「愛するから美しいんだよ」それは師から受け取った言葉。生き様を見れば虫も人間も変わらず美しい
生物画家の舘野 鴻氏のアトリエには画材や資料が並び、虫が暮らすケースがいくつも並んでいます。実際に観察し、その生を見つめることで、舘野氏は自分が描くべきものと理解を深めていくのです。細密画とはただ細かくリアルに紙に描くものではなく、その生きた時間すべてを注ぎ込むように表現するものなのだと感じさせてくれる舘野氏の絵本は、一度見ればその衝撃で多くの人の心を揺さぶります。天命というものがあるなら、舘野氏はそれを授かっているひとりかもしれません。
絵本なんて興味はなかったし、読んだこともなかった
絵本を描き始めたきっかけはなんでしょうか。
元々、図鑑の絵を描いていました。図鑑って昔はリアルイラストで描かれていたんですが、徐々に写真へ移行していったんです。そこで、何が仕事として残っていたかというと、解剖図と景観図なんです。解剖図は写真で撮影するとさすがに生々しいですが、イラストならやわらぎます。
景観図はどんな生き物がどんな景色の中に暮らしているかを表しますが、写真でそれは撮影できないですから合成写真だとどうしても違和感が出ます。春夏秋冬の景色の中、その場所や季節にはどんな虫が、その川にはどんな魚が生きているかという、ひとつの景色の中に生きている生き物を描く仕事です。
そういった仕事も少しずつ減っていってしまった頃、編集長や一緒に仕事をさせてもらった写真家の方から「科学絵本でも描いたらどうだ」と勧められたのがきっかけです。
図鑑と絵本はかなり異なる部分があると思いますが、もともと絵本には興味はあったのでしょうか。
興味はなかったですね。絵本なんて考えたことがなかったし、全然読まない。ですが、その頃にはもう結婚して子供もいましたので「お父さんいい加減にしてよ」って言われて。
じゃあ絵本はやろう、でもこれでダメならもう廃業しようと腹を括りました。 そして描いたのが最初の絵本『しでむし』だったんです。僕は絵本に興味はなかったけれど、どうせ作るなら破壊力があるものを作りたかった。人間から見れば、シデムシは見苦しいし汚いと感じる人が多いじゃないですか。そういうことじゃなくて、生き様を見ていたら、みんな同じだろうよって。そうやってピックアップしてラフを出しました。ところがこれがかなり暴力的になってしまって。そのままだと商品になりませんと言われました。絵本はやっぱり商品ですから売れるものにしなくてはいけない。よく売れるだろうという方向に迎合するということではありません。商品として、作品として、どう表現していくのか。絵本ってどういうものなのか。それを担当してくれたベテラン編集者に教えてもらいながら研究して、絵本の面白さがわかってきました。
生き物の絵を描き始めたのは全部なりゆきです。縁なんでしょうね。
いつから生物の絵を描くようになったのでしょうか。
一番大きいのは僕の師匠の熊田千佳慕の存在です。子どもの頃住んでいたアパートが熊田千佳慕のアトリエの近くにあって、母が熊田千佳慕のもとへ絵を習いに通っていたので、僕もついて行っていました。画家になりたいと思ったことはなかったですが、絵を描くのは好きだったらしく、何も教えてもらってはいないんだけれど、出入りしているうちに、絵を見てもらったりしていました。
また中学の時、友達が生物部をやめて陸上部に入るから、代わりに生物部に入部してくれないかと頼まれて、そこから本格的に生物に触れることになりました。僕からは特にアクションしていない。たまたまそういう環境になってきたんですよね。つまり僕が生き物の絵を描くことになったのは全部なりゆきなんです。縁なんでしょうね。
先程、絵本は勧められて描くことにしたと伺いましたが。
勧めてくれたのは図鑑の編集長と写真家の久保秀一さんです。編集長が久保さんと親しく、まだ僕が図鑑の絵を描いている時に、鍋でも食べようということで誘われたのが出会いでした。
そこでの久保さんの第一声が「絵描きは嘘が描けていいね」でした。カチンときましたね。図鑑の絵は嘘を描いてはいけない。図鑑の絵の制作では学者、編集者、僕の3人で制作します。図鑑で一番大切なのは「典型」なんです。作画モデルのために解剖した1個体は典型ではないかもしれないので、幾つもの個体を解剖して観察します。解剖の仕方ひとつで見え方も違う。内臓はほどんど色が無いので、どうすればわかりやすく見せられるか工夫して描いていきます。そのために、まず僕が観察対象を理解しなくてはならない。描く側が理解していないと、見ている人に伝わる絵にはならない。理解するだけではなく、絵描きですから表現する技術も重要です。
