「野狗子: Slitterhead」クリエイター・外山圭一郎“独自性あふれる注文住宅”でありたい。ホラーゲームのプロが語る哲学
「サイレントヒル」や「SIREN」など、ホラーゲームの旗手として知られる外山 圭一郎さん。2024年11月にリリースされたばかりの最新作「野狗子: Slitterhead」でもその独自性を遺憾なく発揮し、国内外から高い評価を得ています。発売から何年経っても愛され続ける名作ホラーゲームはいかにして生まれたのか?そして、外山さんにとってホラー作品の定義とは?「野狗子: Slitterhead」の魅力と共に、ゲーム哲学をうかがいました。
IT革命の影響で仕事のしかたが大きく変わった新人時代
外山さんがゲームデザイナーを志したきっかけをお聞かせください。
元々ゲームが好きだったのですが、私が東京造形大学に入学した1990年頃はまだ制作環境がアナログなままでしたので、PCというデジタルな環境で制作されるゲーム業界は自分には縁がない世界だと思っていました。しかし、就職活動の時期になるとPlayStationやセガサターンなどの新型ゲーム機が相次いでリリースされ、ゲームの変革期が到来しました。各社がこぞって新しい戦力を求める時期で、私の大学でもゲームメーカーによる説明会が行われたんです。そこで、ゲーム業界は自分も関われる世界なんだと初めて気が付き、好きなゲームをリリースしていたコナミ(現コナミデジタルエンタテインメント)に応募して入社したことでキャリアが始まりました。
実際に働き始めて、学生時代に思い描いたイメージとのギャップはありましたか?
現場はほとんどが20代で、管理職も30代というフレッシュな職場でしたので、ギャップはありませんでした。ただ、入社した1994年当時は、IT革命と呼ばれる時代でもありました。
入社直後は社内で回覧板をまわしていたのに、わずか1~2年のうちに「連絡にはPCでメールを使ってください」、「データの転送にはフロッピーディスクではなくネットワークを使ってください」と仕事のしかたが目まぐるしく変化していったので、ついていくのが大変でしたね。
モダンホラーの文脈を取り込んだ「サイレントヒル」がヒット
1999年には、初のディレクション作品となるホラーゲーム「サイレントヒル」をPlayStationでリリースしました。入社数年でディレクターに抜擢されたのは、どのような経緯だったのでしょう。
当時はPlayStationが大ヒットし、ゲームの主流がドットの2Dグラフィックから3Dグラフィックへと変わっていく過渡期でした。社内でも、その変遷に合わせて「新しいものなのだから若い社員にもっとやらせてみよう」「流行りのサバイバルホラーゲームを1本作らせてみよう」という話になり、私が制作チームを率いることになりました。私と同期か、私より下の世代しかいないくらいの若いチームでしたね。
1996年にカプコンより、PlayStationのサバイバルホラーゲーム「バイオハザード」がリリースされました。そのクオリティの高さからゲームファンとゲーム業界の両方に大きな衝撃を与えましたが、「サイレントヒル」を企画するにあたり、「バイオハザード」は意識されましたか?
