WEB・モバイル2019.12.04

一生エンジニアとして成長し、メンバーと共に走れる場を作りたい

仙台
株式会社 FITS 代表取締役
Satoshi Fujiura
藤浦 哲

穏やかで明瞭な口調が印象的な藤浦氏。幼いころからゲームの面白さにのめりこみ、もの作りが好きだったことから、技術習得を目指せる進路を選択し、いつかゲームを作りたいと思うようになったとのこと。一生システムに関わりたい、本気でシステムが好きな人がやりがいを感じられる会社を作ろうと思ったことが起業のきっかけとお話してくださいました。システムそのものの話になると、とたんに目の輝きが増し「システム開発は本当に面白い仕事なんですよ!」と饒舌になる姿から、現在の仕事に心底惚れ追求している姿が伝わってきました。

「もの作りが好き」がシステム制作へとつながった

システムエンジニアになろうと思ったキッカケは?

幼いころ兄がゲーム好きだったことから、自宅には古いゲームのカセットが溢れており、自然と自分もゲーム好きになりました。このゲームはどのような世界観なのか?どうすれば早く攻略できるのか?と考えながらゲームを進めるタイプで、本を読む、あるいは映画を観る感覚でゲームに夢中でした。小学校のときのクラブ部活動ではビーズ細工を選択し、ユニット折り紙にも夢中になるなど、ものづくりが好きでした。将来は幼いころから好きなゲームを作りたいと思い、進学先を高等専門学校(以下、高専)に決めました。

高専についてお聞かせください

高専は5年制で、ハード系、ソフト系併せて4学科あり、私はソフトウェア制作を学ぶ情報工学科を選択しました。高専ではプログラムを書くコードの書き方からではなく、日常の物事をプログラムに落とし込む単位に分解する「論的思考」を学ぶことからスタートします。カレー作りに例えると、材料を調達して包丁で切って炒めて、水を入れて…と、カレーを作るという行動を分解して考えるようなことです。

高専を選択してよかったと思う点として、使い手が望むシステムを構築するためには、この論理的思考ができないと難しいということを、時間をかけて最初に学べたことです。いきなりコードの書き方を学ぶよりも、お客様の望む状態をシステム構築で達成するためには、何をどのようにするとよいのか、分解して考え分析するステップこそが重要なのだと知ることができました。

高専では何か作品を制作されましたか?

在学中に「ドコモカップ東北」に応募し、自主企画・制作したアプリでグランプリを頂きました。自分で考えたものを創り出すということに面白さや、やりがいを感じ、ますますものづくり志向を高めました。

ゲーム好きが高じてゲーム開発へ

キャリアスタートについてお聞かせください

就職は学校からの推薦枠として企業を選択することが多いのですが、私は自由応募を希望し、ゲーム制作会社を探しました。卒業当時は仙台にはゲーム会社が少なかったため、東京の会社へ就職しました。同期が10名でプログラマーとデザイナーが半数ずつでした。当時のゲーム制作業界は制作過程も整理されず試行錯誤の時代で、入社してすぐに寝袋を支給されるような環境でした。「首都高バトル」というゲーム制作に携わりましたが、よりリアルな質感や躍動感を表現するために、当時の技術と技術者たちの体力の限界を駆使したものでした。

好きな業界を離れることになった理由は?

当時のゲーム業界はまだソーシャルゲームも誕生しておらず、ミリオンヒットが出しづらい中で開発費が徐々に高騰するなど、苦しい時期でした。ゲーム制作そのものよりも、有名なタレントとタイアップした商品として大々的に売り出す商業主義に走る様子を見て、ものづくりがやりたいという当初の志とのズレに、徐々に葛藤が生じてきました。ずっとここにいてはやりたいことの実現には時間がかかりすぎると思い、ゲーム制作会社は1年半で退社しました。

面白さ・企画よりも、自分にとっての魅力は、世の中に組み込まれて役に立つものを創るということだと気付き、次に目を向けたのはロボットやシステム作りでした。数社応募していたところ、高専の同級生が勤める会社を勧められて入社することにしました。これが株式会社KSFでした。

新しい会社ではどのような開発に携わられたのでしょうか?

