出会いを大切に生きていけば 自分にぴったりな何かに出会える
- Vol.120
- 映画監督 松本貴子(Takako Matsumoto)氏
10月31日よりロードショー『氷の花火~山口小夜子』 いろんな反応を肌身で感じられるのが楽しみです。
『氷の花火~山口小夜子』が、いよいよ公開されます。今のお気持ちは?
劇場公開されると、いろいろな方が観てくださり、いろいろな反応、いろいろな感想をいただけるのが、楽しみです。 私は普段、主にTVをメインに活動していて、直接モノを言われる機会が少ないですから。 観た方からの感想はうれしいですし、劇場で一緒に観て、いろんな反応を肌身で感じられるのが楽しみです。
「なぜ今、山口小夜子なのか?」という質問にはどう答えますか?
2020年に東京オリンピックの開催が決まり、日本の見直しみたいなことが行われるんじゃないかというのがあります。 日本を背負って海外へ行った女性の一人なので、今、見直すというか、知ってもらうにはいい時期なんじゃないかなと思っています。 実は、企画書は、小夜子さんが亡くなってすぐに書いていました。なかなかとりあげていただく機会がなく、それこそなぜ今なのか?という感じではあるんです。こういう企画は、直後でやれないと、次の節目でないとできないので。
山口小夜子とはいったい、誰だったのか?
松本監督は山口小夜子さんと親しかったということですが、山口さんにいなくなられてしまった淋しさが作品づくりのきっかけになったのでしょうか。
淋しいというのもありましたけど、私には、「彼女はいったい、誰だったのか?」という疑問のほうが大きかったです。 生前の小夜子さんとは、いつも他愛のない楽しい時間を過ごしていたのですが、「なぜモデルになったの?」といった、彼女の核心に対する素直な問いを投げかけていなくて、聞いておけばよかったとかなり後悔しています。 よく考えると、すごくやさしいんですけど、なにか寄せ付けない壁というのがありました。
目に見えない壁があった。それがまた、彼女の魅力の根源だったのかもしれませんね。
いわゆるミステリアスな魅力ですね。 晩年は、どこかで自分を解き放ってだいぶ気さくになりましたけど。 仲良くなったなと思うと、次の瞬間、ヒューと離れていくという感じが彼女にはありました。
山口小夜子さんと草間彌生さんは「出会ってしまった人」
時間が許せば、『≒(ニアイコール)草間彌生~わたし大好き~』で草間彌生さんに敢行したような密着取材、密着撮影もしてみたかった?
どうでしょう。小夜子さんとそういう密着取材が成立したか・・・。 小夜子さんは、近づくと離れていく感じがありましたので。 許されるなら、やってみたかったとは思います。楽しかったかもしれませんね。
松本監督とって、草間彌生さんと山口小夜子さんの作品は、それぞれどんな意味を持ちますか?
違いというより、共通点をあげると。 私にとっては、山口小夜子さんと草間彌生さんは「出会ってしまった人」なんです。 私が、こういう仕事をしている以上、何か1つの形にしたい、映画を作らないわけにはいかないので、お二人の映画が作れて、とてもうれしいです。 もうひとつ、どちらも「おかっぱの女性」という点も共通しています(笑)。 草間さんも、NYでは、おかっぱで着物を着てわかりやすく日本を切り口に、闘っていたんです。小夜子さんの場合は、ジャポニズムに乗って世界で闘っていた。ふたりは、なんとなく似ているんですよね。
小夜子さんは早く亡くなってしまった分 多くの財産(ファン)を残した
『氷の花火~山口小夜子』を観て、山口小夜子さんがトップモデルとして、表現者として、さまざまな努力をし、次世代のクリエイターに手を差し伸べていたことをはじめて知りました。興味深かったです。
長く近しくさせていただいた私でさえ、映画のために取材を進めて初めて知ったことが多かったですね。 なんと言っても、これだけ多くの山口小夜子ファンがいることを初めて知りました。 「私が一番、山口小夜子を知っている。仲がよかった。」と思っている人がたくさん存在することこそが、彼女の財産だったんじゃないかなと思います。 小夜子さんは早く亡くなってしまいましたが、その分、多くの財産(ファン)を残したことが取材する中でわかりました。
表現者として、音楽家や映像作家など若いクリエイターと組んでいろんなことに取り組んでいたんですね。
私もある六本木のクラブで、知り合いのミュージシャンやカメラマンと、小夜子さんの舞を演出させてもらったことがあるのですが、いつもの小夜子さんとは全く違う感じで、とても楽しかったです。一緒に作る楽しさを感じましたね 小夜子さんは、他の様々な若いクリエーターとも組んでずっといろんなことをやっていました。
私たちの知らないところ、水面下でいろんなチャレンジをしていたんだなあと思わされました。
小夜子さんは、新しいことが好きな方でした。 何かやるならすでに実績のある人ではなく、可能性のある若いクリエイターとともに何か成就したい思っていたかもしれないですね。