それはもう、大いに意識しました(笑)。とはいえ、同じことをしても「バイオハザード」に勝てないのは分かっていましたので、何か別の切り口を探さなければと必死に模索したのを覚えています。
「バイオハザード」と異なる切り口を、どのようにして見いだされたのでしょうか。
「バイオハザード」は、ハリウッドのアクション映画を思わせる世界観や見せ方で作られたホラーゲームです(「バイオハザード」はゾンビの巣窟と化した洋館に迷い込んだ特殊部隊員たちの戦い~脱出を描くゲーム)。
一方、私はホラー作品というとデイヴィッド・リンチ監督の映画やスティーブン・キングの小説に代表されるモダンホラー(※)が好きでしたので、その文脈をゲームに取り込んではどうだろうと考えました。当時のゲームでは、まだあまり注目されていないジャンルだったのです。
後悔も残った初ディレクション。環境を変えての再スタートを決意
「サイレントヒル」は高く評価されてシリーズ化されますが、外山さんご自身は2作目以降を手がけることなく、コナミを離れてソニー・コンピュータエンタテインメント(現 ソニー・インタラクティブエンタテインメント。以降、SCE/SIEと表記)に移籍されました。そこにはどのような思いがあったのでしょうか。
PlayStationに見られる3Dグラフィックを主体とするゲームやメディアの大容量化は、制作チームの急激な大規模化を招きました。しかし、チームマネジメントのノウハウはまだ確立されていませんでしたし、私自身が若く拙かったこともあり、「サイレントヒル」は私にとって後悔の残るゲーム制作になってしまいました。 このままディレクターを続けるのではなく、もう少し時間をかけてキャリアを積み上げたい。そのためには環境を変えるのがよいのではないか…という思いから、移籍を決断しました。
SCEでも「SIREN」、「GRAVITY DAZE/重力的眩暈:上層への帰還において彼女の内宇宙に生じた摂動」などのヒット作を手がけました。当時を振り返ってどう感じられますか。
「SIREN」は、私のゲーム制作人生において、一番怖いもの知らずだった時期に作ったゲームといえます。着実に経験を積み、チームマネジメントも少しずつ分かってきたので、思いついたことをそのまま実現できるようになっていた頃の作品です。
リリース直後はプレイヤーのみなさんから「わけが分からないゲーム」、「難しすぎる」などの声をいただいて不安になりましたが、10年、20年と愛され続けるゲームになったのは、当時にやりたかったことをすべて実現し、盛り込んだゲームにできたことが功を奏したのだと捉えています。
自身の強みを「こだわりと独自性の強いゲーム」と認識し、独立を決意
2020年にはSIEを離れて独立し、ボーカゲームスタジオを設立されました。
当時はPlayStationシリーズのグローバル化が進んでいたこともあり、SIEではAAAタイトル(※)以外の企画が通りづらくなっていました。AAAタイトルは予算が大きくなる分、しっかりヒットするように間口が広いゲームにする必要があります。しかし、私の強みはAAAタイトルでは出しづらいと認識していましたので、今後も自分らしいゲームを作るには独立するのがいいという結論に達しました。
※AAAタイトル:トリプルエー・タイトル。大ヒットすることを見込んで大きな予算を投じて制作するゲームタイトルのこと
外山さんが考える、ご自身の強みとは、どのようなものなのでしょうか。
最近は、よく建築で例えています。何年もかけて大勢の人に受け入れられるゲームを作ることを目指すAAAタイトルは、いわば綿密な計画のもとに土台からしっかり作り込んでいく「みんなが注目する町のシンボル」です。
一方、私が得意とするのは思いつきや発想を取り込みながら作る独自性の強いゲームで、これはどちらかというと「注文住宅」です。開発する中で、予定していなかった「こんなのも面白いんじゃない?」というアイデアがあれば、臨機応変に対応していく…そんな作り方が好きなんですよね。
失われつつあるものへの憧憬を込めた最新作「野狗子: Slitterhead」
2024年11月8日にリリースされたスタジオ第1作「野狗子(やくし): Slitterhead」についてお聞かせください。90年代前半をイメージした「九龍」という町が舞台になっていますが、どのような経緯で決まったのでしょうか。
私は仕事やプライベートで何度か香港を訪れていますが、ゲームに出てくるようなネオン街は、実際は老朽化で撤去されているんです。巨大なスラム街を持ち、その上空を旅客機がかすめるように飛んでいく九龍城砦は映画など創作の中で見るのみで、実際に見ることが叶いませんでした。であれば自分の作品で、そんな失われつつある憧憬を再現したいという気持ちがあり、今回の舞台も九龍にしました。
だからこそ、ゲームをスタートすると低空を飛ぶ旅客機を雑多な街中から見上げるアングルのカットから始まるのですね。
そこが、このゲームを一番象徴するシーンだと思っています。「私はここにいたかったんだ」というメッセージが込められています(笑)。
