一生懸命に熱中出来ているだけで、 夢は叶っているのかもしれません。

Vol.80
映画タイトルデザイナー 赤松陽構造(Hikozo Akamatsu)氏
 
かつては黒木和雄、今村昌平といった社会派の巨匠監督、現在でも北野武、黒澤清、阪本順治、長澤雅彦といった名だたる監督から信頼を得、日本の映画タイトルデザインの第一人者として活躍している赤松陽構造氏。先日は、長年映画界に貢献し続けてきた功績が称えられて毎日映画コンクール特別賞受賞。過去には黒澤明、淀川長治、森繁久彌、勝新太郎などそうそうたる人物が選ばれた栄誉ある賞だが、存命で選ばれたのは赤松氏が初になる。一見、強面で近寄り難い風貌。しかし穏やかで子供に優しく語りかけるような口調に、歩んできた人生の奥深さが垣間見える。そんな映画界の第一人者に自らの人生を振り返ってもらうと同時に、仕事観や人生観について語ってもらった。

作品全体にほんの少し味付けをするスパイスのような役目。

まず、「映画のタイトルデザイン」という仕事や役割について解説してください。

(映画の題字は)よく『額縁だ』と表現する人もいますが、それは少し違う気がします。うまく説明出来ませんが、例えば食事をする時、ちょっとしたスパイスを入れますよね。みなさんが映画を観る時、最初に出てくるタイトルによって作品の印象は少し変わる。そういう役割かなと思います。

 

大切にしている事はなんですか?

2001年「 ウォーターボーイズ 」 矢口史靖 監督作品 製作会社アルタミラピクチャーズ

2001年「 ウォーターボーイズ 」
矢口史靖 監督作品
製作会社アルタミラピクチャーズ

作品を自分の中でどれだけ消化して理解できるかに尽きます。わたしの仕事は、作品のオープニングやエンディングを文字で表現する事ですが、制作する前に、自分の中で、作品全体をどう抽象化できるかが重要です。私の映画に関わる行程の中で、もちろん台本は読みますし、監督とも話をするしプロデューサーとも話し合います。でも一番大切なのは、やはり、ラッシュをしっかり観ること。この映画の本質は何か、何を伝えたいのかを見極める。逆に言うと、これは少々失礼な話になってしまいますが『何が少し欠けているのか』ということが自分の中で理解した上で制作するよう心がけています。メインタイトルに限った話で言えば、極論すれば、メロドラマなのに東映の筆書きみたいなタイトルが出てきたら観客は作品の内容を勘違いしてしまいますよね。そんな極端な間違いはあり得ないとしても、その辺りのニュアンスを捉える事は、この仕事をする上で重要です。 わたしが関わった仕事で一例をあげれば『ウォーターボーイズ』という作品では、矢口史靖監督は泡の出方から文字の微妙な揺れまでものすごくタイトルに凝りました。最後のクレジットでも行進してくる人と名前の文字をシンクロさせたり。その作品が持つ本来の内容に少し味付けをしてあげる事で観客が作品に入り込みやすくする。なので、あえてタイトル文字を匂いも何もない無機質なものにする場合もあります。

最初は食べてゆくために就いた仕事

タイトルデザインをするようになったそもそものきっかけは何ですか?

大学を二年で中退して、その半年後にタイトルデザインの会社を経営していた父親が他界しました。それを引き継ぐ形で始めたので、私にとってはふってわいたような話しでした。不安なんて生易しいものじゃありませんでしたよ。4人いたスタッフも、私が引き継いで半年後にはいなくなりました。まずは出来る事から始めようと、ベテランの方に手伝ってもらいながら、少しは知識のあったタイトルの撮影から始めました。母親がいて仕事も何もなくて、当時の私がフリーでやったって2人分の生活費なんて稼げないじゃないですか。徐々に助けてくださる方が現れて持ち直していきましたけど・・・。当初は食べる分を稼ぐだけで必死でした。

仕事が軌道に乗るまでにはどのくらいかかりましたか?