小夜子さんの手触りのあるものが、何か欲しかった
作品の冒頭に、遺品である膨大なワードローブを講堂に運び込み、思い出を探すかのように精査するシーンがあります。
先行して、東京都現代美術館で、回顧展(「山口小夜子 未来を着る人」2015年4月11日(土)―6月28日(日)開催)の企画がありました。そこで、私たちも遺品をお借りできることになり、3日間で撮影しました。
亡くなってしまった方の思い出を綴るには、効果的な手法と感じましたが。
東京都現代美術館が回顧展をやると知って関係者にお会いしたときにその遺品の話が出たですが、具体的な内容や全貌はわかりませんでした。今年の初めに、交渉を重ねる中で、一部を個人的に見せていただき、初めて、小夜子さんの残していったものを間近で見ました。 その時に、「小夜子さんの映画を作らなければ」という思いを強くしました。もし本当に作れるとしたら、遺品のような手触りのあるものを縦軸にすれば、ドキュメンタリー作品が作れるんじゃないかと思いました。 関係者インタビューとアーカイブ映像だけでつくったら記録映画にしかならない。今撮影し、小夜子さんの手触りがある物が、何か欲しかったんです。遺品のエピソードが入ったことで、リアリティが増して、ドキュメンタリーになると思いました。
山口さんの高校の後輩が、遺品に感動するシーンがありましたが。
ちょっとしたハプニングでしたね。 遺品の中に制服があるということも、遺品整理のために集まってもらった人たちの中に小夜子さんの高校の後輩がいるということも、知りませんでした。あの場でわかったんです。
遺品のシーンがあったから、ドキュメンタリー映画になった。 遺品のエピソードがなかったら?
映像づくりの動機としては、まず、世界中に散っている小夜子さんの映像を集め、整理したものを作りたいと思っていました。極論すれば、それさえできれば良かったのかも知れませんが、関係者のインタビューと、そこにもうひとつ新たな軸が加わればドキュメンタリー作品になるだろうという計算はある時期からしっかりとありました。 遺品との出会いがなければ別の軸を捻り出していたような気もしますが、いずれにしろ、遺品撮影の機会が得られたことで、この作品が成立しました。
インタビューをするたびに新しい情報が得られ、作品の構成に影響
作品全体のイメージも、そこでできあがった?
どちらかというと走りながらイメージを固めていきました
走りながら、作っていった?
そうですね。走りながら作りましたし、走りながら学びました。 特にアーカイブ映像を映画に使用する際に必要な権利クリアの業務は、本当に膨大で、良い勉強になりました。 もちろん映像自体も、ロケをしながら編集し、編集の合間にロケをしといった具合で走りつづけました。インタビューをするたびに新しい情報が得られ、作品の構成に影響を与えていきました。
つまり、ロケが、同時に取材になっていた?
小夜子さんとお付き合いのあった方は、とてもたくさんいるので、事前のリサーチを綿密に行い、お話を伺う方も絞り込んで撮影を始めました。それでもお話を伺うたびに「そういうことだったのか」という新たな発見がありました。構成を何度もやり直して、インタビューする度に、構成は何度書き直したか、わからないです。
自分の知らない「山口小夜子」を探す旅
予定調和に納めることなど、できない映画だったのでしょうね。
私が企画書を起こすとき不覚にも『山口小夜子を探して』というタイトルをつけているんです(笑)。その言葉どおりの映画作りになりました。 自分の知らない「山口小夜子」を探す旅に出るというのが大きなコンセプトだったので、撮影を進めれば進めるほど、小夜子さんに関して知らないことばかりだったと痛感させられました。
山口小夜子さんを探し出すことは、できましたか?
見つかったかというと。「ちょっとね」という感じ。(笑) きっともっといろいろあるんだと思うんですけど、一旦は垣間見ることが出来たと思います。「山口小夜子」というがんばった人の一端を見ることが出来たのかなと思いました。
先の見えない作業を積み重ねて、出来上がった作品への感想は?
作っている時は、楽しいというよりは、ずっと息を詰めて制作していたので、、出来上がってほっとしています。 最初から最後まで、結末が見えず撮りながら構成を考えていったので、完成して私自身が「こうなったか」というのが正直なところです。
完成のイメージがわからずにつくるのは、かなり大変な作業でしょうね。
私は、最初からわかっていたら撮らないんじゃないかと思うんですよね。 映画の最後をどう終わらせるかなんて、本当に最後の最後までわからなかった。 むしろ、それが楽しかったように記憶しています。
すべてが出会い 出会っていくことで作品が生まれてくる
松本監督は、普段はTVをメインに活動されているということで、劇場公開映画は本作が2作目ということですが?
