撮影をしながら 見たことのないもの 見つけていないものを 探すタイプの監督だと思う
- Vol.67
- 映画監督 加藤直輝(Naoki Kato)氏
加藤直輝監督第1作『アブラクサスの祭り』完成。
この原作を映画化しようと考えた動機は?
躁鬱病のお坊さんが、内面から湧き上がるロックへの衝動に従って突っ走る。そんな主人公の魅力的なキャラクターに心打たれ、ぜひ映画化したいと考えるようになりました。
映画化に際しては、監督自ら原作者と折衝したとか。苦労も多かったのでは?
そうですね、たとえば最後のライブシーンなどは、脚本化にあたって設定を原作から大きく変えました。玄侑宗久さんにそれを承諾してもらうには、けっこうな時間と説得が必要でした。
たとえばその点に合意が形成されなければ、映画化を諦めることもありえた?
そう思います。原作は言葉で、映画は映像と音響で物語るものなので設定の変更は必然です。今回のように結末まで大きく変わることもあります。映画「化」ではなく映画「版」なのだというところで最終的に納得していただけました。
その意気込みの甲斐はあったと思いますよ。あのライブシーンは、とてもよかったです。
ありがとうございます。この映画のクライマックスは、本物のミュージシャンによる本物の演奏が不可欠と思っていました。一発OKで、素晴らしい演奏を披露してくれたと思います。
演奏ももちろんですが、物語全般にわたって、主演であるスネオヘアーさんが素晴らしかったですね。
僕もそう思います。スネオヘアーさんなしでは、成立しなかった映画だと言っていいでしょう。手前味噌になりますが、僕の知る限り、2010年の日本映画で一番の主演俳優と思います。撮影の現場でも、スクリーン上でも、素晴らしい存在感を見せてくれています。
主人公が「困ったやつだけど、憎めない」人物であることの 描写には、力を注ぐべきだと考えました。
たとえば作品中、要所、要所で主人公の後ろ姿、というより後頭部にカメラが寄っていくのが印象的です。
内面に複雑なものを抱えている主人公の心象風景を観る人に感じてもらいたいと思い、意識的に多用した演出です。後ろ姿って表情が見えないので、逆にいろいろなことを感じたり考えることができますよね。
この作品の素晴らしいのは、このようなテーマで、このような主人公で(笑)、約2時間(113分)を長いと感じさせない点と思います。主人公はモンモンとしていますが、周りを微笑ましいエピソードや人々が囲んでいるのが、その秘訣と感じました。
脚色するにあたって、その点はかなり練りました。原作は、本当に深くて重いお話ですからね。主人公が「困ったやつだけど、憎めない」人物であることの描写には、力を注ぐべきだと考えました。ただ、それも、やり過ぎて下町人情もののようになってはいけないし、したくないと考え、慎重にバランスをとったつもりです。
なるほど。僕は、周囲が心に病を持った主人公を自然に受け入れていることに観終わった後に気づき、感銘を受けました。それは加藤さんの演出が、的を射ていたからなのだとも思います。
そう言っていただけると、嬉しいですね。僕は原作の中にあった、「それも結局その人の人柄なんじゃない?」という病気への考え方を語った言葉にとても共感をおぼえ、なんとか表現してみたいと思っていましたから。この言葉は、現実の鬱病患者や患者を身近に持った人たちにとっての何かしらのヒントになると思うのです。
では、そういう境遇の人にはぜひ観てもらいたい作品ですね。
作品中これといった答えを示しているわけではありませんが、観ればヒントのようなものを感じ取ってもらうことは、かならずできると思います。
作品が時代を映していたとしたら、 つくり手としてはそんな嬉しいことはありません。
もうひとつ自分自身に驚いたことがあって、それは、鬱病の僧侶がロックをやっているという設定に全然驚かなかったこと(笑)。うん、そういう人が主人公かと自然に物語りに入っていけた。一昔前なら、その設定だけでかなり事件だったし、驚いたり拒絶したりがあったと思うんです。そうしなかった自分に驚いたし、そういう時代なのだと思いました。
作品が時代を映していたとしたら、つくり手としてはそんな嬉しいことはありません。映画というものは、そうあってほしいと思います。
全編福島県でのロケですね。撮影時期と期間は?
昨年の11月から12月にかけて、3週間ほどです。
とても丁寧につくりこまれたシーンがたくさんあって、見ごたえありました。
夜の街中での撮影などもあったのですが、地元の方々が全面協力してくださって、納得のいく撮影ができました。
プロダクションノートによれば、現場でいろいろな確認をし、必要とあれば柔軟に変えながらの撮影だったとか。
そうですね、僕は自分の中にあるイメージを形にするといったタイプではなく、撮影をしながら、まだ見たことのないもの、見つけていないものを探すタイプの監督だと思います。
では最後に、読者の皆さんに加藤さんからのエールをお願いします。
読者の皆さんの中には、ひとりでつくる作業に取り組んでいらっしゃる方も多いと思うのですが、僕は、映画に監督としてたずさわっていて、映画はひとりでは何もできない世界です。ですから、僕自身に、たくさんの人を巻き込む力がなくてはなりません。 その時大事なのは、つくるものやテーマに対して、何を見ているかだと思うのです。映画は生身の現実をカメラに切り撮る作業であり、つくり手がその時代を、その社会をどう見ているかが如実に反映されるもの。自分のまわりをどう見るかを常に考え、それを信じてつづけていくことが人を動かすことになり、作品づくりにつながる。僕はそう信じています。皆さんの活動分野はさまざまと思いますが、自分の視線を持つことの大切さは分野を問わないと思います。
取材日:2010年11月17日
Profile of 加藤直輝
1980年、東京都出身。 立教大学文学部フランス文学科卒業、05年に東京藝術大学大学院映像研究科の監督領域の第一期生(6名)となり黒沢清、北野武らに学ぶ。 修了制作である『A Bao A Qu』(07)は、第12回釜山国際映画祭のコンペ部門“New Currents”に出品されたのをはじめ、その他ドイツやオーストラリアなど世界の映画祭で上映された。