ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞!「スパイの妻」を生んだ濱口竜介氏と黒沢監督の師弟愛。「黒沢さんにとって挑戦でもあり集大成でもある作品を作れました」
ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した黒沢清監督最新作『スパイの妻』。その脚本を担当したのが濱口竜介(はまぐち りゅうすけ)さん。彼が監督した『ハッピーアワー』は、ロカルノ国際映画祭・インターナショナル・コンペティション部門で脚本スペシャル・メンションを受賞しており、実力派の若手映画監督なのです。
この濱口さんは『スパイの妻』に企画からかかわっており、以前からタッグを組みたいと考えていた恩師・黒沢監督のもとへ持ち込みました。結果は前述の通りです。
大学卒業後、一度映像の世界へ入ったものの、映画を撮るために東京藝術大学大学院へ。そこで出会ったのが黒沢監督でした。今回は、その黒沢監督と待望の初タッグを組んだいきさつや誕生秘話。そして自身の映画への思いや、監督としてのあり方について語っていただきました。
昔から黒沢清監督の脚本を書きたいと思っていた
脚本を手がけた『スパイの妻』がヴェネチア映画祭銀獅子賞作品となり、おめでとうございます。
ありがとうございます。黒沢さんにふさわしい賞だと思っています。そのような歴史の1ページに名を刻む作品に参加できて、光栄に感じています。
濱口さんは黒沢監督の教え子ですが、この作品はどのようなきっかけで生まれたのですか?
僕の東京藝術大学大学院時代の後輩で『ハッピーアワー』(15年)という作品ではプロデューサー・共同脚本を務めてくれた野原位(のはら ただし)さんが、本作の制作にかかわっている「Incline」さんから相談をいただいたところから始まりました。
NHKさんと神戸を舞台にした8K作品を神戸出身の監督で撮るというプロジェクトで、以前、僕が黒沢さんの脚本を書いてみたいと言っていたことを思い出し、「まさにそういう機会ですよ」と誘ってくれて。僕自身も脚本家として呼ばれたのがきっかけです。
黒沢監督の脚本を書きたいと思っていた理由は何ですか?
一つは単純に、ファンだからですね。昔から作品を見ていて好きでしたが、大学院の映像研究科で教授と生徒という関係になってからの方が、本当の意味で“黒沢清ファン”になっていきましたね。もともとすごい人だとは分かっているんですが、授業で学ぶにつれ 、黒沢さんの言葉によって自分の映画作りが変わっていくのを感じました。修了後、黒沢さんとじっくりお話をする機会もそんなには持てなかったので、もう一度、黒沢さんのもとで学ぶ機会を持てるなら、こんなにありがたいことはないと思いました。
2016年に公開された黒沢さんの監督作『クリーピー 偽りの隣人』では先輩である池田千尋さんが脚本を担当されていて、こうやって一緒に仕事をすることができることを知り、そのような機会を密かに狙っていました。
黒沢さんのために書いた脚本
黒沢監督といえば現代の東京を舞台にした作品が多いですが、なぜ今回の舞台は戦前~戦中だったのですか?
黒沢さんが以前企画されて 実現しなかった『一九〇五』という映画があります。20世紀初頭を舞台にしており、プロットを読む限りスパイものという雰囲気でした。在学中に この話を聞いていて、すごく楽しみにしていたんですよ。ただ制作会社の破綻などいろんなことが重なり、頓挫してしまって……。それを非常に残念だと思っていました。
黒沢さんが戦前や戦中に興味を持っていることを知っていましたし、戦争の時代を舞台にした作品にしたいと思いました。あと、もうひとつ大きなこととして8Kで撮影するのに細やかなこだわりを出せる戦中という時代がいいのではないかと。この2つが重なって、複数あるプロットの一つとして時代物が生まれたんです。
今回の脚本は黒沢監督らしさが全開だったと思うのですが、どれほど意識して書かれたのですか?
意識というか、すべて黒沢さんのために書いた脚本ですからね。黒沢さんはこの10年ほど、女性を描き続けています。その前の90年代後半から約10年間は、サスペンスやホラーというジャンルがメイン。そして、ずっと興味をおもちだった時代物。これらを一つにすることができれば、黒沢さんにとってチャレンジであり集大成でもある作品を作れるんじゃないかなと思いました。というか、自分が見たかったんだと思いますね。一ファンとして(笑)。
そして出来上がった脚本は、正直、今まで自分が書いた中で一番面白いものの一つになっていたと思います。何なら自分で撮ってみたいかも……と思えるぐらいのものになりました。ただ、結局「黒沢さんに撮っていただく」という前提でしか成立しないものであったとは思います。
もし自分が撮ると想定して脚本を書いていたら、時代物はあり得ないんですよ。今の自分には技術が足りないし、作品として成立させることができるものではない。今の僕が撮ると必ず破綻してしまう。
心のどこかで黒沢さんならどうにかしてくれるとある種、放り出したようなところもありました(笑)。でも、だからこそ楽しかったですね。
濱口さんは『ハッピーアワー』や『寝ても覚めても』などの監督です。作品に脚本家という立場だけで参加するのは いつもと違った感覚なんでしょうか?
