「伝説の新人」の著者インサイトコミュニケーションズ代表・紫垣樹郎氏に聞く、クリエイターとして突き抜けるための虎の巻
株式会社リクルートでクリエイティブディレクター、コピーライターなどを経て、株式会社インサイトコミュニケーションズを立ち上げた、クリエイティブコンサルタントで同社代表の紫垣樹郎(しがき じゅろう)さん。
著書『伝説の新人 20代でチャンスをつかみ突き抜ける人の10の違い』(集英社)は、新社会人に向けた成功のバイブルとして名高いロングセラーです。これまで1000人以上のトップ社員や経営者にインタビューを行い、“超一流”の仕事に対する考え方を発信してきた紫垣さん。ご自身はどういった経歴を経てきたのか、コミュニケーションを軸においたコンサルティングに着目したのはなぜなのか。じっくりと伺いました。
学生時代に痛感した、チャンスをつかむことの重要性
ご自身の初めての成功体験を教えてください。
子どもの頃は、リトルリーグでひたすら野球に打ち込む少年でした。高校まで熱心に野球を続け、集大成となる最後の夏の大会、まさかのノーヒットノーランで初戦敗退してしまったんです。しばらくは落ち込みました。
しかし「このままでは終われない」という気持ちが盛り返してきて、大学でも野球を続けようと決意。ところが勉強をおろそかにしていたため、模擬試験の偏差値は30台。何をどう勉強すればいいか、まず戦略を立てようと思い書店や予備校に行き、手に入るだけの合格体験記を集めて、じっくり読み込みました。
すると、合格体験記を書いた人は、合格した一方で不合格の大学もある人と、受験したすべての大学に合格した人の2種類に分かれていたのに気づきました。いわば、3勝2敗の人と、5戦全勝の人がいたんですね。両者にはどこか違いがあるはずだと、今度は全勝の人の勉強方法を調べました。そうしたら、全勝の人は高確率で共通する参考書を使っていたんです。
私にとってこれは大きな発見でした。そして受験日から逆算して、いつまでに何をするかを割り出して勉強を進めていくと、急に学力が伸び始めました。合格するには何を完璧にしておけばいいのか、やるべきことがはっきり見えたんですね。結局、浪人を経て志望校に合格しました。これが初めての成功体験です。
大学野球では実力を存分に発揮できたのでしょうか?
いいえ、そうでもありませんでした。私が入ったのは東京六大学野球に所属する野球部で、同期は甲子園出場経験者や、野球強豪校の4番でキャプテンといった選手ばかり。自分との差はすごかった。浪人して1年間のブランクがあった私は、「今に見てろよ“努力して追いついてから”が勝負だ」と、のんびり構えていました。しかし、それが大きな間違いだったんです。
同期の新人の中に、入部当初から存在を猛アピールする選手がいました。先輩に対する声がけだったり、練習中の声の出し方だったり、ものすごい意気込みです。そんな彼がある日、チャンスをつかみました。紅白戦で代打に起用され、ヒットを打ったんです。次の紅白戦では違う新人が呼ばれるのかと思ったら、また同じ選手が起用され、いつの間にかベンチ入りして、秋季リーグ戦が始まったときには試合にも出場していました。
そうしてレギュラーとして試合をしたり、相手のエースと対戦をしたりするうちに経験を積み、次のチャンスをつかんでいく。1年生が終わる頃には、私とは見ている世界も、入ってくる情報も違うという状態になっていました。私は大いに悔やみました。「のんびりやっている場合じゃなかった」と。考えてみれば、厳しい練習に「いかに付いていくか」という人と、「いかにチャンスをつかむか」という人では、当然ながら目的意識が違います。それは監督やコーチの目にも、野球への打ち込み方の差として映るはずです。
結局、私は大学野球で大活躍することはほとんどできませんでした。しかし、高校と大学で「上手な人からとにかく盗む」「スタートダッシュでチャンスをつかむ」という成功と失敗の経験をしたことは、大きな学びでしたね。そして「就職したら同じ失敗は繰り返さない」と心に決めました。
営業からクリエイティブへ。急成長のカギは“相談”にあり!
卒業後はリクルートに入社されます。最初はどういったお仕事をされていたのですか?
