キャリアを転じても、本質的な能力は変わらない。それは子供の頃からずっと「アイデアが好きだ!」という一点。
- Vol.149
- 株式会社博報堂 ビジネス・インキュベーション局 エグゼクティブ・クリエイティブディレクター/スダラボ代表 須田和博(Kazuhiro Suda)氏
- Profile
- 1967年新潟県生まれ。1990年多摩美術大学卒・博報堂入社。アートディレクター、CMプランナーを経て、2005年よりインタラクティブ領域へ。2009年「ミクシィ年賀状」で、東京インタラクティブ・アドアワード・グランプリ受賞。2014年スダラボ発足。第1弾「ライスコード」で、アドフェスト・グランプリ、カンヌ・ゴールドなど、国内外で60以上の広告賞を受賞。
大好きだった「としまえん」の広告に惹かれて広告業界へ
なぜ広告業界に入ろうと思われたのですか?
僕は中学でも高校でも「受験」に対して、まったく一生懸命な学生ではなかったんです。小学時代はマンガ好き、中学時代はアニメ好き、高校時代は映画好き。とにかく、ただ好きなことを一生懸命やっていた。高校は新潟市の学区内で2番目の進学校に進んだのですが、美術部の一年上の先輩に今では現代美術の作家として有名になった会田誠さんがいました。「美大」の存在を教えてもらったのは、会田先輩からです。自分が将来どうなるために、どういう進路を選ぶべきなのか?ということはまったく考えずに、ただ好きなことに熱中する、「映画をつくる」ということに夢中だった高校生でした。
現役では当然のように不合格で、一浪して東京の多摩美術大学のグラフィックデザイン科に進学しました。この一浪の時に、高校時代につくっていた8ミリ映画が「PFF(ぴあフィルムフェスティバル)'85」に入選しました。現役で美大に落ちて、ものすごく絶望していた自分は、このPFF入選に非常に心を支えられました。高校3年の秋の頃には映研(映画研究同好会)の友達にも「そろそろ映画制作はやめて受験勉強したら?」と言われていたのですが、やめずにやりきって良かったと後々、本当に思いました。もし高校3年の時に映画制作をやりきらず、受験勉強にスイッチしていたら、どちらも中途半端になって自分のプライドは完全に行き場を失い、結局、何者にもなれなかったと思います。誰に何と言われようとも、納得いくところまで完成させて良かった。結局、未来のことは誰にもわからないから、その時点、その時点で、夢中でやってる何かを完成させる以外ないんです。後々、何者かになってる人って、そういう人だけだと思います。
映画が大好きだった僕にとって東京は、映画がいっぱい見られる夢のような街でした。予備校に行くより、大学に行くより、ひたすら映画を観に行っていました。当時の映画の情報源は「ぴあ」。インターネットのない時代に、どこでどの映画が公開されているのかを知るにはこの雑誌しかなく、欠かさず購入していました。その「ぴあ」の中に、いつも載ってたのが、遊園地「としまえん」の広告でした。これが毎回すごく面白くて、これまた大好きで、切り抜いてファイルしていました。大学3年生のある日、広告の授業で中島祥文先生から「としまえん」の広告は博報堂の大貫卓也さんというアートディレクターがつくっているんだよ、と教えてもらいました。しばらくして、就職先を選ばねばならない時期になり、単純な自分は「博報堂には大貫さんがいる」というその一点だけの理由で、博報堂を受けることにしました。
当時の「としまえん」の広告はどのようなものだったのですか?
