これだけは撮らずに死ぬわけには いかないと思っていました
- Vol.47
- 映画監督 若松孝二(Koji Wakamatsu)氏
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』DVD 2月27日リリース!
2008年、若松孝二監督作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が公開され、多くの映画ファンを熱狂させました。この作品は久しぶりの監督作品というのみならず、若松さんが私財を投じて撮りあげた渾身の作であり、1970年代最大の事件「あさま山荘事件」および「連合赤軍リンチ殺人事件」を描いた問題作でもある。『「日本」を撃つ!』とのキャッチフレーズ通り、あの時代にこんな事件があったこと、こんな若者たちが日本を変えようと真剣に考え、行動していたことを、真摯な姿勢でもう一度世に問う重厚な作品です。ベルリン映画祭、東京国際映画祭などで数々の賞を受賞した『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が、いよいよDVDでリリースされます。
興味本位では、映画にできないテーマ。 だから僕が、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った。
若松さんがこのテーマに取り組むことは、多くのファンが待っていたと思います。
他にもこの作品を扱った映画はありましたが、正直「こんなんじゃいけない」と思っていた。中には、興味本位に扱っているものもあり、腹立たしかった。 僕だってもっと早くやりたかったですよ。だけど、映画は金がかかる(笑)。資金集めに時間がかかったんです。いろんな人に「どんなところに苦労しましたか」と聞かれますが、いつも「お金です」と答えています(笑)。
聞くところによると、かなり私財を投じたとか。
この自宅兼事務所は抵当に入っていますし、宮城県にあった別荘はあさま山荘のシーンに使って、本当に壊してしまった(笑)。
この作品は、そこまでしてでも撮りたかった?
死んでも、死にきれない。これだけは、撮らずに死ぬわけにはいかないと思っていました。今さら、こんなテーマの映画、たぶんヒットなんかしないだろう。でも、死ぬときに「ああ、いい仕事ができたな」と思えれば本望だ。そんな気持ちで取り組みました。
資金は調達したとはいえ、やはり低予算での製作になったようですね。
かなり、低予算です。
とは思えない、迫力の映像、美しい映像が目白押しでした。
多くの関係者が、「若松監督には映画の神様がついている」と言ってくれる。僕も、「そうかもしれない」と思うくらい、撮影はうまくいきました。まったく雪の降らない冬で、どうなるんだろうと思っていると、撮影日だけぴったりと吹雪いてくれたり。もちろん、多くの関係者の努力あってこそのものですが、神がかりを感じたことは何度もありました。
大体、役者さんの「ノリ」がすごいじゃないですか。それは、スクリーンを通してちゃんとわかる。
連合赤軍メンバーの役者たちには、役になりきることを求めましたし、彼らもそうしてくれましたからね。撮影で山に入るときは、実際に山に入る装備だけできてもらった。撮影中の生活の身のまわりは全部自分でやってもらったし、なりきるために風呂に入らない役者もいました。
訴えられるリスクがあるのはわかっている。 それでも、この物語は、実名で描かなければ意味がない。
役者さんは、ほとんどオーディションで選出したそうですね。
私が知っている役者は、佐野史郎くらいなものですね。あとは、全部オーディション。ARATAとか、坂井真紀とか、ぜんぜん知らない(笑)。オーディションスタッフが「おい、坂井真紀が来ているよ」と騒いでいるから、「なんだ、有名な子なのか」と聞いたほどです。 そういう条件を出していたので当然ですが、会場にはノーメークで、マネージャーなしでやってきていました。
森恒夫役の地曳豪さんが、すごい存在感で演じていましたね。
彼の演説のシーンでは、僕は、わざとセリフが終わってもカットを言わない。そうすると、彼は、その先も即興でどんどんセリフをつづけます。そして、どんどんテンションが上がっていく。ヒトラーやムッソリーニが演説で自己陶酔したような状況を狙った演出をしました。
そうか、そうやって役になりきる、役が乗り移るような演出をしていったのですね。
出演者全員が、乗り移っていた感じですね。
この、圧倒的な迫力、リアリティは、やはり若松孝二ならではの作品世界と思います。
たぶん、要因として大きいのは、すべて実名であることでしょう。名前を変えてつくらなければ、どこから訴えられるかわからないという意見もありました。でも、そんなことは承知の上でこうした。この物語は、実名で描かれなければ意味がないと確信したからです。
陰惨なシーンも多いのですが、気にならなかったな。
仲間殺しのシーンですね。実は、この映画では、一連のリンチのシーンで一切血を出していないんです。殴る、刺すというアクションだけで十分に残酷だから、不要だと判断しました。
最後のあさま山荘の場面では、内部で、実はうちわもめのようなことがあったことなども描かれている。あの辺、若松さんならではだと思わされました。
あのエピソードは、後に中東に脱出した板東國男(実行犯)から直接聞いたものです。
次回作は、もう脚本があがっている。 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の次作なので、 大変だとは覚悟しています(笑)。
若松さんは、以前、インタビューで「褒められようという考えで映画をつくるやつは、バカだ。自分は、当てようと考えて映画をつくる」とおっしゃっています。
ところが今回は、まったくそれはなかった(笑)。本当に、こんな映画はヒットするはずないと思ってつくっていました。とにかく、伝えなければならない。その一心です。
後世に伝えたい、残したいという気持ちですか?