初めは営業部に配属されました。あれは入社して2カ月が経った頃、いまでも強烈に印象に残っているエピソードがあります。初受注を獲得するために躍起になっていた私は、ようやく手応えのあるアポが取れ、マネージャーに同行してもらって待ちに待った初受注を上げられました。
リクルートには、初受注をした新人が会社に戻ると、先輩方が「おめでとう!」と握手をして祝福する文化があります。私も会社に戻ると握手で祝福されました。その中に、同じ部署でトップの営業成績で活躍する、大学時代の体育会の先輩がいたんです。
私はうれしくなり、思わず「今回はマネージャーに同行してもらって決めたので、次は自分一人で受注したいと思います」と口走ってしまったんですね。そうしたら烈火のごとく怒られて…。「ふざけるな! そんな考えだと、いつまで経っても売れないままだ。お前が今やるべきことは、ひたすらアポを取ってマネージャーと同行する機会を増やし、先輩のやり方を盗むことだ」と大目玉を食らいました。
その瞬間、「確かにそうだ」と体にビリビリと電気が走った思いでした。上手な人から盗まないといけないのに、また自分でやろうとしていたと。入社1年目の早い段階で怒られたことは、本当によかったですね。そこからは、自分で成果を出そうとせず、いかに先輩のやり方を盗むかにフォーカスしました。
営業職からクリエイティブ職に移られた理由は?
半年ほど営業の部署にいた後、クリエイティブに異動になったんです。当時、私はクリエイティブの仕事をまったく理解しておらず、リクルートでは営業職こそが花形だと思いこんでいたので、非常にモチベーションが下がってしまったんですね。「なぜ自分だけクリエイティブに回されたのか」と、しばらく落ち込みました。
しかし、そんな考えは、あるミーティングをきっかけに180度変わります。当時配属された企画制作一課の力をどうやって高めていくかと話し合っていたとき、一人の先輩が課長に対して「課長はリクルートで一番の制作担当なんだから、もっとみんなにいろいろ教えてください」と言ったんです。
私はびっくりしました。まさか課長がそんなすごい人だとは知らなかったので(笑)。調べると、当時のリクルートが進めていた大きな案件の約半分は、その課長が企画制作したものでした。「この人の企画がすごいから、営業が数字を上げているんだ」と気がついたんです。そこから制作の仕事に興味を持ち、のめり込みはじめました。
入社4年目には社内MVPを受賞されていますね。どのように頭角を現していったのでしょうか。
あるとき「どうすれば課長のようになれるのか」とズバリ聞いてみました。そうしたら「一番になりたいんだったら一番仕事しろ」と言われたんです。
今では通用しない考え方かもしれませんが、仕事量を圧倒的に増やすことによって、質は絶対についてくる。だから人の何倍もの仕事量をこなせと。体力と気合には自信があったので、「量をこなせばいいならできる」と思いました。
それからというもの、新しい案件には先陣を切って「僕がやります!」と手を挙げ続けたんです。当然、まだ経験も実力も伴っていなかったので、自分一人では仕事を進められません。しかし自分を追い込み、先輩に相談しながら取り組むうちに、急加速で仕事ができるようになっていく感覚を得ました。
失敗も多かったのではないですか?
失敗は数え切れません。だから少しでも失敗しないようにするため、仕事が上手な先輩に「こんなターゲットにこう訴求したい、どうか」「こんなキャッチコピーを考えている、どう思うか」など、仕事を進める前に相談することを心がけました。
そうすると、いろいろな情報やアドバイスをいただけるようになります。失敗して学び続けていくうちに、それが少しずつ広告の効果に結びついてきました。もちろん、自分が一生懸命に考えた企画を頭から否定されることもあります。それは誰だって嫌ですよね。でも否定されることを怖がったら成長はできないと思っています。
当時のディレクター仲間たちの中にも、自分の考えだけで仕事を進める人が少なくありませんでした。そうすると効果が出てもそこそこだったり、効果が出なかったりするものです。クライアントに「あの広告、効果が出ていないよ」とガツンと言われるよりも、自分の考えができあがる前段階で、早いうちに上司や先輩に否定されたほうが、よっぽどいいですよね。取材前には取材項目を確認してもらう。取材後は、ここがポイントだと思う部分を聞いてもらって、「いやこっちの話のほうがストーリーとしては面白いんじゃないか」といったアドバイスをもらう。デザイン組みのときも、「このスペースを生かすためにこうしたらどうか」といったアドバイスがもらえる。
すると「なるほどそうか」という別の視点が入ってきます。最初のオリエンから取材、企画、原稿、デザインからクロージングまでのステップを、ただ自分なりに頑張っている人と、この間に10回も20回もいろいろなアドバイスをもらう人では、10倍20倍の成長の差が出る。結果として、広告の効果にもそれだけの差が出てくるのは当然です。
