『四日間の奇蹟』で目指したのは 感謝を意味する言葉の沢山出てくる映画
- Vol.2
- 映画監督 佐々部清(Kiyoshi Sasabe)氏
『四日間の奇蹟』で、心がけたことは?目指したものは?
心がけたのは、肩の力を抜くこと。目指したのは、「感謝」。「ありがとう」など、感謝を意味する言葉のいっぱい出てくる映画にしたいと思いました。
2人の役者が1人の人物を演じていますね。
この作品でやりたかったのは、そこです。ぜひチャレンジしたかった。CGやカットがわりなしで2人が1人をやるために、石田ゆり子さんには「2人分の台詞を全部覚えて、リハーサルも両方全部やる」ということを条件に出演してもらいました。
それは凄い労力ですね。
そうですね。でも実は、もっとも大変なのはその相手役である吉岡君(吉岡秀隆)だったのかもしれない。なにしろ、まったく別の人間、しかもまったく年齢の違う女性を相手に、同じ人と会話しているようなリアクションをしなければならない。撮影が終わって一言、「疲れた~」と言ってましたよ(笑)。
絶好調ですか?
体は絶不調ですね(笑)。疲れてます。休みたいなあと思います。
体調は絶不調でも、仕事は絶好調ですよね。
そうでしょうね。おおよそ2年で3本のペースで撮れている。まわりを見渡してみると、うん、絶好調だと思います。ただ、こういうのは、2年、もって3年だと思っているので、撮れるうちに撮っちゃおうとも思ってます。
旬が過ぎてしまうという意味ですか?
先輩監督たちの浮き沈みを見てきましたからね、そう思うんです。1本目を撮ってから、今4年目になります。最初2年かなと思っていたのが4年続いているわけです。もちろんそれが6年、10年と続くよう考えて、計算し、作品選びも慎重にしています。
自作以外の映画は、年間何本ご覧になりますか?過去1年のベスト3は?
劇場ではなかなか観られなくなってしまいましたねえ。劇場では約20本、それにDVDを入れて年間50~60本かなあ。学生時代には200本、300本観てましたから、勉強不足だと思いますね。ベスト3に関しては、1本だけ、ダントツで『殺人の追憶』。この5年間でナンバー1です。『半落ち』を撮って、同日公開だった『ミスティック・リバー』を観て「勝った!」って思ったんだけど、、『殺人の追憶』を観て「失礼しました」とひれ伏しました(笑)。それくらい衝撃的でした。
佐々部さんは、「遅咲き」ですか?
僕は、助監督になったのが26歳と、スタートが遅かったですからね。当初の計算では助監督を8年やって監督になるはずでした。それが17年もかかってしまった(笑)。でも、デビュー作は60歳になってもかまわないと思ってました。監督と呼ばれることよりも、何を撮って何を送り出すかということの方が僕にとって重要だったんです。たまたま、タイミングが2002年の『陽はまた昇る』という作品になったというだけのことです。デビューが遅いか早いかということは、あまり気にせずコツコツやってました。
「職業監督」という言葉は好きですか?嫌いですか?
大好きです。僕は大学時代に自主制作をやってました。当時は自主制作映画ブームと呼ばれるムーブメントがあって、石井聰亙君たちが8mmで8万円くらいで映画を作り、劇場で8万円をこえる興行収入を得るという活動をしていました。僕もその中にいたのですが、結局それには背を向けることにしました。自分は、職業監督になりたいんだと気づいたのです。そのためには、これではだめだと思った。大学を卒業してから映画学校に入りなおして、助監督で修行し、職業監督になることを目指しました。
門戸の狭い目標に向かっているという自覚はありました?
ありました。だからデビューは60歳でもいいと思った。40歳をこえたころに、「もしかしたら一生監督になれないかも」と思ったこともありました。でも、だめだったらカミさんとパン屋でもやればいいと腹はくくってましたよ。
助監督の経験は、監督業に役に立っていますか?
僕は、大いなる財産作りを目論んで助監督をしていました。監督になったときに、「あいつなら、面白いからやってみたい」と思ってくれるようなスタッフを1人とキャストを1人、1作品につき確実に釣り上げようというのが目標。達成?できたと思っています。今、「自分のスタッフは日本一だ」と胸を張れる人たちが集まってくれています。
キャスティングに関して、持論、こだわりなどがあったらお教えください。
ないです。プロデューサーやキャスティングプロデューサーの仕事を尊重しています。こだわるのは、キャスティングが「どんな作品を送り出すか」というビジョンに合ったものになったかどうかという部分の確認だけですね。カメラに関しても撮影監督が脚本を読んで感じてくれたことを尊重します。編集に関しても編集部やスクリプターのプロの技やアイデアを楽しみにしています。微妙なところをつなげるときに指示を出すくらいで、1作品につき3時間くらいしか編集室に入りませんね。
日本映画の現況、将来展望に関して。
日本映画は今もつらい情況だと感じています。韓国の人口は約6000万人ですが、『殺人の追憶』は1000万人以上の観客を動員したそうです。国民の5人に1人が、ああいう作品に足を運ぶわけですから、羨ましい限りです。僕たちにできることは、まず良質の作品を送り出すこと。さらに僕は、観客の意識を映画に向けることができるならと思い、体に空きがある限り、どんなに小さなイベントにも参加させていただくよう心がけています。マスメディアがもっと、ちゃんと映画をとりあげてくれたらなあという感想も持っています。
日本アカデミー賞を受賞して以降、なにか変わりましたか?
僕自身はなにも変わりません。でも、確かに受賞以降、オファーはたくさんいただくようになりました。驚いています。
佐々部さんにとって映画とは?
おそらく、2番目に大切なものです。1番目?家族です。
映画監督を目指す若者たちに一言。
大切なのは映画をいっぱい観ること。好きになること。映画学校の講師として学生に、「年間60本以上観る人」と訊いても、1人も手を挙げないんですよねえ。もちろん、たくさん観ずに監督になっている方もたくさんいらっしゃるんだけど、僕に問われたらそういう答えになりますね。
Profile of 佐々部清
1958年1月8日、山口県下関市生まれ。明治大学文学部演劇科、横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を経て、1984年より映画及びテレビドラマの助監督となる。主に崔洋一、和泉聖治、杉田成道、降旗康男などの監督に師事。2002年『陽はまた昇る』で映画監督デビュー。 【監督作品】 1995年 下関市政ビデオ『ON YOUR MIND-下関的景観-』(脚本・監督) 2002年 映画 『陽はまた昇る』 2002年6月15日公開(脚本・監督) 2003年 映画 『チルソクの夏』 2003年5月24日下関公開(脚本・監督) 2004年 映画 『半落ち』2004年1月10日公開(脚本・監督) 2005年 WOWOW ドラマ『心の砕ける音~運命の女~』(監督) 映画『四日間の奇蹟』 <2005年6月4日全国公開>(脚本・監督) 映画『カーテンコール』 <2005年初夏公開予定>(脚本・監督) 【受賞歴】 『陽はまた昇る』――日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞(2002年) 『陽はまた昇る』――第26日本アカデミー賞・優秀作品賞(2003年)