21歳でスタートして5年ぐらいですね。それまでは2週間に一度だけ帰って風呂入る。それ以外は事務所で寝て・・・みたいな生活です。当時はインスタントラーメンが流通し始めた頃でしたが、1箱買ってきて毎日事務所で作って食べていました。時々、卵を買ってきて入れるのが唯一の贅沢でした。お風呂には入れないので、流しで頭を洗って・・・。でも今にして思えば、それがすごく楽しかったんですよね、多分。若い仲間もいて彼らと一緒に必死になって食べるために働いて。当時は世の中全体もそんな感じでしたから。

影響を受けた作品を教えてください。

中学校の同級生4人で、新宿ミラノ座に『ウエストサイド・ストーリー』(1961年、米映画)を観に行ったんです。その時に観たタイトル・バックデザインが凄く印象的で、未だに覚えているんです。『ソウル・バス』というアメリカの著名なグラフィックデザイナーで、映画界のタイトルデザインとしても第一線の方が制作したものでした。ひょっとしたら、この仕事に就いた理由のひとつは、あの時の記憶が潜在的に残っていたのかもしれません。

1987年「 ゆきゆきて神軍 」 原 一男 監督作品 製作会社:疾走プロダクション

1987年「 ゆきゆきて神軍 」
原 一男 監督作品
製作会社:疾走プロダクション

手がけた筆字のメインタイトルが初めて映画で採用されたのは仕事を始めて17年目、39歳の時。昭和天皇パチンコ狙撃事件や皇室ポルノビラ事件など過激な行動で知られる奥崎謙三の姿を描いたドキュメンタリー映画、『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督)。異色のドキュメンタリー映画ながら数多くの映画賞を受賞し、海外でも高い評価を得、赤松氏もこれをきっかけにして、映画界で活躍の場を増やしていった。

 

著名監督と仕事が出来た事より、多くの映画人との出会いが何よりの財産。

印象に残っている監督は誰ですか?

監督はみな印象深いんですけど(笑)。なぜかと言えば、これはこの仕事を始めてからずっと大切に思っている事ですけど、私はタイトルデザインの仕事を年に10本以上、つまり多くの作品と関わります。でも監督は自分の作品を年に一本撮れるかどうか、中には一生に一本しか作品を撮れない監督もいます。だから、どんな監督でも大切にしなければ、全力でサポートしなければという気持ちは絶対に忘れてはならない。その上で印象深いというか、尊敬しているのは小林正樹監督と黒木和雄監督です。あと、ひとりというわけではなく、私がこの仕事始めたのは1970年からなんですけど、当時、ATG映画でメガフォンを握っていた熱のある若手監督の方々、井筒和幸、長崎俊一、森田芳光、崔洋一、若松孝二さんたち。そうした方々との出会いが物凄く面白かったですね。

北野武監督とは、北野監督のデビュー当時から一緒にお仕事をされています。どんな監督でしょうか?

北野 武 監督作品/製作会社:オフィス北野

北野 武 監督作品
製作会社:オフィス北野

一言で言えば『天才』ですね。最初にそう感じたのは『キッズ・リターン』の時でした。あのタイトルの出し方は北野監督のアイデアでした。二人乗りをした自転車が地下に潜って、出てきたら主人公ふたりの立場が入れ変わってしまっている。あの発想には驚かされました。その後、『あの夏、いちばん静かな海』も印象深かったですね。ラッシュを観た時、『メインタイトルはどこに入れるのだろうか』と思って見たわけです。『これ、出すところないよな』と思い、ラッシュを観終わってから北野監督に質問したんです。『メインタイトルはどこに出すのですか』と。そうしたら『いちばん最後だ』と。あの時はタイトルのデザインを専門にしている人間として、素直に「負けた!」と思いました。サーファーと耳の聞こえない女の子の話で、サーファーが死んで、その女の子が、彼が死んだ海辺に行くのがラストシーン。そこに『あの夏、いちばん静かな海』というメインタイトルが出る。完全に負けました。

「便利になる」という事は、一方で「失うものもある」という事を忘れない。

今年は、毎日映画コンクールで特別賞も受賞しました。これからの目標や夢を聞かせてください。

映像業界の多分に漏れず、映画界もいまや完全にデジタル化してきています。でも我々の育ってきたのは、やり直しの効かない世界なんです。じつにアナログなやり方で特殊効果をしたり映像も作ってきました。いまならボタンひとつで、コンマ何秒かで出来てしまうような映像処理の作業を、わたしの時代はそれこそ、まる一日かけて準備をして作業していました。だから絶対に失敗は許されなかったんですね。いまならパソコンを使えば、映像処理だってすぐやり直せますよね。やり直しが効くという事は非常に便利な事である代わりに失うものもある。その『失うものがあるんだよ』という事を伝えるのが、我々の世代の役目かなと思っています。