前衛ともいえるほど、極端にふっきれた「おもしろ広告」でした。俳優の山崎努さんが気むずかしそうな顔で園内で遊んでるビジュアルに「山崎はいい人だ」というコピーしかなかったり、ハイドロポリスという巨大ウォータースライダーがプールにできたときはスケール感のあるアトラクションの画像に「狂った雨どい」というコピーをつけたり。B倍(B0)サイズの駅貼りポスターの真ん中に地球が1個あり、日本列島のところに矢印を引いて「としまえん」と書いただけのものだったり。目を引くものばかりでした。そして、一番有名なのが、僕たちの入社式当日1990年4月1日に掲載されたエイプリル・フールの新聞広告「史上最低の遊園地。としまえん」です。大胆でかつ繊細にツボをついていて、すみずみまで面白くて、「としまえん」の憎めない人柄を感じさせる。一生、忘れられない広告です。入社式から帰る途中、新宿駅で見た、「ローリングK」というウィスキーのポスターも強烈でした。これも大貫さんの代表作のひとつですが、遠目から見ると駅張りポスターが、グシャグシャの張り紙みたいに見えるようになっていて、バーボンというお酒の荒々しいチカラ強さがストレートに伝わってくる。広告って本当に面白いものだな!と思いました。
自分のアイデアの良し悪しが、客観的にわかってこそ仕事ができる
広告にはアイデアが大事と言われますが、須田さんはアイデアに自信がありましたか?
小学生の頃から「ドラえもん」などのマンガが大好きで、1話まるごと模写したり、自分なりのマンガを描いたりしていました。また国語の学習教材から笑い話やことわざを抜き書きしてノートに溜めたり、なぜかそういうことを一生懸命にやっていましたね。自分は、アイデアというものの基礎をすべて「ドラえもん」から教わったと思っています。ドラえもんはギャグマンガといっても、強烈なナンセンス・ギャグとかではなく、落語のように起承転結があって、最後の1コマで「さげ」がくる。お話のつくりも、「ひみつ道具」といわれる「アイデアそのもの」をカタチにしたようなモノが提示され、人間を代表する「のび太」がそれを「人間らしくダメな使い方」をして、とんでもないコトがおこって・・・という構造。いまの自分の思考のほとんどが、ここに原型があります。
小学時代にマンガを描き、そして高校時代に映画をつくりたいと思ったところから、「メモ魔」になりました。映画をつくろう!と思った時に、いきなり台本やコンテは書けない。アイデアをストックをしておかないと、どうにもならないなと気づいて、それで日常の中でシーンやカットのモトになりそうな瞬間や、お話のモトになりそうな面白いことを、学生手帳にメモするようになりました。とにかく思いついたらなんでもメモするというクセは、多感な高校三年間で自分の毎日そのものになり、浪人中にさらにエスカレートし、大学に行っても変わらず、とにかくひたすらアイデアをメモしつづけていました。普通の人なら思いついても書かないようなことまで、とにかく思いついたら書き留めないと気持ち悪い体質になってしまったので、異常な量のメモを取ります。
アイデアの良し悪しを、書き留める時点では精査しない、ということが実は非常に大事です。アイデアが浮かばないという人、ウンウンうなってばかりでひとつも紙に書けないという人は、頭から出す前に精査して自主規制してしまっているのです。自分の持論は「メモは脳のモニターである」というもので、モニターがなければPCの中で何が起きてるか、誰にもわからない。人間の脳も同じで、リアルタイムに書き出してみない限り、自分の脳の中で何が考えられているのか、誰にもわからない。それじゃ打ち合せにもならないし、アイデアをカタチにするなんてことも到底できっこない。まずは、書く。思っていることをとにかく全部、文字や絵にして脳の外に書き出す。そうすることで、思っていることが対象化されて、自分もふくめて誰もがハンドリングできるようになります。まずは、これが基本中の基本。