脚本はあくまでもスタッフやキャストにとっての道しるべになるもので「こういうものを作るんだよ!」と全体で共有するためのものです。そして、それを読むことによって面白いと感じ、携わる人にエキサイティングな気持ちになるようなものでなければいけないと考えています。なので、脚本を書いているときは単純に面白いものだけを目指しています。
一方で監督は、その脚本を受け取って現実的に考えてどのように撮るかを判断します。このロケーションは現実的にあり得ない、予算がないので、この場面は雨は降らせないとか。
先ほど僕は黒沢さんだからどうにかしてもらえると放り出したと言いましたが、今回は脚本家としてシンプルに「面白さ」を追求しました。もちろん黒沢さんに自由に直してもらうということも決まっていたので、できるだけボールをより遠くに投げる事だけを考えて……。
これが脚本と監督のどちらも担当すると、意外と頭で考えているようにはいかないんですよ。それぞれの立場を切り分けることを最優先にしますが、所詮ひとりの人間ですから、必ずどこかでリミッターがかかってしまいます。今回は 完全なる分業だからこそ生まれたものがあるのかもしれないです。
黒沢監督が撮影した作品を見て、脚本を超えたと感じたところはどこですか?
ファーストシーンからです(笑)。スパイ容疑のイギリス人が捕まるシーンですが、脚本では建物中に憲兵隊が入って大捕物をする感じで書いています。それが映像になると、建物の中の引きの画(え)から、ぐーっと寄ると憲兵隊たちが出てきて連れ去っていく……。
ファーストカットというのはこの映画がどういう作品なのかを伝えて興味を引かせる必要があります。この撮り方をすることで、観客たちに「何が起こったのだろう?」と想像力を働かさせる。この映画は、見えないものを想像する映画なのだと宣言しているようで、そのことは映画全体を通じて、とても大事なことだと思いました。見えないけれど、何か禍々(まがまが)しいものを感じさせるシーンになっています。見えないからこそ、何かおそろしい出来事が自分たちの身近で起きているという感覚が、これ以降すべてのシーンで観客に与えられます。“お見事” でした。
学生時代の経験では補うことができないほどの壁を感じた
大学卒業後に就職してから東京藝術大学大学院に入学されていますが、いつ頃から映画監督を目指していたのですか?
意識をしたのは大学に入ってからですね。子供の頃はハリウッド映画全盛期で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年)や『ターミネーター2』(91年)といった大作やアカデミー賞などの話題作をよく見ていました。中学生くらいから映画館に通うようになり、高校生のころからミニシアターが視界に入ってきて、クエンティン・タランティーノやコーエン兄弟などちょっとオシャレな作品を見るごく普通の映画少年でした。
大学で映画研究会に入ってシネフィル的な文化に触れて、それからは古今東西の映画をできるだけ多く見ていました。なかでも 心引かれたのはジョン・カサヴェテス監督作品。2000年にやっていた彼の特集上映を見て、映画というのはこれほどまでに面白いのかと感じハマりました。
大学では映画を撮られていたのですか?
撮っていましたが、今思えば恐ろしいほど下手でしたね。頭の中ではこう撮りたいという画(え)はあるんですが、実際に撮ってみると全然思い描いたものにならない。形にしたら全然違うことに気付いて愕然(がくぜん)としたことを覚えています。それからはいろんな映画を見て、それらになんとかして近づきたいと思いながら撮っていたと思います。
ただ「あのときはあぁだった……」と感じるのは、違う技術を身につけてから改めて気付くことで、当時は客観視もできずに一生懸命考えて、そのときのありったけのものを込めて作っていました。そんなこんなで気づけば5年大学に通い(笑)、映画以外のことは、ほぼしていませんでした。必然的に就職は映像業界を選びましたが、でもやはり自分が本当にやりたかったことは一貫して映画でした。
つてを辿って商業映画の現場に潜り込んだんですが、「見て学べ」という世界で、誰も教えてはくれない。飛び交う業界用語の意味や、自分はどこで何をしたらいいのかも分からなくなって……。これまでの経験が実践では何も役に立たないことを知りました。挫折を味わいましたね。
そこで東京藝術大学大学院に行くことを決めるのですね。
2005年に東京藝術大学大学院に映像研究科というものができ、黒沢清監督と北野武監督が教授になるんですよ。日本で初めての国立の映画学校ができたと、映画青年の中ではセンセーショナルな出来事として持ちきりでした。
助監督ではどうやらやっていけない自分が映画の監督としてやっていくために、もうそこに入って、監督をするしかないと思いました。
日本のマーケットから離れた面白い作品に映画祭が反応する
東北地方の人々を映したインタビュー映画「東北記録映画三部作」(11年~13年)や神戸を舞台に『スパイの妻』の共同脚本家でもある野原さんとタッグを組んだ5時間17分の超大作『ハッピーアワー』など、実験的な作品作りをされていますよね。
そんなにあえて挑戦しているという感覚はないです。単純に自分の演出を鍛えているような感じです。もっと自分の技術を磨き上げて、新しい武器を手に入れないと自分が撮りたい作品を作ることはできない。なのでどうやったら自分の監督としての技術を磨けるかを考えて、そのときどきで自分が撮れる作品を作ってきました。
