苦節を越えてたどり着いたカメラマンの道。技術を活かして動画制作の頭脳集団に
- 福井
- 株式会社ドゥーガブレインズ 代表取締役社長 佐々木 渉 氏
高校生の時にあこがれたテレビカメラ
カメラマンの道を選んだのはどうしてですか?
高校生の頃、テレビ局のカメラマンが街中で撮影している場面を目にして、「カッコいいなあ」と単純にあこがれました。ただ、僕はテレビの業界に憧れたのではなく、回っているカメラそのものに惹かれたんですね。高校3年生の夏休み、父の知人のつてがあり、映像制作会社でアルバイトをしました。小さな工場の機械を撮影する現場へ出かけた時のことです。油にまみれて汚れていた機械が、カメラを通して観る映像では実にカッコ良かった。
そこから、カメラマンの道へ進まれたのですか?
いや、そこですぐに社員の方に「カメラマンになりたいんです」と希望を伝えると、「それだったら、これからの時代、大学を出ていないとダメだね」とあっさり言われてしまいました。その時には大学へ進むことを考えていなかったので、次に興味のあった自動車のセールスマンになるために自動車整備の専門学校へと進みました。
30歳目前でアシスタントカメラマンに
自動車整備士になったのですか?
無事、整備士の資格を取り3年間、自動車販売店で働きました。その後、陶芸の世界に入ったりもしました。それでも夢が捨てきれず、29歳の時にもう一度、憧れていたテレビ業界の道に進もうと決意します。地元テレビ局の制作会社にいた先輩に相談し、別の制作会社を紹介してもらいました。30歳を目前にして、カメラアシスタントからの再出発です。
ようやく念願のカメラマンの仕事に就かれたのですね。
それがそうもいかず……。撮影の技術があるわけでもなかったので、ある日アルバイト先の会社から「一年間、東京へ修行に行って来い」と言われました。「東京へ行けば、撮影の仕事も見つかるよ。日当も高いから」と言われて、深く考えずに上京しました。東京へ出てみれば、確かに技術があり、機材を持っている人ならば、仕事はあるのでしょうが、何もない自分には仕事なんてありませんでした。撮影とは関係のない派遣の仕事で食いつなぎながら、時々開催されていた動画撮影の勉強会に参加していました。結局、1年後に東京での生活に疲れて福井へと戻りました。
福井に戻られて、新たなスタートを切られてからは?
東京へ行って、戻ってきただけって感じでしたね。映像制作会社に就職しますが、カメラアシスタントで過ごす3年間、30歳を超えても先が見えて来ない。周囲からは「万年アシスタント」という声も耳に入ってくるようになり、自信を無くしカメラマンになることをあきらめ退社することに。すると以前、制作現場で一緒だった別の制作会社の方から「辞めるんだったら、うちへ来いよ」「君なら絶対できるから」と熱心に声を掛けていただきました。
突然任された現場、経験が体を動かす
期待されていたのですね
入社するとすぐに県の広報番組を任されました。制作予算も限られていて、現場は県の担当者と、レポーターと自分だけ。ディレクターもアシスタントもいませんでした。 テレビ番組のカメラマンなどやったこともなかったので全然自信がなかったんです。それでも、現場では撮影するしかない。覚悟を決めて、カメラを回し始めると、これが結構できるんですね。アシスタントとして、カメラマンの動きを見ていたことで、こんな場面ではあのカメラマンはこんなふうに撮っていたなとか、こうやって撮ればうまくいくはずだとか自然と体が反応し始めました。
それまでの下積みが実を結んだのですね。
会社では、先代の社長に厳しく指導されました。日頃から「仕事を生み出す仕事をしろ」とはっぱをかけられました。当時はクリエイターとしての意識しかなかったので会社の売り上げなどはあまり意識していなかったのですが、社長はそれを許しませんでした。当時担当していた結婚式場の売り上げ状況を突然尋ねられました。当然、意識が低かった私は答えられませんでしたが、「そんなことも把握していないのか」とこっぴどく叱られました。叱られるのが嫌で、嫌で、必死になって勉強しましたし、数字が上がるように営業活動もしました。
そこから独立に至ったのはなぜですか?
