栄枯盛衰のゲーム業界を生き抜いた経験でユーザーの喜びを創出
- 大阪
- 株式会社ラクジン 代表取締役社長 中野哲雄氏
ガレージから高層ビルへ
ゲーム業界に入られた経緯を教えてください。
昭和23(1948)年に福岡県で生まれ、田川市の工業高校を出てから福岡市の機械商社に就職をしました。ところが、大阪へ出て羽曳野市の青果店を経営していた3つ上の兄から「人手が足りないので手伝ってくれ」と言われ、半年で商社を辞めて大阪に来ました。少し経ったころ、後にゲームメーカーの「カプコン」を設立し会長となった辻本憲三さんと知り合ったのです。当時、ラムネ菓子を釣り上げるクレーンゲーム機や、玉が入ると景品のガムが出てくるパチンコ台などのアミューズメント機器をリースする商売をしていて、それを手伝い始めました。それがゲームと関わったきっかけです。
偶然のようなものだったのですね。
面白い商売があるんだな、と思いました。ゲームの仕事をさらに進めるために会社(IPM商会)を個人で立ち上げるというので、私も一緒にやらせてもらうことになりました。パチンコ台を旅館などにリースしていたのですが、そんなビジネスをする人はまだ少なくて、けっこう利益が出ました。その会社は「IPM商会」という社名で、後に株式会社化して「IPM」になりましたが、「IBM」と似ていてまぎらわしいので後に「アイレム」に変わります。1970年代の後半に登場した業務用のテレビゲーム機「インベーダーゲーム」は仕入れが追いつかず供給ができない状態になったのでメーカーのライセンスを受けて製造し販売やリースをして飛躍的に伸びました。もともとガレージから始まった会社が大阪市中央区の堺筋本町の高層ビルの1フロアすべてを借りるほど大きくなったのです。
高度成長期のゲーム業界史の主役のひとりとして実体験されたのですね。
はい。インベーダーゲームが下火になり、業績が悪くなり辻本さんは責任を取って会社を去りました。その後「カプコン」を創業されるのです。常務だった私は会社に残り、開発責任者のときにはシューティングゲームの「R-TYPE(アール・タイプ)」シリーズなどを出しました。しかし1994年に当時の親会社の意向でゲーム開発から撤退することになり、私は従業員の再就職先を探して、残務整理をしてから会社を去った翌年の1月17日に、阪神大震災が起こりました。遊んでもいられませんから、被災地のインフラが、だいたい復旧し震災後の騒然とした雰囲気が落ち着いた8月にゲームを販売する会社を個人で立ち上げました。その仕事の発注先が同年4月に設立されたばかりの「ラクジン」だったのです。
異業界への進出
どのような経緯で経営に関わることになったのですか?
当初「ラクジン」は、2D表現の格闘・アクションゲームを作っていた会社でしたが、やがて3D表現の本格的な大作RPGも手がけるようになっていました。ですが、本格的RPGの制作には、3年もの開発期間と多額の予算が必要だったのです。次第にメインのお客様の事情で「お金を出せない」ということになり、事業継続のためには新たな顧客開拓が必要になりました。一方「ラクジン」は技術者集団で、営業力が不足していたので、私に営業を手伝ってほしいという依頼があり、2002年から顧問として経営に参画することになりました。
それまで「ラクジン」はBtoBの仕事が中心でしたが、個人が直接購入するBtoCのコンシューマー向けゲーム機用の仕事を増やしていたので、手が足りなくなって従業員を増やさないといけなくなり、ゲームメーカーのニーズに対応するためには銀行からの借り入れによる設備投資も必要でした。そのような折衝などが苦手な根っからの技術者である当時の経営陣から舵取りを任されることになり、2004年から社長に就任しました。「まじめに・おもしろく」という同社創業以来の理念を私が主導して引き継ぐことになったのです。
パチンコやパチスロ遊技機の企画開発を目的とした事業部を開設されたのは、その年ですね。
業界の慣習も違いますし、それまではパチンコやパチスロの仕事が来ても、お断りしていました。でも当時、遊技機関連の会社を退社した幹部から「関西で仕事を続けたい」という相談を受けたので、当社に招き入れました。それが参入のきっかけです。当時、ゲーム市場は好調とは言えない時期でしたので、他の市場へ参入しないといけないという思いもありました。技術の進化でゲーム機がハイスペックになってきて、さらに投資も人材も必要でしたから安定して資金を稼ぐ必要があったのです。デザイナー部門など、その時点で当社のスキルが発揮できる部分から、すぐに遊技機の仕事に参入するためにチームを編成したのです。
顧客との競合を避けて新境地へ
2012年にオリジナルのソーシャルゲームのリリースを始めていますが、どのようなきっかけで?