そこでは音声認識や携帯電話のシステム制作などを行いました。今でも覚えているのは中国モデルの携帯電話で現地の入力システムを作ってほしいというオーダーです。ピンイン入力という中国版ローマ字入力のような方式なのですが、四声などの理解に時間がかかりました。制作後、中国の大連にあるソフトウェアパークへ出張し、開発現場を視察に行きましたが、そこで突然、中国人のプログラマーからコードレビューの依頼を受けました。言語が分からなくても、書かれたコードは理解し合えますので、簡単な中国語も使いながらコミュニケーションをとって、大変でしたが最終的に分かり合えた時は感動しました。このほかKSFでは直接お客様と接するシステム制作や技術提供も行っていたので、幅広い経験を積むことができました。

KSFに所属する12年の間に、チームリーダー、主任、課長、部長という役職を経て取締役職まで経験させていただきました。私のこの時期を支えた力は、一言でいうと技術力だったと思います。社会人になってからも必死で勉強しました。システムに関する技術力は誰にも負けたくないと現在も思っています。

天職と言える仕事に出会うことができたんですね

はい。もともと田舎の育ちで、周囲にはパソコンも無く、田んぼのあぜ道でトンボを追いかけるというような環境で育ちましたので、あらゆるシステムが世の中にあふれている今の状況が嬉しくてしょうがないんです。自分が生きている間にこんなに世の中が変わるなんて!という感動を毎日味わってます。パズルは一度解いてしまうと終わりですが、システムは技術革新も早く、どんどん新しいものが現れるので終わりがありません。もっと進化していくというワクワク感と、その変化を加速させたいという思いは、今も原動力です。

一方で、このままではシステムの仕事を一生のものにはできないという現実を感じ始めました。業界の構造がいびつで、日本ではイノベーションが起こしづらいと言われています。TwitterやFacebook、YouTubeも海外のサービスですし、国産の革新的なシステムがなかなか生まれない一方で、旧システムに高いメンテナンスコストをかけてどうにか使い続けているケースもあります。新しい技術やフレームワークを取り入れた開発が減っていけば、新規エンジニアからは成長や学びの機会が奪われてしまいます。

 

人材不足と伺いましたが…

エンジニアの不足というより二極化が起きていると感じています。本業で技術的な学びはないが、そこそこの仕事はあるという状況下では、自ら進んで勉強したかどうかがエンジニアのスキルを大きく左右することになります。そんな中で、指示待ちで知識も実務でやったことしか知りません、というエンジニアと、システムについて自ら学ぶ能動的なエンジニアが同時にプロジェクトに組み込まれると、パフォーマンスの違いから進行が遅延し、負荷の偏りからプロジェクト自体が破綻することも起こり得ます。IT業界が健全に成長を続けるためには、業界と共に成長していく人材が必要なのです。

エンジニアを一生の仕事にしたいから会社を作ろうと思いました

独立されたキッカケは?

もの作り・システム作りが好きでこれを一生の仕事にしていくためには勉強が必要となりますが、技術革新の早いIT業界は、一人で勉強を続けるにはハードな業界です。なので、共に進んでいくエンジニアが育つ場所を積極的に作っていきたいと考えるようになりました。質の高いエンジニアが育ち、より高度な提案ができて、お客様も増えていくという好循環を回したい。その結果、システムを作りたいというメンバーが、学ぶ時間を確保し、個人にも利益が還元される状況をつくりたいと考えています。

独立は仙台支社の立ち上げから始まったとお聞きしています。

12年勤務したKSFの社長は、取締役の次のステップまで考えなさいという方でした。そこで地元仙台に支社を作りたいという希望を出し、2015年に1年かけて準備して、2016年4月から支社をスタートさせました。事務所の選定、各事務手続きや、社員の採用も自分で行いました。幸いシステムエンジニアとしての職務のほか、経理も経験させていただいたので、運営に関する必要なノウハウは全て学ぶことができました。元々の会社の社是は「みんなで幸せになろう」でした。その思いは私も引き継いでおり、そのうえで、技術者ひとり一人の話を聞き、このメンバーでずっと仕事を行いたいと思えたので、「独立してうちのカラーでやらせてください」と親会社にお願いしました。社長は関西の方なのですが、「ええんちゃう?」と背中を押してくださり、円満に独立することができました。

顧客開拓の営業もご自身で行われたと伺っております

営業はあまり得意とは言えませんが、やらなければならない状況であったことと、お客様の希望をお聞きし、システム構築で問題解決を図るための分析と提案を行うという営業スタイルは好きなこともあり、徐々に仕事の受注に結び付いていきました。

先端分野の仕事を行いたい

現在の事業内容についてお聞かせください

画像認識やAI系の仕事、大学の研究室から相談を受けてシステム開発するなど、新しい分野の仕事に力を注いでいます。日本にないものはリサーチして海外から持ってくることで可能となる提案を行うなど、地域にあって、先端分野にも優位点を持つ企業にしたいです。

