難しくも楽しい、アニメ業界を体感してほしい。アニメ業界の新入生に送りたい、未来への講義。
『魔法の天使 クリィミーマミ』や『BLEACH』などのアニメーションを制作した「株式会社ぴえろ」を創業した布川ゆうじ氏に、半世紀以上をアニメ業界に身を置く彼だからこそ見える「アニメーション業界の本質」に迫った。取材時、布川氏は2019年4月から16日に東京、神田の3331アーツ千代田で開催された「ラフ∞絵(ラフむげんえ)」展に向けて準備の真っ最中だった。「ラフ∞絵」展では、アニメーション制作会社「タツノコプロダクション」を原点に持つ秋本治氏、天野喜孝氏、大河原邦男氏、高田明美氏のラフ絵や完成原画を展示。次世代クリエイターを育てるために布川氏が設立した「NUNOANI塾」のコーナーも設けられていた。
「ラフ∞絵」展メンバーとの出会いは、昭和40年代のタツノコプロダクション
テーブルにある絵は、今度の「ラフ∞絵」展のご準備でしょうか。
そうです。5月から元号が変わるじゃないですか。昭和のころ、明治、大正、昭和と3つの時代を生きてきた人をすごいなんて言っていましたが、もう我々も3つの時代を生きる世代になってしまいました。
そうそうたる方々の絵が並んでいて、圧巻です。
「そうそうたる人」になっちゃいましたよね。一人一人のすごい個性が時代をまたいで、歴史を作ったんだなと思うと、身が引き締まる思いです。
「ラフ∞絵」展のメンバーは、当時「東映アニメーション」「虫プロダクション」に次ぐ第三のプロダクションと言われていた「タツノコプロダクション」で、昭和40年代ごろに一緒に仕事をした仲間なんです。ちょうど『科学忍者隊ガッチャマン』や『新造人間キャシャーン』『タイムボカンシリーズ』などのヒット作を作り出していたころです。
天野さんは、当時はキャラクターデザイン室に所属していて、『ガッチャマン』や『キャシャーン』といった作品で、タツノコの社長である吉田竜夫さんのアシスタントみたいな形で才能を開花していった人でした。その後に天野さんの後輩として高田さんが入社しました。大河原さんは、僕が入った1~2年後に入社して、美術部に配属されました。秋本さんは2年くらいで退社して、すぐに漫画家としてデビューして、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を40年間連載していたから、彼がアニメーションの世界にいたことは、あまり知られていなかったかもしれません。この4人と私は、あの時代に常に一緒に行動していたわけではないんですが、当時私はタツノコで演出をやっていたので、さまざまな部署の人と接点があったんです。
「うる星やつら」「魔法の天使 クリィミーマミ」
若いクリエイターが先頭を切る作品でヒット連発
独立されて「ぴえろ」を立ち上げたばかりのころは、大変でしたか?
大変ですよ、そりゃあ。経営のケの字も分からない人間が、プロダクションを起こしたわけですから。現場にいると、どのくらいの予算でアニメーションを作っているかわからないんですよね。自分がやっている仕事のギャランティだけしか考えていない。「絵コンテ一本切って、演出やったらいくら」――そういう経済観念しかなかったものですから……。でも、アニメーションを一本制作するには、その何倍ものお金が必要なんです。
そんな人が経営者だから、立ち上げてすぐに「ぴえろ」は経営危機。莫大なる負債を負って、もうどうしようかって、そういう感じでした。
そんな「スタジオぴえろ」が、軌道に乗り出したと感じたのはいつ頃でしょうか?
2年経ったころに、当時下請けだったのですが、『うる星やつら』の放送が始まって、高田明美さんや押井守さんを見出してね。スタジオぴえろが軌道に乗り出したと感じたのはその頃ですね。当時は、高田さんも押井さんも、皆ほとんど20代。若い時期から才能を開花させて、番組の中心に入っていくのが当たり前の時代で、本当にエネルギッシュでした。
ウォルト・ディズニー・スタジオでキャラクターの版権に対する商品価値を学ぶ
そこから下請けを脱して自分たちでアニメを作るようになっていくんですよね。
そうですね。そこから少しずつアニメーションビジネスっていうものがわかってきました。当時、ロサンゼルスの「ウォルト・ディズニー・スタジオ」に行く機会がありましてね。ディズニーはスタジオの規模がものすごく広くて、大学みたいなところでした。印象深かったのは、版権事業室。世界中でデザインされた「ミッキーマウス」の商品が、発売までに必ずそこでチェックされるわけです。その時は、日系三世のウォーリー伊藤さんという方がミッキーマウスの担当でした。彼はミッキーマウスのどの角度や表情が一番かわいいのかを世界中で一番知っているんです。だから彼の基準をクリアしなければ、ミッキーマウスの商品化はOKされないわけです。きっちりとした管理が行われている様子を見て、アニメーションのキャラクターだけではなく、商品のデザインなどもプロダクションは管理すべきだということに気付いたんです。
日本に戻って初めて制作したオリジナル作品『魔法の天使 クリィミーマミ』は、そういう考えから生まれてきたという一面もあります。
「クリィミーマミ」ってたしかに、発売されているグッズが多いですよね。
初めてスタジオぴえろが著作権を持った作品でしたからね。ようやく下請けから脱皮して、自分たちが著作権を持てる作品に初めて出会えた。当時『うる星やつら』が評価されたので、その中心となったチームで『クリィミーマミ』を編成したんです。
そうしてお仕事が増えてきた当時、布川さん自身が「欲しかった」と思う人材はどんな人でしたか?