無駄に思えるような作業の中でこそさまざまな発想が浮かんでくるし、物事を深く考えられる。

赤松さん仕事場のペン立て

赤松さん仕事場のペン立て

今はリテイクも簡単じゃないですか。昔は、例えばひとつのグラデーションを作るのに、マスクやエアブラシを使って手作業で作業して、失敗すればまたマスクを作り直し……なんて感じでした。わたしが映画の世界が好きな理由のひとつに『やり直しの効かない世界だから』というのがありました。50人から60人、多い時は100人以上のスタッフが集まってワンカットを撮影します。そうすると、そのための準備も物凄く大変な訳です。『よーいっ! スタート!』と始まったのに『失敗したので、もう一回やります』となると大事なわけです。 でもいまさら『おまえ、コンピューターなんて失うものが多いからやめろよ、鉛筆にしろよ』と言っても無理ですよね。若い人たちに一番伝えるべき事は、『やり直しの効かないことがある』という大切さ、その一瞬にかける情熱や集中力の部分。作業自体は、やはり効率が良いに越した事はないですよね。

旧き良き時代のアナログの良さと最先端の技術を上手く調和していけるのが一番理想。

そのために自分は何したらいいか・・・。いまはそれを絶えず考えています。多分それは、私がデジタルを覚えなきゃいけないんです。若い人に無理やりアナログなやり方を覚えろと言っても無理です。じゃあそれをどう伝えて行けるかなと考えて・・・。で、一生懸命に考えて気づいたのは、『逆に私がデジタルな方法を覚えて理解して、その上でアナログの良さを伝えるできだ』と。だから、みんなビックリするんですけれど、わたしは結構、コンピューターも使えるんですよ。(笑)

仕事の面白さは、本気で続けてゆく過程の中で見つかるはず。

このインタビューを読むのは若いクリエイター志望の方や映像業界に転職を希望している方が多いのですが、そうした方々に何かメッセージが頂けたらと思います。

いま自分が与えられている環境に対して、100%以上の力を出して欲しいですね。いま目の前にある仕事が自分に向いている向いてないに拘らず、もちろんギャラにも拘らず、120%の力を出して欲しいですね。なぜかと言えば、そうでなければ、いま現在していることが本当に自分に向いているか向いてないかさえ分からないからです。100%以上の力を出し切って仕事をして、その上で別に行こうが続けようが、それはそれでいいと思います。でも80%の力で辞めたりしている限りにおいては、いつまで経っても、本当に自分が何をやりたいかはわからないままだと思います。私自身は、結果的にたまたまひとつの仕事場で済んでいますけど、別の仕事に進もうと考えた事もあります。なぜいまもタイトルデザインの仕事を続けているかと言えば、絶えず120%の力でやり続けることで見えてきたものがあったからだと思います。

最初から向いている仕事なんて実はない。

スポーツ選手とは違うと思うんです。小さい頃からサッカーが得意だとか、そういう人生を生きる人も確かにいます。でもわたしが生きている世界は、スポーツとは違います。続けて行く過程の中で、本当に好きだと実感できるようになる事が多い気がします。

夢を語るのは簡単だ。しかし自分の夢と本気で向き合い本気で努力できる人は、いったいどれだけいるだろうか。赤松氏がいまの立場を築けたのは間違いなく、その〝本気さ〟が誰よりも強かったからに他ならない。取材をして感じたのは「出来ない事の理由や諦めてしまった事の言い訳を探す時間があるならば、好きとか嫌いとかは関係なく、まずは目の前にある事と必死に向き合わなければ駄目」という事。静かに優しく語り続ける赤松氏の言葉に、自らの現在の状況も踏まえつつそう感じた。最後に、氏の話したこんな言葉を紹介して原稿を閉じたい。

「夢中とは『何かひとつの事を一生懸命にやる』という意味ですよね。なので、一生懸命に熱中出来ているだけで、夢は叶っているのかもしれません。僕もいまの仕事は悩んだり、迷ったりしながら、徐々に好きになっていった感じですから。」

取材日:2012年2月29日

赤松陽構造さん

Profile of 赤松陽構造(あかまつ・ひこぞう)

1948年、東京都中野区出身。日本大学芸術学部映画学科中退。日本アカデミー賞協会会員。日本タイポグラフィ協会会員。日本映画テレビ技術協会会員。第66回毎日映画コンクール特別賞受賞。『キッズリターン』、『HANA‐BI』など北野武監督作品はじめ、『ウォーターボーイズ』で知られる矢口史靖監督作品など、これまで800以上の作品と監督に携わる。最近では『ロボジー』(矢口史靖監督。2012年1月公開)、『テルマエ・ロマエ』(武内英樹監督。2012年4月公開予定)でタイトルデザインを手がけている。

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