そうですね。ただ、「そんなこと、お前にしてもらわなくても俺はわかっている」という全共闘世代のオヤジたちもいる。僕は、だから、「てめえらのためにつくってるんじゃねえ」と言っています。今の若者たちに、次の世代に向かって、あの時代、いったい何が起こっていたのかを説明したかったんだと。
考えてみれば、3時間を超える映画ですからね(3時間10分)。本気でヒットだけ狙ったら、もっと短くしますよね。
そこも、覚悟の上ですね。普通の映画館では、1日に3回しか回せませんからね。まあ、大ヒットは無理です。
でも、結局ヒットしたわけですよね。
テアトル新宿では、「では4週で」ということで上映が始まったのですが、結局10週のロングランになりました。
まあ、観ればわかるんですが。ヒットして当然だと。若松孝二の演出が、切れまくっていたと思う。
そうですか。僕の方にそういう感触はないんですが。これは、実録で、実際にあったことを映像に焼き付けただけの作品ですからね。僕の過去の作品は総じて短いものばかりだから、3時間10分はみんな驚くだろうとは思っていましたけどね。 だからね、今思うのは、次が大変だということです(笑)。こういう大作撮った後は、いろんな意味で大変です。
次回作の予定は?
江戸川乱歩の『芋虫』。脚本は、もうできあがっています。4~5月にクランクインする予定です。
取材日:2009年1月7日
Profile of 若松孝二
1936年4月 宮城県遠田郡涌谷町生まれ 農業高校二年時中退、家出し上京 職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働き、投獄などを経験し「出所したら警官を殺す映画を作ってやる」と考えた事が映画監督となる動機であった。 1963年 ピンク映画「甘い罪」で映画監督としてデビュー 1965年 若松プロダクション設立 映画監督・プロデューサーとして活躍 2007年8月 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」 湯布院映画祭「特別試写作品」として上映 2007年10月 第20回東京国際映画祭 「日本映画・ある視点 作品賞」受賞 2008年2月 第58回ベルリン国際映画祭 最優秀アジア映画賞(NETPAC賞) 国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞
【主な監督作品】 •壁の中の秘事(1965) •処女ゲバゲバ(1969) •ゆけゆけ二度目の処女(1969) •赤軍-PFLP・世界戦争宣言(1971) •私は濡れている(1971) •キスより簡単(1989) •Endress Waltz エンドレス・ワルツ(1995) •飛ぶは天国、もぐるが地獄(1999) •完全なる飼育 赤い殺意(2004) •17歳の風景 少年は何を見たのか(2005) •実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2008)
【主なプロデュース作品】 •荒野のダッチワイフ(1967) •女学生ゲリラ(1969) •夜にほほよせ(1973) •愛のコリーダ(1976) •戒厳令の夜(1980) •赤い帽子の女(1982) •鍵(1983)
【主な著書】 •俺は手を汚す(ダゲレオ出版) •時効なし。(ワイズ出版)