で、次にその書き出したアイデアの「良し悪し」は、どうすれば、わかるようになるのか?これもシンプルで、自分のアイデアを他人のアイデアのように、冷たく突き放して見られるかどうか?ということです。「客観的に見る」っていうやつです。実際は、これがなかなかできない。誰もが、自分のアイデアは、我が子のようにかわいいから。いつも贔屓目にバイアスをかけて、「きっとこのアイデアは、面白いはずだ」と思いたがる。これがふたつめの罠ですね。ひとつ目の罠が「脳から出す前の自主規制」、ふたつ目の罠が「脳から出したとたんに溺愛する」、これを両方超えないと、いいアイデアをどんどん出すような仕事は出来ないです。
かくいう自分も、最初からわかってたワケではありません。多摩美大の3年の時、とある授業で、いくつかのキーワードに対して「何でもいいので何かをつくってプレゼンする」という通期の課題がありました。みんなが苦手がったこの授業で、自分は2週に1回ずつ、アイデアによる作品のプレゼンをしつづけて、その場でスベったりウケたりを繰りかえし、そのおかげで、その1年ですっかり自分のアイデアへの「客観性」が身につきました。ものすごく当たり前なことですが、アイデアは自分が面白いと思っているだけでは当然ダメで、相手すなわちお客さんが面白いと思ってくれなければ、何の意味も価値もありません。「自分としては、素晴らしいアイデアだ!」といくら思っても、ウケなければ意味なし。「自分としては、イマイチなアイデアかな」と思っても、ウケれば意味も価値もあり、なんです。「自分ではなく、相手がどう思うか?」学生時代に直面したこのアイデアの基本に、自分はCMからWebに領域を移した時、「作り手ではなく、受け手がどう思うか?」というカタチで再会します。
ひとりよがりになってはダメということですね。
単なる「ひとりよがり」なら個人の努力で克服できるんです。そうではなくて、構造的な合意形成を経て、産業として「ひとりよがり」になりかねないところが、広告が常にもっている危険性です。CMプランナーだったころ、クライアントにアイデアが通らず、何度も何度もプレゼンを重ねて、ようやくOKをもらえた企画がありました。プレゼンも手をかけ、実制作のプロセスも丁寧に経て、いつの間にか自分でも「いいものが出来た」ような気になっていたのですが、たまたま休みの日に家にいて、シャワーを浴びて出て来てTVをつけた瞬間にそのCMが映り、素の状態でそれを見て「……。なんてつまらないCMなんだろう」と、愕然としてしまったのです。クライアントにはOKをもらえたけど、一般ユーザーにウケなきゃ意味がない。この頃、自分の仕事に関して、ずっとモヤモヤしてたのですが、このことがきっかけで「とにかくCMプランナーをやめよう!」と思うようになりました。
CMはコチラから投げかけるもの、Webはアチラからアクセスしてもらうもの。
須田さんはデザイナーとして入社し、アートディレクター(AD)を7年やって、CMプランナーに転じ、そのまた7年後にWebのインタラクティブ・セクションに異動されたのですよね。それぞれの領域でのクリエイティブの違いに戸惑いを感じませんでしたか?
多摩美のグラフィックデザイン科から、博報堂にデザイナーとして就職するのは、一見まっとうなステップのようですが、実はスキルのギャップという意味では、ここが一番激しかったかもしれません。学生でグラフィックデザインを学んでました、というくらいでは会社のデザインの現場では、実はまったく通用しない。当時、初任でついた先輩から三角定規の使い方から教えてもらいました。2年目の秋ごろに幸運なことに大貫さんの仕事に入れてもらえることになり、デザイナーとしては戦力外だったと思いますが、アイデア要員のつもりでがんばりました。3年目を過ぎる頃になると小さなポスターや販促物のデザインなどを任せてもらえるようになり、自分なりに一生懸命やっていました。ただ、アイデアは誰にも負けない自信があっても、お世辞にも器用なデザイナーではなかったので、上から見たら「このままじゃ伸びなそうだな」と思ったんでしょうね。自分としては大きな仕事をメインのADとして担っているつもりだった7年目のある日、当時の直属のチームリーダーから「CMプランナーを命ず」という辞令がくだりました。ビックリしましたし、心おだやかではなかったですよ。
