ラインプロデューサーは 映画界で求められている職種

Vol.97
プロデューサー・ラインプロデューサー 大日方教史(Takahito Obinata)氏
 
映画のエンドロールに「ラインプロデューサー」と聞き慣れない名前が登場することが増えてきました。いったい映画界の中でどんな役割を担っているのでしょうか?そこで今回は、話題の映画「凶悪」など、数々の映画でラインプロデューサーを務めている大日方教史(おびなたたかひと)さんにインタビュー。ラインプロデューサーの役割や、現在に至るまでの歩みなど、知られざる映画界の興味深い側面について語っていただきました!

全体を見渡しながら調整する 「ラインプロデューサー」

「ラインプロデューサー」とは、あまり聞き慣れない言葉ですが、どんな役割になるんですか?

予算やスタッフ、スケジュールの管理ですね。お金を集めるのはプロデューサーの役割ですが、現場とプロデューサーの間に立って全体を見渡しながら調整する立場です。とはいえ、これは私の捉え方であって、他のラインプロデューサーは違うことを言うかもしれない。そう考えると、確かに曖昧なポジションかも知れません。

大日方さんは、会社に所属しているわけではなく、フリーの立場ですよね。どこからラインプロデューサーとして仕事をしてほしい、と声がかかるのでしょうか?

監督から声がかかる場合もあるし、プロデューサーからの場合もあります。監督やスタッフの意向を汲みながら、予算やスケジュールを見て、例えばこのシーンは地方ロケがいいのか、セットがいいのか、CGがいいのか。全員が納得するように持っていくのは難しいですが(笑)、できるだけ多くの人が納得するように調整しています。

言葉にするのは簡単ですが、多くの人の思いを「調整する」って難しいですよね。

映画の現場は一人一人が自己主張を持ったクリエイターですから、それはそれは大変ですよ(笑)。予算やスケジュールを考えて、「無理」というのは簡単ですが、それでは現場は納得しない。理想の撮り方は無理でも、それならどんな代替案があるか、アイデアを出し合って考え、話し合いをまとめていきます。今はだいぶ穏やかになりましたが、昔はケンケンガクガクで喧嘩になったりしましたよ。いろいろな現場を知っているからこそ、今はスタッフを納得させることができるのかもしれませんね。

24歳で若松孝二監督に弟子入り 「人間崩壊」させられながら修行

大日方さんが映画界に入ったキッカケは?

24歳のときに若松孝二監督に弟子入りしたのがキッカケです。1972年に公開された「天使の恍惚」を見て、これはすごい映画だ、ぜひ自分もこういう映画に関わりたいと思って、いきなり若松監督に手紙を書きました。

それまでは、どんな仕事をしていたんですか?

化学工場で働いていました。化学が好きで選んだ仕事でしたが、だんだんつまらなくなってきていたんですよね。映画は好きでしたが、特に映画の勉強はしたことがなく、いきなり飛び込みました。

若松監督は、非常に個性的な監督ですよね。

はい、もっとたくさん弟子がいると思って入ったのですが、監督がとても個性的なせいか、ごく少人数でした(笑)。とにかく圧倒的な存在感でしたね。入ってすぐに人間崩壊させられましたから。箸の持ち方、掃除、電話の取り方、24歳まで生きてきて、サラリーマン経験もあったから「できている」と思っていたことを叩き潰されて、イチから人間を構築していったようなものです。

「映画とはこういうもの」 若松監督の下で学ぶ

具体的な仕事については、どうでしたか?

何も教えてくれません(笑)。助監督になって、いきなり「ロケハン行ってこい」と、ロケ地を探しに行かされましたよ。ただ、近くで仕事をしていると「映画づくりとはこういうものだ」ということがわかりました。すべて自分でやる人だったので。

昨年は突然の訃報となってしまいましたが。

結局、最後まで付き合いました。途中でチーフ助監督になったんですけど、チーフになってもやることはまったく変わらずに、ロケハンして、スケジュール切ってましたけどね(笑)。

若松監督と一緒に仕事をしている時も、立場としてはフリーだったんですか?

そうです、作品単位で呼ばれて仕事をする立場です。助監督として入ることもありましたし、制作部として入ることも、ラインプロデューサーとして入ることもありました。ただ、若松監督の作品はあまりお金がもらえないので(笑)、TVや他の映画の仕事もしていました。幸いなことに、自分で営業をしなくても声をかけてもらうことが多くて、20年以上映像の世界で飯を食っています。

映画は強烈な人の集まり 調整役のラインプロデューサーは求められている職種

営業することなく継続して仕事があるとはすごいですね。ラインプロデューサーとして声をかけられる理由はどこにあるのでしょうか?