『ハッピーアワー』はロカルノ国際映画祭インターナショナル・コンペション部門脚本スペシャルメンション、『寝ても覚めても』(18年)はカンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品されるなど、 挑戦的な作品が国際映画祭で評価されています。
これはありがたいです。といっても僕は別に、作家然とした映画を作りたいわけではなくて、ずっと日本の商業映画を撮りたいと思ってやってきた、ごく普通の監督なんですよ。ただ自分が考える面白い映画を、きちんと売れる要素を盛り込んで作れるかといえば、自分にはその技量が十分にないとも思います。なので、 自分が面白いと思うことを自分の制作体制で無理なくやることから始めています。それを「面白い」と感じてくれる人たちが、たとえば映画祭だったということだけで。
商業映画については、そんなに多くを語れないですが、観客にウケる作品を作ることは重要なことだと理解しています。出資者を納得させる面白さや、時代に合ったものでなければならないし、多くの人が見たいと思うスターが出ていること、全部必要なんでしょう。そういう枠の中にはめて物語を作っていくことは、商業映画をやるなら当然だとも思います。
ただ面白さの可能性はこれだけではありません。今の日本でウケるという条件を取り外したとしても、作品として成立する何かしらの面白さや美的なこともあります。その部分に映画祭が反応してくれているんだと思います。一体これは誰が見るんだろうと思いながら作っているときもあるので(笑)、そういう映画作りをするのは孤独でもあります。だからこそ、映画祭に選んでいただいたり、賞をいただいたりするとすごく励まされます。
映画監督を辞めようと思ったことはありますか?
ないです。映画監督は辞めるとそういうものではないと思っていて。カメラがあって、いつでもどこでも撮影できる状態にあれば、面白いかは別として誰でも映画は撮れるんですよ。そんな身近なものであるのに辞めることは厳しいです。映画監督は作品を撮っていない期間もある職業なので、何をもって辞めるというのかも微妙ですから。
クリエイターにとって大事な事は何だと思いますか?
これは皆さんに当てはまるかは微妙ですが、本当に嫌だと思ったら、やらないことです。先ほど、いろいろ挑戦的な作品作りをしていると言っていただきましたが、単純に嫌だなあと思ったことから逃げ続けてきた結果が、今です(笑)。
ただ、重要なのは「嫌なこと」と「こわいこと」を見分けることです。嫌なことは頭ではやったほうがいいんだろうと思っても、どうしても違和感があって体が動き出さない、というようなことです。
一方で、「こわいこと」は実はやりたくてしょうがないことだったりする。すごくやりたいことなんだけど、大変さが目に見えて立ちすくんでいるような状態。現れていることは、どっちも「動けない」なんですが、このとき何で動けないのか、きちんと見極める必要があるんだと思います。
ただ、若いうちはこの見極めは難しいかもしれません。なので、それは失敗するしかないのかなとも思います。経験を重ねて、自分の中にある違和感みたいなものから目を背けたときにはあまりいいことは起こらないと思っています。頭で考えるだけではなく、自分のからだにも耳を傾けるべきだと思います。
先ほど新しい武器を手に入れていくことが必要とおっしゃっていましたが、どういうときに武器を得ていくのでしょうか?
基本的には人の作品を見たときです。「こういう方法があるのか!」と気付かされることばかりですから。このとき、同時代の人を真似てはいけません。自分より十分に上の世代の、どうせ真似できないことを真似るのがいいと思います。そうすれば、自分なりのものが生まれます。
自分の作品を見返すことはほとんどないですが、たまに見返すことも貴重な経験です。意外と悪くない、ということもまた多くあるからです。当時は持っていて今は見失ってしまった良い部分の存在に気付きます。いつの間にかこういう撮り方を忘れてしまっているな、と思わされることも多いです。
とはいえ、自分の作品を見るにはいろんな気持ちが“ない交ぜ”になり、冷静には見られないので、武器を手に入れたいなら、世の中に数多ある素晴らしい作品を見ることが大事です。
常に刺激を受けて今の自分を更新していく事が大事なんですね。
天才にはインプットは不要なのかもしれません。ただ、そうでないならインプットは必須です。見たものやそこから得たものを形にしていくこと、アウトプットしていくことが大事です。そして、アウトプットを冷静に見返すタイミングもきっと必要なんでしょう。多くの場合はつらいことですが…(笑)。ただ、そのときどき一生懸命やっているものですから、今の自分だって、過去の自分を越えようと思ったら相当な努力がいることがだいたいです。このとき、失敗を自分に許すことも必要です。そうでなくては、結局先には進めません。
脚本家として、ではありますがクレジットに『スパイの妻』が加わって、高い壁ができてしまいました。人から見て後退だと思われてもかまわないので、一歩一歩、かみしめながら前に進んで行きたいと考えています。
取材日:2020年9月18日 ライター:玉置 晴子 ムービー編集:遠藤 究
※オンラインにて取材