でも、もともと自主映画青年だったので、映像そのものは大好きで、CMプランナーに転じてからは、先輩に付いて見よう見まねで必死で「CMプランナーのスキル」を吸収しました。割とすぐに自分のCMの企画が採用してもらえるようになり、1年もすると1本任せてもらえるようになりました。そこで直面したのが、「なんでCMプランナーは自分で映像を仕上げないのかな?」という、AD出身者ならではの疑問でした。ADは当然ですが、フォト・ディレクションもしますし、入稿時のトリミングや、印刷仕上がりの最終の出来上がりまで担当します。ところが、日本の広告界のCMプランナーは、伝統的に企画が決まったらプロの「フィルム演出家」に映像制作をお願いするんです。そこには、分業することでの業務効率化や映像の品質アップなど良い面も多々あるのですが、自主映画青年の出自で、かつADから職転して来た自分は、どうもしっくり来なかった。
そこで、ある低予算の仕事のときに、おそるおそる先輩に「演出まで自分でやっても良いですか?」と切り出しました。すると意外にも、あっさりOKがもらえて、この仕事でACC賞とTCC新人賞の両方をもらうことができました。一度「やっても良いんだ」と知ったら、もともと自主映画青年だったので「もっとやりたい、できるだけやりたい」と、一時期は自分が企画するほぼ全部のCMの演出をやっていました。ただ、企画よりも仕上げに熱中するあまり、「本来このCMは、どうあるべきなのか?」を問う傾向が弱くなっていたかもしれません。やがて、「CM演出は一切やめよう」と決意し、企画に専念しようとするも企画も再プレばかりで通らなくなり、中国市場でのCM制作や、デスクトップムービー型の安価なCM制作など、様々にもがき模索しましたが、CMプランナー7年間の最後の2年は何をやっても上手くいかず、本当に辛かったですね。ちょうどその頃、先ほどのショッキングな瞬間(自分のCMを見てなんてつまらないと感じた瞬間)を体験し、なにがどうなるかわからないけど、とにかくCMプランナーは辞めよう、と思っていたときに、「インタラクティブ・クリエイティブ」という部署ができて、いちかばちかで志願して異動しました。
当時のテレビCMは、いまのような「ネット炎上」とかない頃ですから、先ほどもお話したようにクライアントの意見を聞きながら企画を決めて制作し、オンエアー時のお客さんからの反応は、よほどの大ヒット作でない限り、特に聞こえてこないのが当たり前でした。それがWeb領域に移って来てみると、驚いたことに広告に対してもユーザーがガンガン反応する。誉めたり、けなしたり意思表示をブログとか掲示板に書き込むんです。また当時、できたてのWebセクションにいた社内の面々も、成熟したCMの制作者とは違って、いいものをつくれば「いいね、いいね」と朗らかに褒めてくれる。すごく驚きつつ健全だと思いましたね。そして、これは自分に向いていると感じました。
テレビCMは15秒という短い時間の中に、研ぎ澄まされた強いメッセージを一度見たら忘れない形で投げかけるものです。これを理想的なカタチで完成するには、とにかくクライアントも演出家もふくめて、様々な関係者をひたすら説得し論破し、15秒の中のシンプルさを守りきらなければならない。これが正直、自分には向いていなかった。誰かがAといえば、Aかもしれないな、誰かがBといえば、Bかもしれないな、と思ってしまう。また自分では「ちょっと違うな」と思っていても、誰かが強く「こうしたい」と言うと、それを徹底的に論破して、そうさせないというのが、性格的に出来なかった。だから、自分で演出までやって仕上げる時だけ、100%納得いくCMがつくれて、それが評価もされたというワケです。つまり、映像は得意だったけど、CMは向いてなかった。
しかし、CMに対してWebは、そもそも秒数の制限もないし、カタチの決まりもないし、プロもアマもゴチャまぜだし、作り手がどんなに意志を研ぎすましてもユーザーが「イラネ」と平気で返して来る。ターゲットが気になることや役に立つことを発信し、ユーザーと一緒に何かをつくっていくようなやり方なんです。これは性格的にも、考え方的にも、映像やデザインの能力が十二分に活かせるという意味でも、とても自分に合っていた。
そんなまったく違うところに異動になったとき、怖くなかったのですか?