一番大きな理由は、若松監督の下で長く働いてきたので、現場をよく知っていることではないでしょうか。他の現場でキャリアを積んでも、若松監督の作品に再び参加するとボロボロに怒られてきました(笑)。何から何までやる若松監督の現場で鍛えられてきたせいか、他の現場でサード助監督として入ったのに、つい制作部の仕事に手を出してしまって「それはお前の仕事じゃない」と言われたこともありました。映画はもちろん、TVやWebなど映像を作るときにいろいろな事情が交錯するようになりましたから、撮影現場の視点や思いと、管理する側の事情をつなぐ立場が必要になり、ラインプロデューサーは求められている職種なのかな、と思いますね。

映画「凶悪」は、どのように関わっていったのですか?

監督の白石和彌は弟弟子なんですよ。美術の今村力さんともつながりがありました。スタッフに力のある人を集めたので、監督ともスタッフとも話ができる調整役が必要だと言うことで呼んでもらったのだと思います。さらに、映画のタイトルが「凶悪」ですから、そんなタイトルの映画のロケ地にしたいと交渉しても、なかなか貸してくれなかったり、大変でした。ですが、苦労した甲斐があって、骨太のいい映画になったと思います。

社会派映画を作りたい 最新作「始まりも終わりもない」12月公開

今後はどのような仕事をしていきたいですか?

自分で企画を立てて、プロデューサーとして映画を作りたいですね。あまり恋愛映画には興味がないので、社会派のテーマで。12月にはプロデューサーを務めた映画「始まりも終わりもない」が公開されます。舞踊家・田中泯が主演で、セリフがなく「体感」に近い独特の映画ですが、スタッフは力のある人ばかりなので「強い」映画に仕上がりました。ぜひ見てほしいです。

ラインプロデューサーとしてはいかがですか?

魅力的な監督やスタッフの方に呼ばれれば関わりたいと思いますが、それだけをやっていきたいというわけではないですね。また、ラインプロデューサーは目指す職種ではないと思っています。最終目標はプロデューサーですから。それに、なりたくてもなれるものではないですから。

映画界を目指す若い人へメッセージをお願いします。

実は若い人が来てくれなくて、人手不足なんですよ。映画の学校はたくさんあるんですけどね。今はiPhoneでも映画が撮れる時代なので、下積みするよりも自分で作った方が早い、と考える人が多くなっているんでしょうか。確かに「下積みをすれば監督になれるか?」と問われれば、向き不向きもあるし、なれない可能性の方が大きいですからね。ですが、下積みも社会勉強になるし、現場の人とつながりができて、私のように映画界に関わりながら仕事をすることもできます。とはいえ、安定していないし、あまり自信を持っておススメできないことも確かです(笑)。

取材日:2012年11月8日 ライター:植松

Profile of 大日方教史(Takahito Obinata)

若松孝二監督に弟子入りし、映画界入り 現在は、フリーの映画プロデューサー・ラインプロデューサーとして活躍中

<参加作品> ・始まりも終わりもない (2013) プロデューサー ・今日子と修一の場合 (2013) プロデューサー ・凶悪 (2013) ラインプロデューサー ・ユダ (2012) ラインプロデューサー ・I'M FLASH! (2012) 制作担当 ・11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち (2011) ラインプロデューサー ・キャタピラー (2010) ラインプロデューサー ・カメリア ~Kamome~ (2010) 監督補 ・ロストクライム -閃光- (2010) ラインプロデューサー ・ロストパラダイス・イン・トーキョー (2009) プロデューサー ・カムイ外伝 (2009) 制作担当 ・風の外側 (2007) ラインプロデューサー ・遠くの空に消えた (2007) 制作担当 ・るにん (2006) 制作担当 ・髪からはじまる物語 (2005) ラインプロデューサー ・17歳の風景 少年は何を見たのか (2005) ラインプロデューサー ・ひまわり (2000) 助監督 ・明日なき街角 (1997) 助監督 ・Endress Waltz エンドレス・ワルツ (1995) 助監督

映画『始まりも終わりもない』 12月14日(土) シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開 URL:http://hajimarimo.com/ 劇場:シアター・イメージフォーラム 2013年12月14日(土) /第七藝術劇場 近日公開

 
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