7年間勤めたところで、次長職まで上がることができました。そこで10年先、15年先を考えました。体が動かなくなった時に、会社全体が回っていくための仕組みを考えると、もっともっと会社が大きくならないといけないと思い、契約先も新たに開拓しましたし、いろんな提案をしました。それでも経営者が交代したこともあって、自分と会社の間の温度差を感じ始めました。ちょうどそんな頃でした。40歳をきっかけに中学校の同窓会が開かれ多くの同級生に再会しました。同級生はいろんな方面で活躍していました。同級生のみんなが頑張っているのに、自分は不満を抱えて何をやっているんだ、このままでいいのかと思い、一念発起して独立しました。
個人事業主から、法人設立へ。一人ではできないことが可能に
晴れてフリーランスになり、個人事業主となられてからは?
2013年3月でした。最初は「テレビ映像佐々木屋」と屋号を決めました。日本を代表する映像技術プロダクションである「株式会社池田屋」にあやかり、自分もしっかりとした技術会社になるぞという思いを込めました。佐々木という男が責任を持って、テレビ映像を作りますという決意を示したかったのです。
そして法人成りをされてからは?
20年来、お付き合いのある経営者の方のところへ「独立しました」とあいさつに行きました。その経営者は「そうか、良かったね。頑張ってね」と激励してくれました。ただ、続けて「渉君(佐々木さん)は友達だけど、うちからは仕事を出すことはない」と言われてしまいました。驚いた表情を見せると、その方は「会社としては個人に仕事を発注することはリスクが大きい。あなたが体調を崩したり、事故に遭ったという時にうちの発注した仕事がとん挫してしまうからね。2人でも3人でも集めて組織を作りなさい。そうしないとお客様が安心しないよ」と説明してくれました。そうですよね。インフルエンザで高熱が出ているなんて時は、気持ちがあっても動けませんからね。それではお客様に迷惑を掛けてしまう。そこで、個人事業から組織化を目指しました。
ありがたいアドバイスをいただきましたね。
ちょうどその時期に、大きなプロジェクトを受けることになりました。以前、現場で仕事をしたフリーのディレクターに声を掛けて一緒にやり始めると、一人では受けられなかった仕事ができるようになったんです。できるか、できないかというレベルの仕事を自信を持って受けられるようになりました。幅が広がりました。自分ができないことは、人に任せれば良いというのが、組織のメリットだと気づきました。
気づけばカメラマンに、気づけば社長に
そして株式会社を設立されます。社名の由来を教えてください。
個人事業から法人成りしたので、もう個人名は外そうと考えました。社名を耳にするだけで業務内容が分かるといいなと思い名付けたのが「ドゥーガブレインズ」。あなたの会社の動画を作るブレーン(頭脳)になりますよというコンセプトで命名しました。
「経営」ということをどのように考えていますか。
1年目は会社を経営するという意識はありませんでした。これまでの延長線で進んできただけ。最近はカメラを回したり、編集作業をするだけでなく、次の時代のビジネスの柱を模索するという社長業も行っています。気づいてみれば楽しく案外社長はむいているのかも?と思っています。僕はいつでもそうなんです。気づけばカメラマンになり、気づけば独立して、社長になっている。
「他力本願」と「果報は寝て待て」
次の一手はどのように考えていますか
ネット関連の動画がもっともっと進んでいくと思います。テレビがダメとは言いませんが、会社としてはネット動画の比重を高めていきたい。世の中にモノは良いが売れないという商品やサービスがあります。それを動画の技術で売れるようにしたい。これまでテレビCMを利用できるのはそれなりの規模の企業でした。ネット動画を活用することで小規模の企業や個人事業でも魅力を発信できる仕組みを作りたいですね。9月からは360度見渡せるVR動画を活用するサービスをスタートするための機材をそろえましたし、お客様が利用するためにより良いプラットホームを準備しています。スマートフォンの特性を活かしたタテ型動画の活用にも取り組んでいます。
スタッフにはどのようなことを求めていますか?
本来の言葉が持つ意味とは違いますが、スタッフには「他力本願」と「果報は寝て待て」の精神が大切だと説いています。自分一人でできることには限界があるというのは、僕自身が実感しました。自分ができないことは人に任せろ、自分で一から十までやろうとするなと言います。苦手なことを克服するよりも得意なことをさらに伸ばすことが大切だと考えています。そして、がむしゃらに動いてもうまくいかない時はうまくいかない。そんな時は、寝ている時のように力を蓄えろとも言います。チャンスというのは、みんなに等しく訪れているのだと思います。ただ、準備が出来ていないとせっかくのチャンスを活かせません。しっかり準備をし、やりたいこと、なりたい自分を強く思い続けることが大切なんだと思いますね。
取材日:2017年7月19日 ライター:加茂谷慎治
株式会社ドゥーガブレインズ