地元で起業して感じられることについてお聞かせください

仙台は経済圏として、あるいは都市機能としても規模感がちょうどよく、かつ首都圏と比較してのポテンシャルがまだまだあると感じています。2011年の大震災直後は投資にあたるシステム開発は大きな打撃を受けました。しかし現在は復興を経て、再び地方が積極的な投資先として注目されてきていますので、ここからビジネスチャンスもさらに広がっていくと思います。

エンジニアとして経営者として思うこと

現役のエンジニアであり経営も行うのは大変なことではないかと思うのですが

会社もシステムとして捉えると、システムとはもともと関係者全員がそれを使うことで利益を享受するためのものですから、例えば社員はどのように評価されたら納得するのか?社員の満足感がどうすればお客様にも還元されるか?その逆は?と、会社もある種のシステムとして考えています。私にとっては一生をかけて考える価値のあるシステムであり、やりがいはありますので、大変でやめたいと思ったことはありません。

社員に対して求めたいことは?

世の中で使われるシステムである以上、品質を重要視するよう呼び掛けています。医療系システムに携わるときには「自らがドクターとしてメスを握るつもりで仕事をしてください」とメンバーには伝えます。交通系システムにしても、一つの間違いが人の命を奪うことにもなりかねないわけですから。厳しいかもしれませんが、気を張って仕事をする必要があると思っています。

スポーツ選手が集中しているときの状態をフローやゾーンと言いますが、エンジニアにもその感覚で作業してほしいです。ただ、人間の集中力には限界があります。なので、集中モードとそうでないときを上手に切り替えられる環境づくりも大切だと考えています。会社の休憩室にはお菓子ボックスを置くなどしてますが、休憩時間にはしっかり休んで、メリハリつけて作業してほしいと思っています。

早くエンジニアが活躍できる場を整えたいと強く思った。

後輩の学生の方に伝えたいことはありますか?

高専にはOB講演というかたちで訪問することがあるのですが、学生はシビアに世の中を見ています。「日本のIT産業は国の予算が少ないし給料も安いから将来を考えると海外に行くほうがよいか?」「売り手市場だから大企業に行きたいが、不祥事のない企業を見抜くには?」等。しかし、売り手市場とはいえ最初の就職を安易に決めると後悔する事を伝えています。その上で、自分が将来やりたいこととマッチングしているかどうか、その会社に入って一生やっていけるかどうかという視点で、一度は真剣に考えていますか?と問います。そうでないと入社して違ったときに、何が間違っていたのか分析することができません。かつての私も自分が本当にやりたいことが何か、それがその会社で実現できる根拠は何か、という一番大事な視点が欠けていましたから。

インターン学生も積極的に受け入れていらっしゃるんですね

IT系の芋煮会で出会った学生の方と会話していて、新しいプログラミング言語も使えるスキルがあり、自宅でもプログラムを組んでいるくらい好きなのに、お弁当屋さんでバイトしていると聞いてびっくりしました。弊社のインターンに誘ってプログラムを書かせてみると、やはりちゃんとできる。埋もれている能力がまだまだ沢山あるという現実に対して、これは早くエンジニアが活躍できる場を、もっと提供できるように頑張らないといけないと強く思いました。

若手の方へ伝えたいメッセージをお伺いできますか?

私が幼いころは、周りに何もなく、創意工夫が当たり前でしたが、今はいつでもどこでもスマホの無料ゲームがあり、幼稚園児がYouTubeにかじりつくような世の中です。自分で考えなくても与えられ消費ができるということは、それだけ人間社会が発展したと同時に、自分で決めて達成する喜びや必然性が薄れてしまうと思っています。これからAIの社会進出が進み、ますます「本当の意味での意思決定」が重要な世の中となります。その前段にあるのは「自分で考えること」ですので、まずは自分の考えを持ち、それを大事にしてほしいと思います。

取材日:2019年10月16日 ライター:桐生 由規

株式会社 FITS

  • 代表者名:藤浦 哲
  • 設立年月:2018年12月
  • 資本金:600万円
  • 事業内容:システム設計・開発の受託、組み込みソフトウェア、WEBシステム、プロジェクト管理支援、システムインテグレーション
  • 所在地:〒980-0811 宮城県仙台市青葉区一番町1-1-31 山口ビル4F
  • URL:https://www.fits-inc.jp/company/
  • お問い合わせ先:info@fits-inc.jp

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