当時は、今のような製作委員会方式で番組を作っていたわけではなく、スポンサーなくしては1本の番組も成立し得なかった。なので、番組が始まったとたんに次の番組の企画を考えなければいけないわけです。営業も、制作も、経営も、ほぼ一人でやっていました。
5年目のプロダクションですから、とにかく自分の手となり足となってくれる人は欲しかったです。やっぱりアニメーションって、自分ひとりでできるものじゃなくて、いろんな人たちが重なり合ってできるものなんでね。
「ぴえろ」は今年創業40周年
この40年でアニメは「難しくなった」?
「ぴえろ」創業からこの40年間で、アニメーション業界が変わったなと思うことはありますか?
はっきり言って難しくなりました。ご存知のようにホーム・アニメーションとしてあるのは、決まっています。日曜日には『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』があり、金曜日には『それいけ!アンパンマン』があり、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』がある。『サザエさん』は、半世紀近く放送が続いています。ぴえろが制作した『NARUTO』や『BORUTO』もその枠に入らせていただいていますが、子供の観るアニメは、どれも長寿番組になっています。そのほか深夜枠だったり、ネットビジネスをはじめ今までなかった枠もできてきて、ものすごい数のアニメーションが制作されています。でも、ごく一部の作品以外は、ほとんど全部「製作委員会方式」を採用しています。スポンサーからお金をもらっている部分が少ないわけです。そういった面でのアニメーションビジネスの難しさが出てきたし、テレビという媒体が頭打ちになってきています。今はいろんなネットビジネスが参入したり、テレビでも地上波だけでなく衛星波が出てきたり、メディアは増えたけれども、どのメディアに集中して企画していくのか難しくなってきました。
逆に、良い変化はありますか?
まず、日本のアニメが海外に高い評価を受けていることでしょうか。いろんな要素があると思いますけど、日本のアニメは多様じゃないですか。子ども向けのものや、青年向けのものもあり、多様なジャンルがありますよね。
もうひとつは、日本のコミック文化です。コミックにアニメーションが連動されていくのも世界的に珍しい特徴です。手塚治虫先生や藤子不二雄先生をはじめ、あの時代の人たちは漫画の連載も大変なのに皆アニメ会社を起こしたんですよ。漫画とアニメーションを常に連動するものとして、世界に類を見ない形で日本のアニメは発展したんじゃないかな。
テレビアニメがたくさん制作される現在があるのも、アニメ会社を起こした漫画家さんたちのおかげでしょうか。
日本のアニメは、テレビアニメなら基本的に30分です。30分って、ちゃんとドラマを作らないと話が持たないんですよね。
そのアニメを維持させるために、原作の漫画をもとに「きっちりストーリーを作る」「設定を作る」「キャラクターをリスペクトして掘り下げていく」という作業は、世界でも独特なことだと思うんですよ。
海外の方が感じる、日本のアニメの魅力ってなんだと思いますか?
私にもハリウッドからいろんなオファーがきます。ご存知のように、ハリウッドで公開されている作品は『バッドマン』にしても『スパイダーマン』にしても、古いコミックです。あまり新しいコミックはないんですよ。でも日本では、毎週月曜日には「週刊少年ジャンプ」が発売されるし、水曜日には「週刊少年サンデー」、「週刊少年マガジン」、木曜日には「週刊少年チャンピオン」が書店に並ぶし、それ以外にもさまざまな週刊誌が新しいIPをどんどん送り込んでくるわけです。アニメーションもそうですね。それは海外からすると脅威なんですよ。日本では、新しい原作IPがどんどんどんどん生まれてくる。そこに魅力を感じます。
海外で、日本のアニメはどのように評価されているのでしょうか?
海外のマーケットは、日本のマーケットに注目してるんですよ。日本でヒットすれば海外でもヒットするというような、そういう位置づけになっているんです。
日本のアニメーションって、ずいぶん以前には単価が安かったものですから、海外へセールスするのにとても良いコンテンツだったんですよ。なので、ヨーロッパやアジアなどいろんな国へ流通していきました。
あるとき僕がイベントのためにドイツへ行ったとき、通訳してくれた男性のご家庭に招かれました。そうしたら、彼のお母さんが、「うちの子は『ニルスのふしぎな旅』をずっと見ていて、こんなに良い子に育った。ありがとう」って言うんですよ。ニルスはぴえろで最初に制作したアニメなんですが、我々の仕事が教育の一助になっていると思うと、感激しました。
クリエイターをどう生かすか
未来はプロデュース力にかかっている!
携わっている人たちが、限られたコストの中でハイパフォーマンスをしているからこそ、アニメは維持されるわけですね。
今の時点で言うと、僕自身、日本のアニメーションは飽和状態という印象を受けます。今後の日本アニメーションの未来を考えると、多少危惧はしてるんです。今、日本のアニメーションが世界から評価を受けているということは、今が売り時なわけです。それに、日本のアニメのビジネスモデルを真似ようと窮迫している国があちこちにありますからね。そこに越されないためにも、クオリティーをどう維持して、進化させていくのか。また、日本の場合は手描きを続けることにも限界がある。近年の「働き方改革」が我々の業界にも大きく影響しています。「どう作業を簡素化して、クオリティーの高い作品を維持し制作していくか」という、業界としてとても難しい課題に直面しているんじゃないかと思います。
布川さんが思うアニメーション業界の理想像と言いますか、こういう風に進化して欲しいというものはありますか?
それを、いつも僕は考えているんですよ。もちろんクリエイターを育成していくことも大事なんですけど、そういう人たちをどうプロデュースしていくかっていう……。これからの時代は、僕はプロデューサーという位置づけが非常に大きく作用するんじゃないかなって気がするんです。
今までプロデューサーは黒子役のような立場でしたが、日本のアニメが売り時のマーケットであるわけですから。そこにどういうビジネスチームを作って、クリエイターをどう生かせるかということをもっと、考えるべき時かもしれませんね。
次世代を担う人材を育成する「NUNOANI塾」
業界の未来を常に意識して過ごす
「NUNOANI塾」をはじめたキッカケは?
僕自身、今日まで半世紀以上この業界に携わっているので、これから業界の将来を託す人材づくりをどういう風にしたらいいかというのは、常々考えてはいました。アニメーターなどの技術的な育成場所は大学や専門校などいくつかあります。僕は、業界のビジネスやプロデュース、演出(ディレクション)の知識は、相似的なものだと考えています。ハリウッドでは、ディレクターがプロデューサーにもなるし、その逆もある。そうやって連動した教育をできる場が欲しいと考えたんです。
それからこの仕事の根幹である企画・ストーリーを作る人。我々の業界で言う「プリプロ」(※プリプロダクションの略)的な、そういう仕事に関心を持てる人たちを育成する場所を作るなら、対象は学生じゃないなと思って。すでに業界にいる方々とか、業界に入ろうとして近いところにいるような人たちが学べる場を作れないかと思って、NUNOANI塾を作りました。隔週土曜日、少ないメンバーでそういう授業をやっています。今年で7年目を迎えました。
布川さんがこれからチャレンジしていきたいことを教えてください。
この歳になって夢もへったくれもないんですけど、ただやっぱりどうしてもこの世界から逃れられないので、常にこの業界の未来を考えます。こんな風になってくれればいいな、こうなってくれればいいな。そういうものを、自分で一日一日考えることしかできないので。ただ常に考えることは意識しながらやっているつもりです。
最後に、アニメ業界の新人たちにアドバイスやエールの言葉をいただけますか。
アニメーションというのは、いろんな才能が加わってひとつの作品が仕上がっていくわけです。この仕事の楽しさは、繋いでいく楽しさだと思うんですよね。自分が書いた原画がどのように彩色されて、どのように撮影されて、どのように声を当てられていくか。そこに完成体を見ていくわけですから。自分のイマジネーションはもっともっと広がっていくと思います。
アニメーションの世界を楽しむなら、アニメを好きというだけじゃなくて、もっと別な意味でアニメーションに好奇心を持って、生涯自分の仕事にしたいと思えるエネルギーを感じてほしいと思います。以前、NHKの番組で宮崎駿さんが、原画を「面倒くさい、面倒くさい」って言いながら描いていました。面倒くさいって言いながらも、描いた原画がひとつのフィルムになったときの達成感は、やった人にしかわからないところがあります。それを感じてほしいですね。