課題に対してアイデアや道筋を示す存在でありたい
コピーライターとして活躍されるようになったきっかけを教えてください。
リクルートの先輩が東京コピーライターズクラブ(TCC)の最高新人賞を受賞して、社内で大きく取り上げられるだけでなく、広告関係の雑誌でも大きな話題になりました。その先輩と一緒に飲みに行ったときに「仕事の幅を広げるには、紫垣もコピーで、一旗揚げるくらいじゃないとダメだ」なんて発破をかけられて。
僕もついつい「わかりました、コピーを書けばいいんですね。やりますよ」なんて啖呵を切っちゃってね(笑)。いずれにせよ、社内だけでなく外部の賞を目指したいと思っていた時期でもあったので、コピーライティングに本腰を入れたというわけです。それからは、クリエイティブディレクターとして制作指揮を執りながらも、「コピーはすべて自分が書く」と決めて実行しました。
でもその後2年間は、箸にも棒にも引っかからない状態で、なかなか評価されませんでしたね。3年目に入ったとき、いよいよ覚悟を決めなければと思い、周囲に「今年でダメだったらコピーライターを辞める」と公言して自分を追い詰め、仕切り直してスタートしました。たまたまその頃、社内ランキングトップ10のクリエイターによる、求人情報誌のプロモーションポスターのコンペがありました。憧れの大先輩コピーライターである眞木準(まき じゅん)さんがアドバイザーだったこともあり、絶対に勝ち取らなければならないチャンスです。
気合を込めてプレゼンをしたら、眞木さんに「これはすごいコピーだよ」と褒めてもらえて、うれしかったですね。半年後に、そのコピーでTCC最高新人賞を受賞しました。
退路を断って臨んだからこそ得られた結果というわけですね。
そうかもしれませんが、コピーライターとしては、TCC最高新人賞を受賞した後に力をつけたんです。受賞はある意味ラッキーというか。たまたま書けたコピーだというのは、私自身が一番よくわかっていました。
一方で、社内や広告業界からは「紫垣が最高新人賞を取った」と一目置かれはじめ、ありがたいことに新規プロジェクトに呼ばれることも増えました。しかし、毎回そのレベルのコピーをアウトプットできない自分を認識していたので、どんどん追い詰められるばかり。結果が残せてうれしい反面、「これはやばい状態になったぞ」と。
それから約3年間が、もっともコピーライティングを勉強した時期です。日本を代表するコピーライターである仲畑貴志(なかはた たかし)さんの全仕事を写経するように書き写したり、気に入ったコピーがあればPCに収集して研究したり。
徹底的に勉強を続け、ようやく3年経って「もうコピーは負けないな」と思える自信がつきました。実は、その頃から「コピーライターと名乗るのはやめよう」と思いはじめていたんですけどね。
ええ! それは一体なぜでしょうか?
コピーライターと名乗ると、コピーライターだと思われるわけですよね。「私はデザイナーです」と言ったら、デザイナーだと思われる。それは当然なのですが、クライアントが本当に求めているのは、コピーライターやデザイナーでしょうか?
もっと言えば、クライアントはいいコピーやデザインを求めているわけではなく、ただ単純に、課題を解決してほしいだけなんです。商品を売りたいのであれば、売れるようにして欲しいと思っている。その解決手段として、コピーやデザイン、映像といったクリエイティブがあるんです。
私にとってコピーは、自分が持っている武器の一つに過ぎません。もちろん、フィニッシュワークではコピーライティングやデザインの力が求められる場面はあります。でもその前の過程で、コミュニケーションを繰り返しながら、クライアントは何を求めているのか、消費者のニーズはどこにあるのかなど、最終的に核となるポイントを見つけ出すことがとても重要です。それを私たちは「インサイト」と呼んでいます。
そうしたコミュニケーションにこそ、クライアントは価値を感じてくれていると実感するようになって、自分がコピーライターだと言い続けることに意味を感じなくなったんですよ。私は「物事を解決してくれる人」「課題に対してアイデアや道筋を示してくれる人」という位置づけで、なおかつコピーライティングもできるというのが、自分のあるべき姿だと思いました。
その考えが、御社の設立につながったのですね。ちなみに「クリエイティブコンサルタント」という肩書にはどんな意味が込められているのですか?
会社を立ち上げるにあたって、「コピーを書いていくらです」という仕事ではなく、「コミュニケーションをビジネスにしていること」をどうすればクライアントに伝えられるか、ずいぶん悩み、クリエイティブディレクターと名乗ってみたりしました。
でも考えてみれば、請求書の項目にコンサルティング費と書くこともあったなと思い出し、「それならクリエイティブコンサルタントという肩書を作ってしまえ」と(笑)。
自分の作品を営業担当者にすべし! 否定を恐れない気持ちが大切
現在のお仕事の魅力は何ですか?
