「音楽は心のインフラ」音と人と紡いだ、岩代太郎さんの作曲家人生
映画やテレビドラマ、アニメなど多くの映像音楽を手掛ける作曲家・岩代太郎さん。『利休にたずねよ』『Fukushima 50』など数々の作品で、日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞する、日本を代表する作曲家です。そんな岩代さんが作曲家を志した理由、映画・テレビドラマ・アニメにおける音楽作りの違いとは? また、昨年から俳優らとともに取り組んでいる新たなプロジェクト「オトブミ集〜絆」への思いにも迫ります。
積み重ねた感動がやがて、表現者としての道を選ばせた
岩代さんは作曲家としてさまざまなジャンルで活躍されていますが、そもそも作曲家を目指したきっかけは何だったのでしょうか?
僕の父・岩代浩一も作曲家でした。父は幼い私を連れて映画、コンサート、舞台と数多くのエンターテインメントを見せてくれたのです。今思えば、とてつもない数の感動の積み重ねを子どもの頃からしていました。それが最終的に、自分も表現する側になりたいという思いへと変わっていったのだと思います。
中学2年生の終わりに、「作曲家になる」と決めて両親に話したのですが、実は後から、父は自分と同じ仕事をしてもらいたくて、何年もかけて私に情操教育をしていたと知りました。僕は自分では自ら作曲家の道を選んだと思っていましたが、父は心の中で「しめしめ」と思っていたはずです。
幼い頃から本物の芸術に触れていた経験は、作曲家として生きていますか?
情操教育は学びの順序が大切だと、父は考えていたようです。まずはたくさんの芸術に触れて感性をとにかく広げる。感性を十分に磨いた上で、それを表現するための技術を身に付ける。そうして体得した技術を、自分の中で理論化していく。この順序で学ばないと、アカデミックな表現方法は身に付かないと、父は話していました。
でも、日本の情操教育はまず理論を先に学びますよね。そしてようやく、音楽大学や芸術大学を卒業する頃になって、感性を磨く段階に入る。これは違うのではないかと。だから、僕が理論を学び始めたのは中学3年生からなのです。東京藝術大学に入学するような人はもっと幼い頃から理論を学んでいましたから、親を恨んだこともありました。今となっては、こうやって作曲家としての人生を全うできていますので、父のやり方で多くの芸術に触れてきて良かったと思っていますよ。
作曲家を志した当初から、現在のように映画音楽を作りたいと思っていたのですか?
いいえ。子どもの頃に『タワーリング・インフェルノ』や『ジョーズ』など、名作と言われるハリウッド映画を見て、その壮大さに憧れはしましたが、最初から映画音楽を志していたわけではありません。作曲家としてどのようなキャリアを積みたいかを考えた時に、まず浮かんだのは「形に残る作品を作りたい」という思いでした。
僕の父は、生放送の音楽番組や帝国劇場などで上演される舞台音楽などを数多く手掛けていました。毎週毎週、次の週の放送に向けて編曲をしたり、舞台に向けて作曲をしたりする姿を見ていて。でも父が必死になって作った音楽も、テレビの生放送を終え、舞台の千秋楽を迎えたら幻のように消えてしまう。それが非常に歯がゆく感じたのです。形に残って何度でも聞くことができる。僕はそのような音楽を作りたいと思いました。
ドラマは“想像力”、アニメは“マシマシ感”、映画は“引き算”が鍵
作曲家としてのキャリアは、最初から順調だったのですか?