怖かったですよ。何ができるか全く分からなかったし、できる保証もまったくなかった。仕事が完全にリセットされて。社歴15年にしてキャリアゼロです。そのときに僕を助けてくれたのは、グラフィックやCM時代からの営業やスタッフとのつながりでしたし、僕がしたことも「コマーシャルソングならつくれますよ」とか「製品撮りのフォト・ディレクションならできますよ」とか「アニメーションのコンテなら描けますよ」といった、デザイナーのキャリアとCMのキャリアを、新しいWeb領域で存分に使ってサバイバルすることだけでした。これまでのスキルを元手にして現場に入れてもらい、そこでWebならでの表現の仕方を体験学習していく。文字通り、必死です。飛び込んだからには、泳ぎ方を覚えなければ、溺れ死ぬ。大変でしたが、結局は、それまでの経験や人脈が武器になった。キャリアをチェンジしても、これまで培ってきたスキルというものは必ず役に立ちます。どれひとつとして、ムダにはなりません。というより、もしムダにしていたら次の領域には絶対に、いけないですよ。ただ、新しい領域では、今までと作法が違う。その作法をいちはやく身につけて、アジャストしないと「アイツわかってない」ということになってしまう。ここが一番大事だと思いますね。新任の「マレびと」の価値を、どうその共同体で発揮できるようにするか。
あと最近思うのが、いろいろやってるように見えて、実は、自分がやっていることの根幹は昔から全然変わっていないんじゃないか?ということ。ドラえもんが好きだった子供時代の「アイデアが好きだ!」という思いを、小学生の時はマンガで、高校生の時は映画で、社会人になってからはポスター・CM・Webで表現してきて、いまはそれがアプリやデバイスやMRになってるだけ。アウトプットする場所が変わってきているだけで、「アイデアが好きだ!」ってことを、ずっと飽きずに繰り返している。面白いと思ったことをメモして、それを熟考して、カタチにして、そのトライアンドエラーを繰り返している。自分の苦手なことは実はまったくやっていない。自分の得意なこと、大好きなことを、自分に無理のないように、カタチを変えてやっているだけだと思います。
現在は自主開発型クリエイティブ・ラボ「スダラボ」の代表をされています。田んぼアートにカメラかざすとお米が購入できるアプリ「ライスコード」や雪かきをゲーム化するデバイス「Dig-Log」をつくったりと、様々。「スダラボ」でどんなことをされているのですか?
「スダラボ」は、一見、広告らしからぬようでいて、実はすべて、これから先の「未来の広告のカタチ」をつくっています。「Dig-Log」はつまんない雪かきも、数値化することでゲームのように楽しくできるかもしれない。ヒトが動く、モチベーションの試作ですね。「ライスコード」は田園風景が、そのままお土産物の売り場になったらいいなという着想からスタートしました。アプリだったり、デバイスだったり、MRだったりしてるので、何をやろうとしてるのか、わかってもらいにくいのですが、「未来の広告のカタチ」をつくる、という点で、これまでとまったく同じです。メディアのカタチが、テクノロジーによって時代と共に大きく変わっていく。けれども、人間が欲するものは、時代が変わっても、案外変わらない
これをスダラボでは「最古×最新」と呼んで、メソッド化しています。最新すなわち、今までなかった技術やヤリクチ。最古すなわち、昔から変わらず、人間が欲しているもの。この「最古」は人間である自分の身のまわりにヒントがあります。「自分が実感できること」じゃないと、やはりアイデアがスベる。自分が実感できる欲求、自分が観察して得た洞察、こういうものを元にしないと、やっぱり他者つまりユーザーにもウケない。流行っていることを、ただ採り入れるのではダメで、なんでそれが流行ってるのか?その人気の本質的な原理は何なのか?そういうところを、きちんと考察し、「だったら、こうだろう」という仮説を立てることが大事。もしヒットを出したいと思っているなら、こういう仮説を日々たくさんストックしておくことが必要です。今は「データの時代」と言われますが、データはあくまで客観的に仮説の精度を上げるためのもの。もしくは、仮説に気づくためのものです。「気づく能力」があってこそ、活かせるのです。
何事も始めなければ、始まらない。そして、予想外に転がるのを楽しんで欲しい
須田さんは、「仕事は誰かに頼んでもらわなければ、絶対にできないもの」という持論をお持ちと聞きましたが。
よく若い人がおちいりがちな思いに、「自分がやりたいことを、なんで会社はやらせてくれないんだろう」というものがあります。実際、僕も若いころはそう思っていました。ただ、冷静に考えてみると、仕事は自分がやりたいと思っても、できるものではありません。誰かが、頼んでくれなければ、絶対にできない。それは、社外のクライアントであったり、社内の上司や先輩であったり、様々ですが、仕事というのは依頼元があって、初めてできる。だって仕事ですから。だから、「自分がやりたいこと」を考えるのでなく、「自分が頼まれたいこと」を考えて、「それを頼んでもらうには、どうすればよいのか?」と考えてみる。
こうすると、自分から周囲への発信の仕方が変わるはずです。私は、こういうことが出来ます。こういうことが得意です。前の仕事ではこんなことをやっていました。趣味でこんなことをやっています。そうやって、知ってもらえれば、案外すぐに「じゃあコレ頼めるかな」と、自分がやりたいことを頼んでもらえるようになりますよ。「どうして自分がやりたいことを、やらせてくれないんだ!」と、いきどおるのでなく「やりたいことを頼んでもらえるように発信する」と、考え方をちょっと変えてみる。これもインタラクティブの考え方なんですよね。「どうしたら相手は、そうしてくれるかな?」Webサイトにアクセスしてもらうのと、やりたい仕事を頼んでもらえるようになるのとは、実は、同じことなんです。
やりたい仕事ができているような人についてもう少しお聞かせいただけますか?