プレイヤーが操作するのは記憶と肉体を失った「憑鬼」であり、憑依する人間を次々と切り変えながら怪物(野狗子)と戦う…というシステムも斬新です。
「SIREN」に採用していた、他の人が見ている光景を奪い取る「視界ジャック」というシステムをさらに発展させて、視界だけでなく人そのものを乗っ取れるようにしようという発想から生まれたのが「野狗子: Slitterhead」の憑依システムです。
物語の序盤では憑依した人間を見捨てなければ先に進めない局面もありますが、ゲームを進めていくと憑鬼に人間への共感が芽生え、葛藤するようになっていきます。人とはまったく異なるパーソナリティーを持つ憑鬼が憑依した人間に影響を受け、野狗子との戦いの中で自身のアイデンティティーに悩むようになっていくドラマを楽しんでいただければと思います。
「野狗子: Slitterhead」は「サイレントヒル」、「SIREN」に続くホラーゲームであると同時に、腕前が上達する過程を楽しむアクションゲームでもあります。ホラーとアクションという二つの要素のバランスはどのように取ったのでしょうか。
幸いにも、私はホラー作品を何作か手がけていますので、「新作のホラーゲームです」と伝えればプレイしてくださる方たちはいます。一方で、ホラーゲームは遊ぶ人を選ぶという側面もあり、ゲームの間口をより広げ、ホラーゲームが苦手な人にも遊んでもらうにはどうすればよいかを考える必要がありました。
そのとき参考にしたのは、少年・青年漫画に見られる「陰惨な世界観での異能力バトル」作品です。主人公がバトルの中でサバイバルをし、ストーリー展開も緊張感がある…というアプローチが個人的にも好きなので、今回のゲームはアクションゲームとしての要素も強めることにしました。
自分も怖いのは得意ではありませんが、隠れたりやり過ごしたりするのではなく戦って倒せるのであれば挑戦してみようという気持ちにもなれます。リリース後、ユーザーの反応はいかがですか。
リリース前は「一体どういうゲームなんだろう」という戸惑いの声も見られましたが、実際にプレイしてもらうとすんなり理解していただけるようで、「多少荒削りなところがあったとしても、独自性が強く新しいゲームを届ける」という私たちのこだわりは伝わったかなという実感を得ています。
自身の強みを見極め、弱点を補ってくれる仲間を探すのが大切
外山さんにとっての「ホラー(作品)」の定義をお聞かせください。
ただ怖がらせるだけの作品をホラーというのは、やや一面的であると考えるようになりました。私にとってのホラーは「未知の何かに繋がっている奇妙な感じがする」作品のことです。
本当に嫌なものって、誰も見たくないと思うんです。でも、「なんか嫌な感じがして、その正体や本質を見極めずにはいられなくなる」っていう吸引力が、ホラーの真髄だと感じています。 昔の映画に「ウィッカーマン」(73)という作品があるのですが、典型的なホラー演出もないし、化け物も出てこないのに、全体の緊張感が凄いんです。綺麗に積み上げられて表現されたモノではなく、一個一個の要素がたまたま巡り合って、不気味さが増していくような展開が、個人的にも惹かれる要素ですね。
これまでに多くのヒット作を手がけたからこその定義と思いますが、ゲームデザイナーとしてのご自身の強みはどこにあると認識しておられますか?
ひと口にゲームクリエイターといっても、得意・不得意や、持っている技術は人それぞれです。自分が思い描く世界に自分とは異なる適性や技術を持つ人を組み合わせ、各人の得意分野を生かしたゲームを作れるのが私の強みで、それを自覚していたからこそ今までやってこられたのかなと思います。
今後もホラーゲームの新作を手がける予定はありますか?
私の作るゲームが必ずしもホラーゲームでなくともよいのではという思いはありますが、ファンの方たちが私にホラーゲームを期待する向きもあるのは理解しています。その思いに応えられそうなアイディアが出てきたら、(ホラーゲームの新作として)形にしたいと考えています。
ボーカゲームスタジオの今後の展望をお聞かせください。
スタジオには、現在30人ほどのスタッフがいます。ゲーム制作の初期と終盤は全員が稼働する必要はありませんので、今後は人手が必要になるピークの時期をずらすことで複数の企画を同時進行できる体制を整えたいと考えています。現在は、規模の大きなものから小さなものまでさまざまなネタを出して、スタジオの次回作となるゲームの企画を固めているところです。
期待しています。最後に、ゲームデザイナーを目指す学生や若手の同業者へメッセージをお願いします。
まずは他の人にはない自分だけの強みを確立し、その上で自分には何ができないのかもしっかり見定めてください。自分の弱点を補ってくれる仲間がきっと見つかります。私が若かった頃と比べると、今はプラットフォームが多様化してゲームをリリースしやすくなり、小規模なゲームも世界に届けやすい時代になりました。 多少ニッチ向けの作品であっても、世界中にいる同好の士に届けば作品として成立します。ゲーム業界は挑戦のしがいがある世界なので、頑張っていただきたいと思っています。