2025大阪万博ロゴをデザインしたのは、生粋の大阪人。「お金よりも自由にできる方に行く」シマダタモツさんが大事にしていること。
2025年に大阪で開かれる日本国際博覧会(大阪・関西万博、以下大阪万博)のロゴマークが、2020年8月に公表されました。約5800点の応募作品から選ばれたのは、インパクト抜群の個性的なロゴマーク!「デザインしたのはどんな人?」との思いから、発案者のシマダタモツさんにお話を伺いました。
デザインの専門学校をたった1学期で中退したシマダさんが、どのようにキャリアを歩み、万博のロゴを手掛けるに至ったのか? 生粋の大阪人であるシマダさんならではの、笑いがいっぱいの楽しいインタビューとなりました!
大御所デザイナーへの弟子入りが、キャリアのスタート。夜の飲み屋で仕事と人脈づくりの日々
デザインの道を志したきっかけは?
もともとモノづくりが好きで、子どもの頃は大工に憧れていました。高校のときにファッションデザイナーに興味を持ち、その流れでグラフィックデザイナーという職業があることを知りました。ファッションデザイナーは当時有名な人がかなりいたのですが、「グラフィックデザインの道ならば1番になれるのでは?」という浅い考えで(笑)、専門学校に進みました。
ですが、早くも1学期に中退してしまったんですよ。その理由は、矢印を100個描く課題を出されたから。今でも強烈な記憶として残っているのですが、「無理!これはしんどい!」と、単純な理由で辞めてしまいました。 当然、お金を出してくれた親は激怒です。金を返せということで、中退後は母が営んでいた喫茶店で働きました。
すると、その店の隣がスチール写真のスタジオで、スタッフがよく店に来ていて、その中にコピーライターの人がいて「興味があるなら、デザインの現場を紹介するぞ」と言ってくれたんです。「お前は信用していないが、おかん(お母さん)のことは信用しているから紹介してやる」ということで、 “先生”と呼ばれるほどの大御所デザイナーのところに面接に行きました。当時金髪だったのですが、先生が「面白いやつやな。明日から来い」とおっしゃって、弟子入りさせてもらえたのです。そこでは何かを教えてもらうことはなく、現場を見て勝手に学べという感じでした。鍋の作り方やビールの注ぎ方は細かく教えられましたが(笑)。
最初の職場では、デザイナーの仕事はあまりしていなかったのでしょうか?
先生の送り迎えを一生懸命やっていました(笑)。3年ほど経った頃、以前に先生の元で働いていた人が在籍しているデザイン事務所が、「ものすごく忙しくて手が足りないから一緒にやらないか?」と誘ってくれたんです。そこは主に百貨店のPRを請け負っていたので、チラシなどの販促物を作ってみたいと思って、移ることにしました。
最初はバーゲンのチラシ作りからスタートしたのですが、ここでようやく、最初の起案から制作物として世に出すまで、一連の流れを学ぶことができました。クライアントの無理を聞きながら(笑)、いかに自分のカラーを出して他とは違うチラシを作るか、考えながら仕事をする楽しさを知りました。
また、めちゃくちゃ忙しい仕事場だったので、スタジオスタッフやカメラマンなど色んな人が出入りしていて、幅広い人脈が築けたことも大きかったですね。その後の仕事に生かすことができました。 3年弱ほど在籍して、その後に、社長と営業、そしてデザイナーの私、というごく小さい規模の会社に移りました。
どんなきっかけで移ったのですか?
当時、若かったこともあって夜な夜な出歩いていたのですが(笑)、飲み屋で知り合った人から「今度会社作るから、お前も来いや!」と言われ、面白そうだなと思ったんですよね。小規模で、デザイナーも自分一人なので、自由に好きなことができそうなのが魅力でした。ここでは主に飲食店のPRを請け負っていました。
営業が取ってくる仕事もしましたが、やりたい仕事は自分で探さなくてはと思い、相変わらず夜な夜な出かけて人脈を作り(笑)、仕事の種を見つけていました。そこから自分自身で仕事にして、自分で作る、というやり方をしていました。 そんなときに、とあるパーティーで著名なクリエイティブディレクター(CD)と出会ったのですが、これが転機となりました。
どんな仕事も、断らない。人との出会いがあれば、何でもできる
どのような転機だったのでしょうか?