私はもうすぐ、56歳になります。大学時代からの友達を見ていても、この歳になって、こんなに楽しく仕事をしているヤツはいませんね。
56歳になっても、仕事が本当に楽しくて仕方がないです。それはやはり、その規模感だけでなく、社会的な影響も含めて、難しくてチャレンジしがいのある課題が、案件ごとに少しずつ大きくなり続けているからだと。
それを一つ一つ越えていく度に、クリエイティブやコミュニケーション領域で“残す物”が増えていくんです。私たちの仕事においてすごく幸せなのは、書籍や映像、名刺やパンフレットなど、あらゆるものが形として残っていくことです。
いいものを作れば、手にした人たちが「誰が作ったの?」「どこで作ったの?」と興味を持ってくれます。そして「あの人に依頼したい」「またお願いしたい」と次につながる。つまり、自分の残した物一つ一つが、優秀な営業担当者になってくれる。仕事をするうえで、この考え方は大切にしています。
作品が残る幸せは、すべてのクリエイターに当てはまりますね。他に大切にするべきことはありますか?
自分で徹底的に考えることですね。同時に、否定されることを恐れない気持ちも大切にしてほしいと思います。いろいろな人にアイデアを見てもらうと、さまざまな意見が出てきます。それを謙虚に受け止めることが大切です。
弊社のスタッフには、「ここはこうだから、こういう色使いなんだ」なんて、企画を通すために相手を説明しはじめた瞬間、その企画はボツにしろと常に言っています。なぜなら、一般の消費者に向けて同じようにプレゼンすることは決してできませんから。
料理と同じで、お客さんはただ、おいしいものを求めているだけです。それに対して、料理人が素材や調理法をあれこれ説明したからといって、料理がおいしくなるわけではありません。目の前のクライアントを言いくるめて企画を通しても、たいがい効果は出ません。
だからこそ、いろいろな意見に耳を傾けて謙虚に受け止め、何が足りなかったかを考えてアイデアを練り直すことが必要です。若いうちから自分のアイデアが否定されることを恐れない勇気を持つと、どんどん吸収できるようになりますよ。
それに、実は否定されればされるほど引き出しが増え、次に否定される確率は減るものです。「前にも同じことを言われたな」と、どこを直せばいいのか気づくのも早くなり、自己チェックができるようになっていく。それを乗り越えてこそ、本当のクリエイティブディレクションができるようになります。
例えばうちの社内で上がってきた企画に対して、結果が出そうかどうか私がチェックできるのは、過去に自分の仕事において否定され続けて増えた引き出しが山ほどあるからです。
否定を受け入れられる勇気や謙虚さがないと、なかなかストライクゾーンに入る面白いものを作り続けることは難しいのではないかと思いますね。
最後に今後の展望をお聞かせください。
10年ちょっと前に登場したスマートフォンが今では欠かせないデバイスとなり、それを使ったクリエイティブやコミュニケーションのニーズが生まれました。これからは、それとは比べものにならないレベルの変化が、次々と起きてくると思っています。
実際に、リアルの代替となるオンラインイベントが急速に増え、進化していますよね。今後はさらにXRやVRが発展するかもしれないし、3Dプリンティングや自動運転が当たり前になったら、コミュニケーションのあり方も変わるかもしれない。こうしたテクノロジーの変化だけでなく、社会の価値観も加速度的に変化しています。
そうした変化の時代でも、コミュニケーションは絶対になくなりません。「どうすれば伝えられるのか」という課題に対する解決策は、その時代ごとに姿を変えても、永遠に求められると思うのです。そこで絶えず半歩先、一歩先の解決策を、クリエイティブを通じて提供し続けていきたいですね。
かといって、明確な将来像があるかというと、そうでもなくて。というのは、「数年後にこうなっていたい」という目標を持つこと自体、無意味な時代になった気がしているからです。
数年後には、「もうそんな仕事なくなっているよ」なんてことが、当たり前のように出てくると思うんですよ。だからこそ、「コミュニケーション領域でどう伝えたらいいか」という不変のテーマを磨き続けて、常に時代に合わせた新しい解決策を見つけ出していきます。
取材日:2021年5月21日 ライター:小泉 真治 スチール撮影:鈴木 勝彦 ムービー撮影:加門 貫太 ムービー編集:遠藤 究
株式会社インサイトコミュニケーションズ: https://i-com.co.jp/