そのころはまだソーシャルゲームはIT企業が運営する携帯電話向けの新しい分野でした。顧客のメーカーさんがまだ参入していなかったのです。当社としてはソーシャルゲームの時代が来るだろうと予測をしていたうえ、顧客と競合しない領域だったので、オリジナル商品で進出するのに好都合だったのです。それから2年もしないうちにソーシャルゲームの存在感が大きくなりました。スマホが普及してきて、データの処理能力が速くなり、動きのある表現が容易になったことが背景にありました。当社は、すでに開発力をつけていたので、それがアピールポイントになって、現在は、ほとんどのソーシャルゲーム大手企業と仕事ができています。
最初に出されたオリジナルのソーシャルゲームのひとつが「戦国パズル!!あにまる大合戦」ですね。
「あにまる」になった戦国武将を育て、天下統一を目指すパズルRPG。略称「パズあに」です。この年に3本をリリースしたうち、これが当たりました。今年(2017年)で6年目に入ります。ヒットするかどうかは、何となくわかります。結局、シンプルなことが重要なんですね。開発の担当者としては、自分が考案したものはもっと深掘りしたくなり、難しくなってしまう傾向がありますが、「難しいものはダメ」とよく注意します。シンプル・イズ・ベスト。ヒットした商品はシンプルです。説明がなくても遊べなくてはいけません。基本はユーザーがいかに楽しく遊べるか。クリエイターが「何を作りたいか」ではありません。自身が作ったものを喜んでくれるユーザーの姿を見るのがクリエイターの最大の楽しみであるべきだと思っています。
キーワードは「素直」
自己満足ではいけないということですね。
はい。それからゲーム作りは昔からあるものにヒントがある場合が多い気がします。単なる斬新さよりも、古くても面白いものを今の時代の遊び方に合わせて、いかに新しく見せるかが大切だというのが実感です。ゲームはストレス解消に貢献していて社会的な意義もあると思いますし、指先を使うことで脳の活性化にもつながるはずです。そういう面からもユーザーの立場からの感覚で、楽しく遊んでもらえることが大切。もちろん長時間にわたって遊びすぎるのは問題ですが…。
今後の展望は?
私が顧問に就任したとき、社員は40人くらいでしたが、今は約160人になりました。今後ゲームはヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)の方向へ進んでいくので、それに対応した人材も必要ですが、社員数は200人くらいまでかな、と考えています。社員が喜んで仕事ができる環境をつくりたいので、新卒採用して文化や考えを共有しながら育てるには、それくらいが適切かな、と考えています。
日本でもカジノが合法化する方向で進んでいます。一般の企業には「ゲーム」という意味では共通していても異業界であり、当社としては未知の部分が多いので、この分野で実績のあるメーカーとのタイアップが必要になってきますが、それを意識して研究に入っています。
どのような人物を採用したいですか?
素直な人材です。今は業界に入る前から勉強をしている人が多いので、能力はみなさんそれほど大差ありません。一方、技術はどんどん進み、開発の方法も変わるので、素直に状況を受け入れて適応できないとついていけません。それにゲームの世界はユーザーが主役ですから、自分が表現したいことよりも、「おもしろい」「楽しくない」といった他人(ひと)の意見を素直に聞いて商品に反映させる気持ちがないと喜んでいただけるものは生み出せません。とはいえ「芯」は必要です。他人の意見を聞くあまり1本の木なのにミカンもリンゴも実っていて、何の木だか分からず、根がしっかりしないで倒れそうだというのではいけない。「芯」の「しん」は「シンプル」にもつながる気がしますね。
取材日:2017年11月1日 ライター:岡崎秀俊
株式会社ラクジン
- 代表者名:代表取締役社長 中野哲雄(なかの てつお)
- 創業年月:1995年4月
- 資本金:2,000万円
- 事業内容:コンシューマーゲームやアーケードゲームの企画・開発をはじめ、ソーシャルゲームの企画・開発・運営、スマートデバイス向けアプリの企画・開発、パチンコ・パチスロ遊技機の企画・開発など。
- 所在地:〒532-0003 大阪市淀川区宮原4丁目1番4号 KDX新大阪ビル8F
- URL:https://www.racjin.co.jp/
- 電話:06-6394-9710