最初のデザイン事務所でやっていた百貨店の仕事は、カレンダー通りにお正月、バレンタイン、父の日、母の日…と、やることがほぼ決まっていて、一回りするとだんだんルーティン作業になっていくんです。次の会社で手掛けた飲食店の仕事も、ひと通り経験すると、同じような感覚が出てしまう。ですが、CDとの仕事は、全く違いました。
それまでは「要素が全部入っている」とか、「プロモーションとして成立している」とか、そういったことが重要だったのですが、ここではデザインクオリティの高さが求められました。提出したデザインを突き返されることが何度もあって、今までにない刺激を受けましたね。最初は会社の中でやっていたのですが、CDの勧めもあって独立することになりました。
実は、CDから「俺が紹介してやるから、お前はスペインの事務所に行け!」と言われ、とは言ってもお金がないので、まずは渡航費用を貯めようと独立した、という事情があったんです。でもいざ独立したら仕事が忙しくて、それどころではなくなってしまいました(笑)。
ということは、独立後も仕事は順調だったんですか?
そうですね、最初から順調でした。広告やパッケージなど、とにかく断らずに何でもやったということもあります。私の本職はグラフィックですが、空間デザインもやりましたよ。自分でできないことがあれば、それができる人を探して、チームを組んで仕事を成立させていました。
例えば、飲食店のデザインを頼まれたら、知り合いのツテでインテリアデザイナーを探し、まずは「一杯飲もうか?」と誘うことから始まります(笑)。この仕事のやり方は、今も大きく変わっていません。仕事を切らさず続けるには、「一緒に楽しみながら仕事をやってくれる人といかに出会うか?」が大切です。人との出会いがあれば、どんな仕事も断らずに貪欲にしがみつけますし、何でもできます。
シマダさんは、ずっと大阪が拠点ですが、大阪での出会いを大切にしているからでしょうか?
それもありますが、一番は大阪が好きだから。それだけです。
今の時代、どこでも仕事はできると思いますが、好きな場所で仕事をすることは大切だと思いますよ。だから、仕事をする事務所の環境にはすごくこだわっています。起きている時間は自宅よりも事務所に長くいるわけですから、居心地良く過ごせる空間にしています。
「お金よりも自由にできる方へ」が口癖。作りたいものを作れる公募は、大切な機会
そんなシマダさんがこよなく愛する大阪で開かれる、大阪万博のロゴについてお伺いします。この公募に応募したきっかけは?
最初は応募するつもりはなかったんです。というのも、少し前に関西の別の公募デザインに応募したんです。「コレだ!」というものができて、自信を持って応募したんですけど、落ちてしまって。「もう2〜3ヶ月仕事せんとこ」と思うくらいに、やさぐれていました(笑)。そんなときに大阪万博ロゴの公募を知ったんですが、「またコンペか、もうしばらくええわ」くらいの気持ちでした。
その後、「若いもんでやったらどう?」という話になり、デザイナーやコピーライターとチームを組んで応募することにしました。これが今回の大阪万博ロゴのために組んだ「TEAM INARI」です。誰のデザインに決まっても、チームとして仕事をしていこうと考えて組んだチームで、若手デザイナーが中心になり、ロゴを3案作りました。
この時点では、私は自分の手は動かしていなかったのですが、関わっているうちに自分でも作りたくなってきて(笑)。私が作ったロゴも「TEAM INARI」の一つの案として応募したところ、大阪万博のロゴに選ばれたのです。
受注案件でお忙しいと思いますが、公募には積極的に応募されているのでしょうか?
公募はテーマさえ守れば、表現は自由です。クライアントもいないですし、作りたいものを作れる機会は表現者として大切にしています。 私は昔から「お金よりも自由にできる方に行く」と口癖のように言っているんですよ。自由にできる仕事はやはり楽しいので、できるだけ応募するようにしています。
ロゴへの賛否両論の反応もたくさんの声はそれだけ興味を持ってくれている証拠!
大阪万博のロゴが公表されたとき、多くの反響があったと思いますが、どう感じましたか?
否定的な意見があることも分かっていますが、どんな反応でもたくさんの声が挙がったことがうれしいです。よく聞く「気持ち悪い」との反応も、興味を持ってもらっている証拠。シラーっとされるより、ありがたいと思っています。
ロゴの仕事は、今はレギュレーションを作っている段階です。これから大阪万博のシンボルマークとして世に出していくので、そこでしっかり仕事をしていきたいですね。
2025年の開催に向けて、ロゴを見かける機会が増えていきますよね。これからの展開が楽しみです! では最後に、クリエイターに向けてアドバイスをお願いします。
私自身はあまり偉そうなことを言える立場ではないのですが、特に若い人に対して思うのは「お酒を飲む人が減ったなあ」ということ。若いんだからとことん遊んだらええと思いますよ。そこから人とのつながりが生まれ、クライアントやチームとして一緒に仕事をするメンバーとの出会いがあるかもしれない。飲み屋で営業をして、仕事仲間も作ってきた私が言えるのは、それくらいです(笑)。
取材日:2020年11月5日 ライター:植松織江 スチール:山方 唯司 ムービー編集:遠藤 究