次から次へと、やりたい仕事ができているような人を「運がいい」とよく言いますが、運というのは偶然ではないんです。運というのは字の通り「運動」、つまり動く速度です。チャンスが来たら、すぐつかめるように、常に準備してる。きっかけを見逃さずに、素速く行動に移す。声がかかるように、常に動いて発信してる。そういうところに、おのずと次の仕事は来ますよね。つまり運は、自ら呼びよせて、つくれる。「スダラボ」は運が良いと、正直思います。不思議なビギナーズ・ラックの連続です。でも、やっていてつくづく思うのは、我々って日本昔話の「わらしべ長者」なんですよね。
この昔話は、ものすごく示唆に富んでいます。「わらしべ長者」の物語の冒頭は、何ひとつ上手くいかない若者が、人生に絶望して観音様のところへお参りにいったところ、「境内を出て最初に掴んだものを絶対に手放すな」というお告げを受ける。で、境内を出ていきなりすっ転んで、最初に手にするのが藁。当時、稲作の農業国だった日本ですから、普通、藁なんかつかんでも捨てますよね。でも観音様にいわれたから、藁を捨てなかった。そこから始まって、アブが飛んで来たから藁に結びつけてみる。その結合が価値となってミカンに交換され、それが反物になり、馬になり、ついに長者さまの家になる。ラッキーが次々と重なりますが、もし最初に「なんだ藁か」と手放していたら、何も始まってない。
これって仕事も同じで、文句ばっかり言ってて「藁をつかみもしない人」って、実はいっぱいいるんじゃないかなと思います。そして、藁にアブをくくりつけるという、些細なアイデアが重要。藁にもアブにも、気づかない人も多い。その辺に転がってる、ほぼ無価値のものに気づいて、それを「結びつけて、ちょっとした価値にしてみる」というようなアイデアが、すべての領域において重要なんだと思います。自分が何者でもない、と自覚すれば藁だってつかみます。人生って、案外、そいういうところから開けていくんですよ。もし、開けなかったら、また別の藁をつかんでみたら良い。前につかんでた藁のスキルは、絶対に活かせます。
取材日:2018年12月13日 ライター:玉置晴子
須田和博(Kazuhiro Suda)氏
株式会社博報堂 ビジネス・インキュベーション局 エグゼクティブ・クリエイティブディレクター/スダラボ代表
1967年新潟県生まれ。1990年多摩美術大学卒・博報堂入社。アートディレクター、CMプランナーを経て、2005年よりインタラクティブ領域へ。2009年「ミクシィ年賀状」で、東京インタラクティブ・アドアワード・グランプリ受賞。2014年スダラボ発足。第1弾「ライスコード」で、アドフェスト・グランプリ、カンヌ・ゴールドなど、国内外で60以上の広告賞を受賞。2015年大塚製薬ポカリスエット「インハイ.TV」で、ACCインタラクティブ部門ゴールド受賞。2016〜17年 ACC賞インタラクティブ部門・審査委員長。2017年 東京広告協会「広告未来塾」第1期塾長。 著書:「使ってもらえる広告」アスキー新書