それを嘘が描けていいよねと言われちゃうと、頭にきますよね。写真なんかそこにあるものをパシャっと撮るだけじゃないかって。でもね、その人の写真をあらためてよく見ると、「こうじゃないといけない」というところにつきつめて撮影していく。 例えば、虫一匹いるとして、絵描きは傷も何もないパーフェクトなものを描いてしまう。でも写真家はモデルがないと仕事が成り立たないので、それを用意しなければならない。パーフェクトな個体をそこに置くのが、どれほど大変かということですよね。偶然、撮れちゃったという写真じゃダメなんですね。そう考えたら、野生生物を撮る時は人間のモデルと違って、指示通り動いてくれるわけじゃない。相手の性質をよく理解して、次にどう動くか予測して撮影する。背景だって同じです。想像するだけでもそれがいかに難しく、多くの知識、経験、技術が必要なのかがわかりますよね。
本質を知らないと伝わる画が作れないという点は写真と絵は共通しています。そんな風に付き合っていくうちに、かわいがってもらえるようになりました。
どのように絵本を作られているのでしょうか。
まず大雑把に、この虫はこういう生態なのでこういう話がいいかな、という風に企画を立てます。
それから観察を始めますが、自然は全て予想を裏切ってくる。思い通りになるはずがないわけです。自分が見たものは自分にとって確かなものですが、それは自然のごくごく一部に過ぎない。他の人が検証すれば違う事例がいくつも観察されるでしょう。それは不都合なことではなく、そういうつかみどころがないのが「自然」なのだと思います。そこが面白い。それでも自分で検証できたものしか描けませんが、こうしてしつこく対象の暮らしや環境との関係など「生き様」を見つめ続けた先に、ようやくそこに壮大な「物語」があることに気がつきます。ボケっと眺めるだけでは何も見えてきません。そこに何があるのかを意識しないと、観察する行為も時間も無駄になりますし、作品自体が薄っぺらい主観に汚されたものになります。
ひねくれた絵本を作っているかもしれません。こうやったら売れる、ということはあまり意識しないようにしています。邪念とまでは言いませんが、そういうスタンスでいると、自分が何を大事にしたいのかというところに集中はできますね。しかし独りよがりな絵本を作るつもりはありません。絵本は出版社と共に作る「商品」ですから、長く売れ続けることが大切だと考えていて、そうしたことは常に意識します。
僕の半分は熊田千佳慕でできています。僕にとって熊田千佳慕は、『環境』だったから。
絵を描いて生きようと決めたのはいつ頃ですか。
20代半ばくらいでしょうか。僕は演劇をしたり、いろんなことをやっていたんですけど、生物にもずっと関わっていました。師匠に「生物の絵を描いていこうと思います」と報告をすると師匠は「使うといいよ」と言って、筆を一本くれました。今もその筆と同じ種類の筆を1本使っています。当初、もらった筆で絵を描いても、どうも熊田千佳慕のようには描けないんですよ。それはそうなんですけど。そんな簡単に描けるようになったらおかしいですよね。師匠は長い時間、描いてきたわけですから。
その筆が「直勝※1の清流の大」です。初めて筆屋に行った時にご主人に「熊田千佳慕の使っていた筆ってこれじゃないですよね」と確認してみました。そうしたら主人に「違うよ、中だよ」と言われて。その時には師匠はもう亡くなっていたんで「そのへんで笑ってるよ」なんて話していました。
それで「中」を試したんですが、もう20年も「大」を使っていたから、どうにも中で描くのは収まりが悪い。それで、もういいかって結局、大を使っています。筆1本で描くとか、絵の具で描くというのは手間がかかる。
師匠は「君は損な道を選んだんだからね」なんて言っていました。絵を描くとはどういうことなのか、熊田千佳慕から刷り込まれています。教えを守ろうと思っているわけではなくて、もう染み付いているんですよね。僕の半分は熊田千佳慕でできています。僕にとってそれが『環境』だったから。避けられない運命のようなものです。虫と同じです。虫は環境に対して逆らわないじゃないですか。与えられた環境の中で自然に振る舞っている。潔く、勇敢に一瞬一瞬を生きている。僕もその環境の中、虫のように生きていたい。とはいえ僕は打算だらけですが。
生き物がそういった無垢に生きる姿、環境、生き様は美しいと思います。熊田千佳慕がよく言っていた言葉に、ちょっとクサいんですが「愛するから美しい」というものがあります。こっちが美しいと感じないと対象は美しくならないし、美しくも描けない。美しいものは最初から美しいのではない。
※1 明治16年創業の横浜にある筆屋。
あの繊細な線で描かれた絵は、筆で描かれているんですね。虫が持つふわっとしたドライ感のある毛を表現されているのは絵の具なんでしょうか。かなり細かい線ですし難しいのでは。
描ききれているとは全然思わないなあ。絵の具は透明水彩を使っています。透明水彩なので白を使わないで、白くする部分を残して抜きで表現します。例えば白い毛だと、この毛の奥にある毛の重なりを描こうとしても難しいし筆の限界もある。人間がやることですし結構いい加減です。実は絵を描くことにはあまり自信がないんです。図鑑プレートを描いていた時は巧くなりたいと強く思っていましたが、絵本を描くようになると、そういったことよりも、そこに込めるものを限られたページ数の中でどのように表現するかということに注力するようになりました。構成、ストーリー、文章、フォント、デザインなど、絵本の要素はどれ一つも欠かせませんし、一貫した哲学のようなものが必要だと考えています。絵本は文学、美術、科学を融合させることのできる、大きな可能性を持つ表現媒体だと思っています。
『死が描けないと伝わらないよ』そう言われて生を描くために死を見つめ続けた日々が、絵本『しでむし』となった
アトリエに置かれているケースの中には何がいるのでしょうか。
これはオオセンチコガネです。もう3〜4年くらい観察をしています。詳しい生活環がわかっていなくて。「つちはんみょう」という絵本を出版しましたが、モデルとなったヒメツチハンミョウも生態がわかっていない虫でした。文献を探してみたんですが研究している人がいなかったんです。ファーブル以降、断片的な観察報告はあるものの生活環の解明はされていなくて、論文などはほとんどなかった。仕方なく素人なりに観察し続けたところ、なんとか生態を解明できました。そんなわけで絵本『つちはんみょう』の刊行までに8年くらいかかってしまいました。
最初の絵本となった『しでむし』も企画から3年かかったと伺っています。絵本を描くためにかなり長い時間をかけていらっしゃいますね。
かかりますね。企画している絵本の取材のために、現在は常念岳(北アルプス)とか小笠原に通っています。いつ絵を描いているんだろう(笑)。
『しでむし』は最初の企画から取材をして、作画に2年くらいかかっています。死ぬということを扱っているんで、死体がなければ始まらない。
モンシデムシの仲間は小型の脊椎動物の死体を使って子育てをします。ネズミを何頭も飼い、色々な観察をするわけですが、そのうち寿命で死んでいきます。そのとき、いまわの際のネズミをずっと見つめました。いつ死ぬんだろう、死んだらどうなるんだろう。死ぬことばかり考えて2年くらい過ごしました。
私は臆病者なので死ぬのはとても怖い。怖いし「死」がわからないし、死者の絵なんてどうやって描けばいいのかわからない。こんな思いをして絵本を描く必要があるのだろうかと思いました。
芝居をしていた時、表現っていうものはそういう風にしないと伝わらないと教わりました。二十歳ぐらいの時だけれど当時四十代のオヤジたちが寄ってたかっていろいろ意見してくるんですよ。うまいことやろう(演ろう)としてるんじゃねえ、とか。
じゃあどうすればいいのかって言っても、今でも答えはわからないんです。やってみないことには手がかりもない。やって、模索して、を繰り返しています。それで接近はできるかもしれないけど、やっぱりわからない。
『しでむし』でアカネズミの死は、生のない瞳だけで表現されていました。生を描くために死を描くのはなぜでしょうか。
久保秀一さんに「これが描けなければこの絵本はだめだね」と言われました。アカネズミが死んで横たわる絵は『しでむし』で最初に描いた絵です。だからネズミの死をできる限り見て、感じようとしました。あの絵を描きながら、よくわからない涙が止まらなかった。
絵を描くってどういうことなのか、ということだと思います。画家がどう見たかということはダイレクトに丸出しになる。 死を描いたのは『しでむし』だけではありません。『つちはんみょう』では雨の林のシーンから描きました。1万匹くらいの赤ちゃんが産まれるけれど、そのほとんどが死んでしまう。これはヒメツチハンミョウの暮らしの中では当たり前の日常なのですが、人は想像をします。自分の赤ちゃんが死んだらどうでしょうか。数えきれないほどの赤ちゃんが死んでゆく。でもその営みがあって、たった一匹の成虫がそこにいる。
講演でも話すんですが、僕達は無数の死者の上にこうして立っている。死があるから生きている。僕らだってやがて死ぬ。生きているということはいつも死を孕んでいるということ。死を考えたら今どのように生きるか、この仕事をどのような姿勢で取り組むか、自ずと見えてくると思います。
仏教徒ではないんですが、絵本を描く時、供養の儀式のような気持ちで一枚目の絵を描きます。美しさを知り、それを描き出すためには死への意識が常に必要であるというか。綺麗事は言えません。
自然への畏れを忘れずに、描き続けていく
自然を通じて作品をずっと描かれてこられましたが、自然に対してのお考えを聞かせてください
自然とは、状態のことだと僕は思っています。無生物も含めた動的なものといいますか。小笠原に行くと、グリーンアノールが特定外来生物として問題になっています。外来種が固有種を食べ尽くし、島の固有性が失われるのはよくない、というのはあくまで人の価値観です。でも彼らから見れば、連れて来られてしまっただけで、好きこのんで小笠原に辿り着いた訳ではない。はるか先の未来、「侵略者」グリーンアノールがこの島々に暮らし続けていたら、グリーンアノールが小笠原の固有種になっているかもしれません。世界遺産だったり、固有種だったり、人はそういう価値付けをしますが、当の生きものたちにはそんなことは知らないし関係ありません。人の行き来で環境が変わったり生物相が変わったりしていくことで「現生の自然」は失われますが、自然なことではあると思います。
しかし、それは人が原因となって引き起こされた好ましくない状態だとわかっています。そうであれば、私たちは諦めて放置するのではなく、反省をもってそれぞれの立場や持ち場で、この問題を改善しようとアクションすることが必要ではないかと思っています。
これから描いていきたいものは、どんな作品でしょうか。
次の絵本はガロアムシがテーマです。これはガレ場※2にいる生物で、地下の洞窟に近い環境で暮らしていて、卵から成虫になるまで5〜8年くらいの年月がかかると言われています。そのガロアムシの一生を追いますが、地下に住む生きものたちの知らない地上では大きな何かが起こっている、というような絵本を描こうと思っています。見えない地下も、この地上も、連絡し合う同じ世界です。
ガロアムシは肉食でよく共食いもします。肉眼で見ることのできる他の多くの生物も肉食。だから毎ページ容赦無く残虐なシーンが出てくる。過酷な環境と思われるかもしれませんが、それは人間から見て過酷なのであって、彼らにとってはそれが当たり前の環境です。
ガロアムシの一生を追いながら、地表で何が起こっているかを描いていきますが、その時間の間に街は変わっている。ガレ場も法面工事で消滅直前です。遠景に奥山や空に浮かぶ雲を描いていますが、この奥山と雲の形は、最初の画面と最後の画面では全く変わっていない。8年経った設定なんですが、僕らにとっての8年は、地球の時間から見たら一瞬の時間だということを、こういう「嘘」で描いています。河岸や崖の法面を工事して安定させるのは、人が安全に暮らすためです。街は人が快適に暮らせるように作られます。その土木技術は長い時間をかけて研究され発達したもので、人類の財産でもあります。一方で、人類は自然環境の中で循環資源の一部として長い間生命を繋いできました。その循環資源は人の安全な暮らしを優先するあまりに、一方的に削られ続け、自然環境の均衡は崩れつつあります。それは人にとっての資源の危機で、自分の首を絞め続けているように見えます。ガロアムシなんていう誰も知らないような虫ですが、そんなことを思いながら、来年の刊行を目指して描いています。
ガロアムシや小笠原の次はツチノコを描く予定です。いるかいないかわからない未確認生物ですが、隣町の壮大な社叢林で、信頼できる人が見たと言うんですよ。他にも母方の実家の岐阜県郡上市ではツチノコの話がとても多いところなんですね。祖母や従兄弟に目撃談をよく聴きました。子どもの頃、毎夏ここに預けられていて、郡上は僕にの原風景になっています。この絵本は奈良時代から近未来まで、ツチノコが見てきた1400年間くらいの物語を創作します。
あとは人生でこれだけは作りたいというものが『原色日本未発見昆虫図鑑』。荒俣宏さんと一緒に。完全にファンタジーですね。
※2大小さまざまな石が散乱する礫地。
若いクリエイター、これから挑戦していくクリエイターにメッセージをお願いします。
徹底的にデタラメを力いっぱいやってください。デタラメというのは間違いということではなく、人目を気にせず、やりたいことをやりたいようにやればいいということです。でもその時は必ず全力でやってください。失敗してもやり直せますから。
取材日:2019年10月28日 ライター:久世 薫 写真:橋本 直貴 ムービー:遠藤 究