限られた中でいかに 最高、最良のものを出せるかが大切
- Vol.6
- 映画監督 李相日(Sang-il Lee)氏
「世界を一瞬で消す方法がわかりました」 ――現代の閉塞した青春を描いた物語『スクラップ・ヘブン』。
『スクラップ・ヘブン』の公開を間近に控えた今の気持ちは?
「みんな元気かなあ」(笑)。もちろん、役者やスタッフのことです。公開については、公開されないと実感はわかないですね。直前になって、舞台挨拶の時が迫ってきたりすれば、当然ドキドキするんでしょうけどね。その時になってみないとわからない、というのが正直なところです。
舞台挨拶は苦手ですか?
毎回、いやだなあ、早く終わってほしいなあと思いながらやってます(笑)。でも、作った以上、顔を見せなきゃいけないというのは理解しています。
撮影の現場で苦労したことは?
撮影は、全部大変でした。体力的な苦痛っていうのは、問題にはならないです。ただ、苦痛はもうひとつあって、それは演出をどうしたらいいんだという、頭を使う苦痛です。うまく消化できないと引きずっちゃいますから、こたえます。「ここはだめだった」と思う部分はラッシュで観ても、やっぱりダメなんで(笑)、あとは編集でどううまく観せるかということに集中するようにしてました。
映画作りのテクニックは、作品ごとに、撮影が進むごとに進化している?
行ったり来たりかなと思うんですけどね。自分なりには少しずつ変えようと思いながら、毎回、現場に臨んでいます。ただそれは撮影が終わって、作品が完成してみないとわからないですからね。とにかく、自分のスタイルをひとつに決めないで、作品ごとに柔軟にやっていこうとは思っています。
<突き抜けた青春>『69 sixty nine 』と<閉塞した青春>『スクラップ・ヘブン』を対比した発言をなさっていますが、この2作品のバランスがあったからこそ『スクラップ・ヘブン』は生まれた?
実は作品の企画は『スクラップ・ヘブン』が先でした。そこに『69 sixty nine』の監督の依頼をいただいて……。『スクラップ・ヘブン』で閉塞した青春を、閉塞したまま、不発のまま終わらせることにちょっとした抵抗を感じていたのは事実。そこで、先に『69 sixty nine 』で突き抜けた青春を描くことができて、ふんぎりがついた側面は確かにあります。ただ、最終的に『スクラップ・ヘブン』は完全に閉じたまま終わらせたつもりはありません。開くとはいかないまでも、閉じているものに向き合った終わり方にはなっていると思う。
笑えるシーンもいくつかありましたね?計算づく?
バランスですよね。単に、にがいものを食べるより、まず甘いものを食べてからのほうが、よりにがさを感じるじゃないですか。そんなことは考えてます。
突き抜けて、閉じて、ときたら次回作は「突き抜けた」映画?
予想通りで申し訳ないんですけど(笑)、ほぼその通りになると思います。現在、構想中です。
日本映画学校にプロデューサーコースがなかった。 脚本家コースの試験にも落ちて、演出家コースに進んだ。
助監督の経験は?
日本映画学校を卒業して、『BORDER LINE』 を撮るまでの約1年、2本だけやってます。スーパーだめだめ助監督と呼ばれてました(笑)。
その経験は、監督業に役立っていますか?
まったく役立ってません。たった2本ですからね。活かすほどの経験をする前にPFFで賞をいただいて、劇場公開作品を監督するチャンスをいただいてしまいましたから。逆に、今監督をやっていて、あの頃「お前はだめだ」と言われていた理由がよくわかる。あんな助監督、僕だって使いたくないですよ(笑)。だから、今だったら、みんなに褒めてもらえるような助監督になる自信はあります。
助監督で何本も作品を経験して、その後に監督デビューするという道は歩まなかったわけですね。
本来はそれを目指してはいたんです。元来、自主制作映画というものには興味ありませんでしたから。卒業後は助監督で経験を積む道以外、考えてませんでした。ただ、幸か不幸かチャンスを掴んでしまって、その道からはドロップアウトすることになった。
映画との出会いは?
小学生の時に観た『E.T.』。そしてTV放映で観た『スターウォーズ』です。『E.T.』は、泣きました。その後、生意気になって映画を観ても泣けない時代を過ごし、最近また、『E.T.』を観て泣けるようになった自分がここにいます(笑)。
映画作りを志したきっかけは?
大学卒業間際です。社会に出なきゃいけないと追い込まれた時に、やりたいことをやろうと決断しました。経済学部なので営業マンになるか、あるいは違うものはあるのか?と考え、映画をやりたいと思いました。
大学時代には、まったく映画作りに手を染めなかった?
