟で活躍するローカルタレントさんの宣材、広告に使用できそうなポーズを取った静止画などの肖像権を弊社で持ち、ご契約いただいた企業が制作するポスターやチラシに使っていただくというものです。
現在は、僕を含めて7人のタレントさんがジョインしています。これからもっと増やしていこうと動いています。
展望を聞かせてください。
現在、主として考えているサービスを新潟の企業さまに使っていただき、サービスの精度を上げていく。その先で、地域を盛り上げられるシステムとして、中小企業を応援するシステムにまで昇華させていくことが目標です。その上で、3年後には山形や富山、長野など他県でも同じサービスを展開していきたいと考えています。
今後どういったクリエイターと一緒に仕事をしていきたいですか?
僕の思いに共感してくれる人。そして、新潟を盛り上げたいという強い気持ちを持っていること。その方がどんなスキルを持っていても構いません。成長意欲があって困難にも立ち向かっていける仲間と一緒に働きたいです。
取材日:2024年8月29日 ライター:コジマタケヒロ
株式会社トークパス
- 代表者名:大島 巧
- 設立年月:2024年7月
- 事業内容:総合プロモーション事業、コミュニケーションスクール
- 所在地:〒950-0917 新潟県新潟市中央区天神1-1プラーカ3
- URL:https://talkpass.jp/
- お問い合わせ先: