漫画家クリハラタカシが描く「気持ちいい風」が吹く世界
漫画『冬のUFO・夏の怪獣【新版】』『ツノ病』、絵本『ゲナポッポ』など、捉えどころのない少し不思議で少し常識のズレたシュールな世界観と愛らしいキャラクターで、読者を魅了するクリハラタカシさん。自称「石橋をたたいて渡る性格」で、漫画家デビュー後もゲーム会社で人気ゲームのキャラクターデザインに参加したり、美大で助手をしながら漫画やアニメーションを作るなど、独自の世界を広げてきました。満を持してフリーランスとなり、次々とナンセンスな作品を世に送り出している、いま注目すべき作家のひとりです。会社員が独立する秘訣(ひけつ)や、仕事の楽しみ方をうかがいます。
「見たことない面白さに頭を殴られたような衝撃」――長新太との出会いで歩き出した“まんが道”
絵や漫画との出会いを教えていただけますか?
保育園の頃から、絵を描くのが好きでした。親にほめてもらえるのもあって、いつも絵を描いていました。
「漫画を描きたい」と、強く志したきっかけは、長新太(ちょう しんた)さんの『なんじゃもんじゃ博士』との出会いですね。
小学1年生の頃に図書館で初めて読んだときは、「見たことない面白さ」に頭を殴られたような衝撃を受けました。
予想外の展開や、何があってもおかしくない奇妙な世界なのに、主人公が動じない感じとか……。何より「自分でも描けそうな絵」だったのが大きかったです。
それ以前にも、友達の家で『墓場の鬼太郎』や『のらくろ』、手塚治虫の初期の作品などを読んで、面白いと思っていたんですけど……それは「自分に描ける絵ではない」ものだったんです。
クリハラ少年にとって漫画は、かなり初期から「描くもの」だったんですね。
長さんが好きすぎて陶芸教室で「なんじゃもんじゃ博士人形」を焼いて、ご本人にプレゼントしに行ったこともありました。そうしたらご自宅に上げていただいて……緊張して何を話したのかは覚えてないんですけど、本にサインをかいてもらえたのは本当にうれしかったです。
そのまま、“まんが道”に突入したんですか?
それが……小学生の頃は、描いた漫画を友だちに読んでもらったりしたんですけど、中学生くらいからは「言うほどうまくないな」と自分で思うようになって、あまり描かなくなっちゃいましたね。「もう少しうまくなってからやろう」というダメな精神です。
「石橋をたたいて渡る性格」と美大とデビュー作
ではなぜ、美大に進学されたのですか?
あまり目標もなくこれ以上勉強したくないなと思って(笑)。じゃあ、何がしたいのかと考えたときに、やっぱり「絵を描くのが一番好きだな」と……。それに「絵の予備校に通ったら、漫画も少しはうまくなるかな」というおもわくもあったりして。
高校二年の冬に美術予備校の夜間部に通い始めました。高校はまあまあ進学校だったので勉強が厳しくて、両立は大変でした。結局、浪人が決まったんですが「一日中絵を描いていられる環境」が手に入って、ものすごくうれしかったのを覚えています。
“まんがの道”はあきらめてなかったんですね。
人生で一度は雑誌に載ってみたいと思っていたので……。『まんが道』(藤子不二雄A)も愛読して、ずっと憧れがありました。
多摩美術大学でグラフィックデザイン学科を選んだ理由は?
美大って、卒業後の道が不確かなイメージがあるじゃないですか。でも、デザイン科なら就職先もありそうかなと思って。(笑)
「石橋をたたいて渡る性格」というか、あまり無鉄砲なことができないタイプなので、それは美大に行く自分なりのギリギリの保険でした。
それと、当時……20世紀の終わりくらいって、テレビCMがすごく面白い時代で。クリエイティブディレクターの佐藤雅彦さんや大貫卓也さんが活躍されていて、CM作りに興味もあったので、「広告コース」があるというのも大きかったですね。
漫画は描いていたのですか?
大学1年目は漫然と過ごしてしまったんですけど、「そろそろ本腰を入れて漫画を描かなきゃ」と2年目から動き始めました。1年かけて描いた40ページの漫画がデビュー作『アナホルヒトビト』です。
つげ義春にハマッていたことや、ノストラダムスの大予言がはやった1999年の世紀末の世相に合わせたこともあって、まあまあ暗い内容です。「これでダメなら漫画家をあきらめよう」というくらいの気合いで描いた作品で……それが運よく講談社の『アフタヌーン四季賞』に入りました。
デビュー作が教えてくれた「自分の壁」と「自分が描きたいもの」
デビュー作を振り返ってみて、いかがですか?
自分のできないことが浮き彫りになりましたね。まず、1年で40ページの作業ペースでは、仕事として成立しないということ。そして、自分はドラマチックな話やキャラクターのエモーショナルなものを創るのが苦手だということ。あとは「もっと幸せな話を描いてみたい」という目標もできました。
自分を含めて、割とその年ごろの美大生は、暗くてネガティブな作品を作りがちだったので……それを脱却したいと思いました。
次の年くらいに見た映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の影響も大きいです。……フィクションで、そこまで見た人を純粋に悪い気持ちにさせる必要があるのかな、って。自分は創作物でこういうものは作るまい……「幸せなもの、楽しいものを創りたい」と思ったんですよね。
どうやって「暗い作品」を乗り越えたんですか?
まず「時間をかけ過ぎると考えすぎて暗くなるのかな」とか思ったので、「素早く、手軽に、気軽に、何も考えずに」を意識して、作品を作ってみました。『ツノ病』や『ハッピーボギー』(アニメーション)などです。
アニメーションはちょうど大学で授業が始まった時代で「いちばん漫画に近い授業だな」と思って軽い気持ちで履修していたんですけど、遊ぶように楽しく作れました。すごくうまくいったわけではないけれど考え方の実験としては良かったと思っています。
後に『つみきのいえ』でアカデミー賞の短編アニメ賞を獲る加藤久仁生君や、ゼミの教授との出会いもあって、作品作りに大きく影響を受けました。
石橋を叩いて渡った就職先は……ゲーム会社!?
学生時代に念願のデビューを果たし、卒業後はどうされたのですか?
自分の力では漫画の週刊・月刊連載は到底できないですし、就職はするつもりでした。石橋を叩いて渡る性格ですし(笑)。とりあえず大学に入る前から興味があった広告系の会社を受けました。みんなが名前を挙げていた博報堂や電通を受けて、まあ落ちるわけですけど。そこでようやく我に返ってポートフォリオを真剣に見直したら広告系の作品が全然なくて漫画とイラストとアニメーションばかりだったことに気がついたんです。
「自分は広告への真剣さが全く足りなかったな」とやっと気づくわけです。
で、ゲーム会社を受け始めました。
突然、ゲームが出てきましたね?
「自分が大学時代に熱中していたことを活かせそうな就職先」と考えたらすごく自然にゲーム会社が出てきました。それで何社か受けてありがたいことに株式会社ナムコに内定頂いたのですが。親からは「ゲームの害」みたいな新聞の切り抜きが送られてきたりして(笑)。もちろん、そのあと、きちんとした会社だと理解してもらいました。子供の時、家はゲーム禁止だったんですよね。友達の家でファミコンはしてましたけど(笑)。
「これ以上楽しい仕事なんてない」ゲーム会社での日々、そして…
ゲーム会社での仕事はどのようなものでしたか?
楽しかったです。入社3年目ぐらいに『塊魂』プロジェクトに参加することになって、ディレクターの高橋慶太さんと出会ったことが何より大きかったです。
ポートフォリオの漫画やアニメーションなどを見て、「キャラクターだけではなく世界観や動きも作れる」と、誘ってもらえたのかなと思っています。就職活動も、就職後も大学生の時に作った物に救われました。
『塊魂』は、最初は割と小さめのプロジェクトで、皆でいろいろ小ネタを出し合ったり、新しいことに挑戦できました。ゲーム会社に入って、それなりの期待はしていたんですけど、想像以上に楽しい仕事でした。
失敗や苦労などはありましたか?
楽しくてそういうことはあまり感じたことは無かったんですけど、強いていえば1人で『塊魂』のオープニング(OP)映像を作ったのは、けっこう不安でしたね。最初、ゲームにOPがあることも、知らなかったくらいで……しかもこんなちゃんとした会社の製品の映像を自分一人で作っていいものなのか?完成した後も果たしてこれで大丈夫なのか?……と不安だらけでした。「海外のゲームイベントでOPを見たお客さんが大ウケしていたよ」と、高橋さんから聞いた時にホッとしたのを覚えています。
そんな楽しい仕事なのに、なぜゲーム会社を辞めてしまったのですか?
高橋さんのプロジェクトが楽しすぎて、「これ以上楽しい仕事はもうゲーム会社で出会えないだろうな」と思ったんですよね。成仏してしまったというか……(笑)。もうこれ以上自分は会社に貢献できなさそうだなという予感もあり。スマホが普及し始めてゲーム作りが変わり始めていたことや、会社の合併で組織の体制が変わりそうだったのも 、退社に踏み切るきっかけになりました。そもそも就職するときから「いつかはフリーランスになる」とは思っていたんですけど。
そこから、ずっとフリーランスですか?
こういう性格なので(笑)……いきなりではなくまだ保険をかけて、母校の助手の仕事(正規職員)をしながら、個人で請け負える範囲で漫画やイラストを描いていました。そのうち、仕事も増えてきて両立が難しくなってきたので、フリーランスになりました。
ナムコが7年、助手が約8年……15年もかかっちゃいましたね(笑)。
漫画は「趣味ぐらい大事なもの」だから。
フリーランスの仕事はどのように請け負い、進めているのですか?
最初はアニメーションの教授の知り合いの会社などから、時々仕事をいただいたりしていました。あとは2004年に初めての単行本『ツノ病』が青林工藝舎から出版されたことが大きかったと思います。
この本を読んでくれた人から声がかかって、その仕事を見た人がまた声をかけてくれて……と、出版された本が営業をしてくれて少しずつ広がっていった感じです。
絵本はどのような経緯で描かれるようになったんですか?
これも漫画やイラストを見た人から声をかけてもらえたのがきっかけです。
昔から漠然と「絵本を描きたい」という憧れがありましたが、絵本って、デビューして出版に至るルートが分かりにくいですよね。漫画はまだ雑誌など発表の媒体が多くて、新人賞や持ち込みをする窓口もあるんですけど、絵本はコンクールも多くはないので。
作品が次の作品につながるんですね。
ちなみに『ツノ病』シリーズのコマの余白には、いずれ絵本や別の作品にしたいなというアイデアがちりばめてあったりもします。本筋とは関係ない部分とかにも。
なるほど、漫画を描くことが絵本の可能性を広げることもあるんですね。
そうですね。自分の周りだけかもしれませんが『アックス』系の漫画を見ている絵本編集者はそこそこいる実感はあります。流行りではないちょっと癖のある絵が多いので絵本との相性が意外といいのかもしれませんね。絵本の賞を狙うよりもしかしたらアックスの賞を狙ったほうが絵本への近道かも?と最近思ったりしています(笑)。
漫画、イラスト、絵本、アニメーション、仕事の選び方は?
アニメーションは、時間と体力をすごく取られてしまうので、最近は控えてますが……。
自分の中で、やっぱり一番好きで大事なのは漫画なので、漫画を大事にしながら、そこから派生するイラストや絵本、ときにアニメーションを作っているという感覚はあります。
まあ肝心の漫画の依頼は全然こないんですけど(笑)。来ても量産はできないのでなかなかお受けできなかったりもしつつ。気持ちの中では漫画が中心です。
クリハラさんにとって、漫画は本当に特別な存在なんですね。
漫画は好きなものを描ければお金になろうがなるまいが、みたいなところはややあって……出版されるからには売れないと困っちゃうんですけど。仕事とかお金とか関係なくて描きたいもの……漫画は「趣味ぐらい大事なもの」ですかね。でもやっぱりなんだかんだ売れたいです!
「趣味ぐらい大事なもの」とは「言いえて妙」ですね!
漫画はなるべく描きたいものだけを描いていたい(笑)。もちろん、新しいことに挑戦したり、苦手な表現を勉強したり、新しい線を探したり、努力は必要ですが。
「お話作りは苦手」な漫画家が描きたい「気持ちのいい風」
漫画や絵本のストーリーはどのように生み出されているのでしょうか?
お話作り、特に感動的・感情的なドラマを考えるのはすごく苦手で、大学生の頃からずっと困っています。どうしたら面白いストーリーを作れるんですかね……。
1つ自分なりに考えたのは「ハッとするワンシーンをたくさん集めて、それらの断片をつなげていく」という方法です。
でもクリハラさんの作品は、どこかノスタルジックというか、心が動かされます。
『冬のUFO・夏の怪獣』は、自分の中では精一杯「感情や気分を扱う」ことに挑戦した作品です。悲しいなとか、いい気分だなという感情は、直接的には描けないけど、「自分が現実に悲しいとかいい気分と思えるシチュエーションを描ければ、読んだ人がその感情をそれを通して再生できないかな」と考えて。
年に数回、すごく気持ちのいい完璧な風が吹くときってあるじゃないですか。例えばそれを再現できたらいいなって、思います。
絵本は、作品ごとにタッチが違ったり、それぞれの世界観がありますが、作り方は同じですか?
「1つのアイデア」を見つけたら、そこを広げていく感じで考えてます。
「型にいろんなものがハマるのは気持ちいいな(『ぱたぱた するする がしーん』)」、「子供って大人と鬼ごっこすると大興奮するな(『こうえん』)」、「子供は大人の間違いを指摘するの大好きだな(『これなんなん』)」、……というようなアイデアをお話に落とし込んでいます。
いわゆる原作付きの「絵」を担当するときはどうですか?
打合せでのオーダーや、作品から受けるイメージをどう表現するかを大事にしています。あとはもちろん「ベストを尽くす」。人の作品に手を入れることになるので自作とは違った緊張があります。
絵柄も作品ごとに違いますよね。
作品の内容ごとに絵柄や作風を意識的に変えています。それは、長所でもありつつ、「この人はこれ」みたいな印象が薄くなるので弱点にもなるんですけど。
広告の場合、ひとりのディレクターが、商品によって写真や絵や映像を使い分けたり、いろいろな作家やスタッフと仕事をしてると思うんですけど……。それと同じような座組を自分の中に持つようなイメージです。
依頼仕事の場合、「今回の案件は過去作に近いイメージのものがあったりしますか」など要望を聞いたりもします。
これまでに大きな失敗とか挫折のようなものはなかったんですか?
そんなことはないです……。発売後に「もっとこういうこともできたかも」みたいに後悔が押し寄せてきて、全部描き替えたくなるほど落ち込むこともあります。
それが次の作品へのモチベーションにつながる感じですか?
そうですね……つなげるしかないですね、そのためにももっと量産しないといけないんですね。
仕事を続けていくということ、これからのこと
クリハラさんが仕事を続けるうえで大切にしていること、考えていることを聞かせてください。
自分発の仕事はもちろん、依頼された仕事も、自分なりに楽しさや面白さを見つけてプラスできるようにこころがけています。期待に応えるのは大前提でそれ以上のものを乗せられたらと思っています。
そのためにも「どうしても期待に応えられなさそうな仕事を断れる」くらいの余裕は持ちたいですね。無理に請けると、自分も相手も不幸になってしまいますし……。
これからやってみたいことや、希望などありますか?
『ゲナポッポ』の2巻を描きたいんですけど、そのためにはもうちょっと売れてほしい……(笑)。
それと、いつか自分のキャラクターのフィギュアがガチャガチャ(カプセル玩具販売機)になったらいいな、という夢もあります。
あとは……自分が長新太さんの『なんじゃもんじゃ博士』を読んで受けたような衝撃をどこかの子供に感じてもらえたらうれしい、ですね。
取材日:2021年1月14日 ライター:平松正樹 ムービー 編集:遠藤 究