大学へ入って本格的に作曲家を目指すうち、作曲だけで生計を立てることがどれだけ難しいことなのかが身に染みてわかるようになりました。父はオタマジャクシ(音符)を書くだけで、家族4人を食べさせてきた。それは当たり前のことだと思っていましたが、そう簡単なことではなかったのだと。けれど私は、自分の中にあるモヤモヤしたものを、音を紡ぐことで表現したいと思っていたので、仕事を得るために必死に営業をしました。
狙いを定めたのが、ドラマや映画の世界です。幼い頃から芸能界を間近で見てきて、多くの人と金が集まるこの業界にはチャンスがきっとあると思ったから。それで、広告代理店の事務所にアポ無しで飛び込み、会社の掲示板に自分のプロフィールを貼りまくりました。すぐに総務の方に怒られてしまいましたが、そのビラを見たプロデューサーの方が他のスタッフを紹介してくれたんです。
また、アルバイトをして貯めたお金でスタジオを借りてデモテープを作って聞いてもらうなどといろいろなことをして、少しずつ仕事にも恵まれていきました。
お父様が作曲家でも、すぐに仕事が決まるわけではないんですね。
父の知り合いに「よろしくお願いします」と挨拶しても、父を飛び越えて私に依頼は来ないのです。だから、自分で開拓するしかなかった。とにかく顔と名前を覚えてもらうために、多くの工夫をしました。
例えばレコード会社に売り込む際は、5曲作ってまず1曲だけを持っていく。そうするとディレクターは、「ここがちょっと違う」と注文を付けてくるんです。それで次の週、「ご意見をいただいたうえで、また作りました」と嘘をついて、すでにある別の1曲を持っていく。実際はすでに手元に5曲あるけれど、1週ごとに1曲ずつ新しく作ったかのようにして聴いてもらうんです。こちらとしては会う回数を重ねたかっただけですが、向こうからすれば、アドバイスを聞いて何度も挑戦する、実直な若者だと思いますよね。
会う人会う人に、「僕の力になってくれそうな人を、3人紹介してください」とお願いして、人脈を広げる努力もしました。そうした地道な営業を経て、テレビドラマの劇伴からキャリアがスタートしたのです。
テレビドラマ、アニメ、映画とさまざま映像音楽を手掛けていますが、それぞれに作り方の違いなどはあるのでしょうか?
全く違いますね。テレビドラマの場合、例えば1クール3カ月のドラマならば、初回の放送前に40~50曲を納品してしまうのです。それを編集しながら、各回に合わせて音楽を流していきます。2話~3話くらいまでの脚本が出来上がっていればいい方で、それ以降は大まかなプロットがあるだけ。だから、今ある脚本だけを頼りに限りなく想像力を働かせて、この後の3カ月間でどのような音楽が必要なのかを考え抜くことが必要です。
アニメ、そしてゲーム音楽にも言えることですが、映像が出来上がった時点ではセリフも音響も何も音が入っていません。この場合、僕の感覚で言うと、120%の過度な音の演出が必要です。ラーメン二郎ではないですが、“マシマシ感”がないと地味な印象を与えてしまう。音楽だけではなく、声優さんのセリフ回しもそうですね。実写では不自然なくらい、大げさにやるくらいがちょうどいいんです。
映画音楽はどうですか?
映画の場合は、全て編集が終わった後に音楽を付けていきます。120分の作品なら、上映されている間は無条件で観客は作品を見るわけですから、120分を1曲として考えるような感覚です。どの場面で、どこからどこまで音楽を入れるのか、入れないのかを考え、監督とも話し合いながら作り上げていきます。
素晴らしい出来栄えの作品ほど、「音楽がなくてもおもしろい」と思えるものなのですが、そういった作品に音楽を付ける方が、やる気が出てきますね。「音楽を入れないとまずいよね」という作品の方が、やりがいがありそうに思うかもしれませんが、逆なのです。後者だと、ミュージックビデオになってしまう恐れがある。“マシマシ”のアニメ音楽と比べると、映画音楽は、完全に“引き算”です。セリフや音響や音楽など、全ての音を足したら「1」になるのがベストなバランス。どれか1つが突出していてはいけないのです。
とても緻密な計算や感性、経験がものを言うお仕事ですね。
近年はNetflixやAmazonなどの配信やアニメの分野が人気で、そこに一番、人とお金が集まっていますよね。僕が今大学生なら、きっと配信やアニメ音楽の道へ進んだかもしれません。でもだからこそ、120分の音楽を設計する映画音楽を作れる作曲家は、減っている。日本映画の先細りの現状には、危機感と悲しさを抱いています。
傷ついた人々の心をつなぐために、仲間たちと一歩を踏み出す
岩代さんは、命の大切さや生きる素晴らしさをテーマに、詩を音楽とともに奏でる朗読プログラムを制作するNPO法人「オトブミ集〜絆」を主宰しています。どのようなきっかけで始めたものなのですか?