私の場合、何か形にしたいという対象に出会うことが大きいので、何かまた、出会えば、次もあるかもしれないですけど。本数は、あまり関係ないですね。 すべてが出会いで、出会っていくことで作品が生まれてくるので、作品を作るために出会おうとは思わないんです。
脚本に出会ったから作品にということもあるのですか?
体質としては、ドキュメンタリーが向いていると思うんです。 昔は、脚本を書いていた時期もあるんですけど、ドキュメンタリーをやり始めてから、特にヒューマンドキュメンタリーというものが自分に向いているんじゃないか、人と出会うことが楽しくて、それこそがやりたいことだと思うようになりました。
最後に、若手クリエイターたちへのエールをお願いします。
自分は何が得意かっていうのは、いろいろやってみないとわからないと思います。私もキャリアのスタートはファッションで、ファッションどっぷりの制作者人生を歩んだ可能性さえあったわけですが、やっていくうちに違和感を感じはじめ、ドキュメンタリーに出会いました。 今ドキュメンタリーをやっているなら、最初からそれを選べばもっと早くから、経験を積めたかもしれませんが、私はファッションをやっていたから小夜子さんに出会い、小夜子さんのドキュメンタリー映画を撮ることができました。その時にやっていることは無駄ではなく、出会いを大切にして、「自分には何ができるのだろう」と探しながら生きていれば、いつかきっと自分に合った何かに出会えるし、ぴったりなものややりがいを感じるものに出会えるんじゃないかと思います。
取材日:2015年9月7日 ライター:清水洋一
Profile of 松本貴子
第 6 回ぴあフィルムフェスティバル入選をきっかけに映像の世界へ。日本初のファッションレギュラー番組「フ ァッション通信」の立ち上げに参加し、ディレクターを務める。山口小夜子とは、1987 年ファッション通信「山口小夜子特集」で知り合い、NHK「世界わが心の旅 ベルベルの少女の瞳」、NHK「アントワープ王立アカデミー 一流ファッションデザイナーはこう作られる」の制作で親交を深め、亡くなるまで交流を持ってきた。前衛芸術家・草間彌生とも 20 年来の親交を結び、数々の映像作品を制作。ドキュメンタリー映画「≒草間彌生 わたし大好き」(2008 年劇場公開 日本国内及び世界 13 都市で上映)。「NHKBS プレミアム 世界が私を待っている 前衛芸術家草間彌生の疾走」(ギャラクシー賞選奨/衛星放送協会オリジナルアワード最優秀賞)、「NHK スペシャル 水玉の女王 草間彌生の全力疾走」(アメリカ国際フィルム・ビデオフェステバル Creative Excellence 賞/NYフェスティバル入選)ほか受賞多数。
1970年代に活躍したスーパーモデル山口小夜子。 イヴ・サンローラン、ジャンポール・ゴルチェ、山本寛斎やケンゾー、三宅一生ら世界の名だたるファッションデザイナーに愛され、ギイ・ブルタン、横須賀功光、セルジュ・ルタンスなどトップクリエイターのミューズとしてイマジネーションを与え、時代の先端を走り続けた。没後8年を経た今、これまで彼女が見せなかった素顔を伝える。 生前、山口と交友のあった松本貴子が監督を務め、関係者の証言や当時の貴重な映像を通して「山口小夜子」の知られざる実像に迫るドキュメンタリー。 2015年/日本/97分/カラー
2015年10月31日(土)ロードショー FELLOWSも協賛しています!
5組10名様にチケットをプレゼント! ご希望の方はプレゼントページよりご応募ください。
出演:山口小夜子 天児牛大/天野幾雄/生西康典/入江末男/大石一男/大塚純子 掛川康典/ザンドラ・ローズ/下村一喜/セルジュ・ルタンス ダヴェ・チュング/髙田賢三/高橋靖子/立花ハジメ/富樫トコ 富川栄/中尾良宣/藤本晴美/松島花/丸山敬太/山川冬樹 山本寛斎 他
監督:松本貴子 プロデューサ:於保佐由紀 撮影:岸田将生 音楽:久本幸奈 音楽プロデュース:井田栄司 編集:前嶌健治 EED :石原史香 整音:高木 創 宣伝デザイン:高橋歩 キーアトPHOTO:横須賀功光 制作・配給:コンパス 宣伝:ビーズインタナショル 特別協力:資生堂 /オフィスマイテー 助成:公益財団 法人東京都歴史文化 アーツカウンシル東京
©2015『氷の花火 山口小夜子』製作委員会
くわしくは、『氷の花火 山口小夜子』公式サイトをご覧ください。