興味なかったですね。たとえば映画研究会も、僕にはピンとくる存在じゃなかった。普段観ているハリウッド映画と映画研究会が、同じ映画として結びつかなかったんです。あの頃は日本映画や文芸映画ってまったく観なかったですからね。
社会人になる選択肢のひとつとして映画監督を選んだ。
監督は目指さなかったです。映画にかかわれるのならなんでもいいし、自分はプロデューサーに向いているかなと考えた。ところが、日本映画学校にはプロデューサーコースがないんです。それで演出コースに進みました。本当はプロデューサーコースがないなら脚本家コースがいいと思って試験を受けたんですが、見事に落ちました(笑)。
まるで専門学校を選ぶように日本映画学校に進んで、3年間のカリキュラムの最後に卒業制作で作品を作ったら注目されて、あっという間に監督デビューしてしまった。
文章にしたら、ちょっとやばいですね(笑)。でも、とにかく僕は、目の前のことしかできない人間で、目の前のことに取り組んでいたらここまで来てしまったというのは事実です。卒業制作も、監督できるのはクラスで1人か2人。あとはスタッフにまわらなきゃならない。同じ授業料払っていてスタッフはいやだ!の一念で脚本作りに執念を燃やしたんです(笑)。きっちりとした計画をたてるのは苦手なんですが、予想くらいはします。で、その予想が少しずつズレながら今に至っているという感じですね。
映画監督になっていなかったら?
想像できないですね。少なくとも会社員にはなっていなかったと思いますが、ほんとわからないです。
尊敬する映画監督は?
阪本順治さんです。
好きな作品は?
全部です。あえてあげるなら、『トカレフ』や『顔』。
ヨーロッパの人に褒めてもらいたいとは思わない。日本の観客に観てもらうことに、最大の関心がある。
映画作りへの心構えは?
自分がやるからには、自分の実感をどこかに埋め込みたいと思っています。たとえば脚本家の脚本で演出するとしても、必ず自分の「生身感」みたいなもの、生身の自分が、今生きている時代をどう感じているかを反映させていきたいと思っています。
原体験が『E.T.』や『スターウォーズ』なら、いつかSFも手がけてみたい?
現状を言えば、SFをやるつもりはありません。未来に興味がないんです(笑)。僕が興味を持つのは過去と現代です。
在日であるということは、映画作家/李相日にとって大きな意味はあるのでしょうか?
意味があるのかどうかはよくわかりません。僕は高校を卒業するまでは、在日の狭い社会で過ごしてきました。で、たとえば学校で先生が言うことと、TVで報道されることがまったく違うんです。その両極をどうキャッチして感じて、どうやって自分なりのストライクゾーンをみつけるかという作業は常に必要だった。その作業は、確実に映画作りにつながっている。そんな風には感じます。それから、映画が完成した時に、誰に観てもらいたいかというと、僕の場合確実に日本の観客です。ヨーロッパの人に褒めてもらいたいとか、海外の映画祭で評価されたいとはまったく思わなくて、それより、隣に住んでいて、僕とはちょっと感覚の違うはずである日本人に観てもらうことに最大の関心がある。それも、僕が在日であるが故のことだなんだと思います。
日本映画は、産業として決して恵まれているわけではありません。そんな業界で仕事を続けていく覚悟は?
たとえば『69 sixty nine』をやってから『スクラップ・ヘブン』をやると、予算の違いでできることの限界が違うことを知る。正直、フラストレーションは感じました。予算を守るというのは、本当に大変なことです。ただ、予算や環境が変わったなら、それに自分を合わせていくのは当たり前のことだと思います。そこで自分をどう合わせられるか、限られた中でいかに最高、最良のものを出せるかが大切なんだと思います。10年後、20年後に、「お金は使いたいだけ使ってください」という依頼が来たとします。その時、その大金をきっちと作品に反映できないと意味がないと思う。その時にちゃんとできるために今どうするか?ということを考えているし、毎日を過ごしていくつもりです。
Profile of 李相日
1974年生まれ、新潟県出身。大学卒業後、日本映画学校に入学。卒業制作として監督した『青 chong』が2000年のPFFアワードで、730本の応募作の中からグランプリを含めた4賞を受賞。そのレベルの高さから、自主制作ながら一般公開もされ、8週間にわたってロングラン公開された。PFFスカラシップを得て制作された2作目の『BORDER LINE』 は、2003年6月に公開され、各方面から絶賛を得ていくつかの国債映画祭からも招待を受けた。
【作品】 | |
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2001 | 『青 chong』 |
2002 | 『BORDER LINE』 |
2004 | 『69 sixty nine』 |
2005 | 『スクラップ・ヘブン』 |