50代に差し掛かり、作曲家として自分のキャリアをどう閉じていこうかと考え始めたのと同じ頃、東日本大震災がありました。そしてちょうどその年の年末に、娘が生まれたのです。あれだけ多くの人々が亡くなった年に新しい命を授かったことは、私たち夫婦にとって大きな感慨をもたらす出来事でした。その経験を経て、ずっと何をすべきか考えてきた結果、これまで共に仕事をしてきた多くの俳優たちと一緒に、「オトブミ集〜絆」を立ち上げることにしました。
有名無名を問わず、さまざまな人々に自分らしい言葉で詩を綴っていただき、それを俳優らが朗読し、さらにそこへ音楽の調べを重ね合わせる。こうして仕上げる「オトブミ(音文)」を1年で10篇ずつ制作・配信し、10年で100篇を完成させる予定です。
「オトブミ(音文)」の制作には、どのような意義があるとお考えですか?
音楽は、心のインフラだと思っています。人と人との心をつなぐためのインフラとしての価値を持つもの。先日、久しぶりに宮城県石巻市へ足を運んで感じたのは、町は震災当時から復興しつつあるけれど、点と点であって面にはなっていないということ。津波によって町が根こそぎ持っていかれるとはこういうことなのだと、あらためて実感しました。能登半島地震もそうですよね。震災前と全く同じに戻るかといったら、そんなことはない。そうした意味で、心のインフラとしての音楽、そして「オトブミ(音文)」が何らかの役割を果たすことを願っています。
今年(2024年)の「オトブミ(音文)」は、どのようなものなのでしょう?
今回も、演奏しながら涙があふれてくるような言葉がたくさんあります。1つは、山本梨菜さんという大学生が書いた「天国からの手紙」。彼女は5歳で母親を亡くしているのですが、母親は「娘が成人になるまでのギフト」として、生前、誕生日プレゼント代わりに手紙をしたためて知人に預けていたのです。彼女が最後の1通を受け取ったという記事を新聞で見て、ぜひ母親へ返事を書いてほしいと思いました。それで連絡を取り、博多まで会いに行ったのです。
承諾してくれた彼女から届いた手紙を読んで、私はその場で号泣しました。そしてすぐ、付き合いのある俳優の磯村勇斗くんに、転送しました。なぜなら、私と会った時、梨菜さんは「磯村勇斗さんが好きで、彼が出ている映画の音楽を作っている岩代さんのことを知っていた」と話していたから。磯村くんは手紙を読んで、二つ返事で朗読を引き受けてくれました。
「天国からの手紙」
作:山本梨菜 語り:磯村勇斗
私は不安で心が押しつぶされそうになると、
机の奥にしまっている手紙をそっと開く。
幼いころから児童養護施設やファミリーホームで育ち、
大学に進学してから早2年の歳月が経った。
初めての一人暮らしなので戸惑うこともある。
そんなときは、5歳のころに亡くなったお母さんが、
死の直前に綴り、残してくれた私宛ての手紙を何度も読み返し、
勇気をもらっている。
…
(オトブミ集~絆HPより、一部を抜粋)
最後に、この記事を読んでいるクリエイターの皆さんにメッセージをお願いします。
僕が自分の気持ちを表す時に音楽というツールを使うのは、その手段が一番、伝えやすいから。人によっては文章だったり、絵だったり、歌だったりするでしょう。誰にでも自分なりの手段で、自分を表現することができる。だから、自己表現を特別なものと位置付けて、表現している自分を特別な存在だと思うのは間違っていると思うのです。
表現は誰にでもできることだけれど、自分にしかできないことを探すのは大変です。そこが沼にハマっていくおもしろみでもある。ぜひ、自分だけの表現を見つけてください。それに出会えたら、何とも言えない喜びが全身に満ちあふれてくるはずです。僕自身がそうだったように。
取材日:2024年10月21日 ライター:佐藤 葉月 スチール:あらい だいすけ 動画撮影:村上 光廣 動画編集:遠藤 究