テレビ業界の仕事と子育てが両立できる時代へ。テレビ大阪報道部でママディレクターとして活躍中。
1976年、大分県大分市出身。3人の子育てに奮闘するかたわら、テレビ大阪株式会社の報道部ディレクターとしても活躍される西澤美貴子さん。かつてはNHK大分放送局のテレビキャスターとして活躍されたご経験をお持ちです。結婚、転居、出産というライフイベントを乗り越えながらも、放送業界でのキャリアを積み重ねてこられた理由とは。学生時代やNHK大分放送局でのエピソード、そして”リポートができるディレクター”としてマルチな才能を発揮される大阪での仕事ぶりについてお聞きしました。
友だちの卒業文集が夢を抱くきっかけに
いつ頃から、放送業界にあこがれを持っていましたか?
はっきりと意識するようになったのは、小学6年生の時です。友だちが卒業文集に「アナウンサーになりたい」と書いており、それを見た時に大きな衝撃を受けました。好きなことを仕事にしたいとは思っていましたが「そういう選択肢があったのか。面白そう!」と目が覚めるような思いでした。
昔から人前で話すのは得意でしたか?
私は、おばの影響で6歳から民謡を習っており、よくご近所の老人ホームで披露していました。そういう経験もあって、人前で歌ったり、話したりするのは好きだったと思います。中学校に入ってからは、お昼の放送を流す放送委員に。「声がいいね」と先生に褒めていただいて、アナウンスの楽しさを実感していきました。
夢が具体的になってきたのはいつでしょうか?
いよいよ大学進学が見えてきた時に、放送を学べる大阪芸術大学と大阪芸術短期大学(旧・浪速短期大学)の存在を知りました。母は「大阪まで出して放送業界に就職できなかったら」と不安だったようですが、私は「大阪に行きたい」の一念で。大阪という街にも興味があったのです。念願の大阪芸術短期大学に合格した時は本当にうれしかったですね。意気揚々と大分を飛び出しました。
初めての大阪はいかがでしたか?
とにかく楽しいことばかりでした。周りの友だちは「ディレクターになりたい」「照明に行きたい」と本気で放送業界を志している人ばかりですし、学校には本格的なスタジオやアナウンスブースがあり、美術学科が制作した造形物もあちこちで目にするクリエイティブな環境でした。
さらに放課後も、阪神タイガースの応援から、だんじり祭り、五山の送り火まで関西の観光名所はほとんど回ったと思います。勉強も遊びもフル回転。2年間はあっという間に過ぎていきました。
学生時代で印象に残っている作品について教えてください。
卒業制作では、カメラマン、編集、ディレクターを希望する仲間たちとグループを組んで、螺鈿師を取材した10分ほどの特集番組を制作しました。兵庫県丹波市山南町まで取材・撮影に行ったり、皆で構成を考えたり。私はナレーションを担当。皆で楽しく制作した思い出の作品です。当時の仲間とは今でも連絡を取り合っていますし、放送業界で活躍しているメンバーもいます。
卒業後は大分へ。楽しかった大阪に残らなかった理由とは?
1年生の時から奈良県出身の主人とお付き合いを続けており、いずれ結婚すれば大阪に住むことになるだろうと思っていました。ならば、結婚までの間は大分に帰ろうと決めたのです。主人は2つ年上で4年制大学の大学生。彼も同じタイミングで卒業して横浜での就職が決まっていましたので、横浜と大分の遠距離生活をスタートしました。
地元で念願のキャスターとしてデビュー
そして地元の大分へ。どんな仕事をされましたか?
最初は、西日本後楽園という観光地施設に入社しました。自社番組の制作に携わりたいと期待しましたが、残念ながらレストランに配属。やりたいことができないまま半年が過ぎた頃、職場の仲間が「NHK大分放送局でキャスターを募集している」と教えてくれたのです。今ならすぐにインターネットで検索しますが、当時はまだ普及していなかったので、応募期間や応募方法を調べるために何本もテレビ番組を録画して、ようやく応募へ。
キャスター3名、送出スタッフ1名の狭き門だったので、採用の連絡を受けた時は飛び上がって喜びました。すぐに西日本後楽園を退社し、NHK大分放送局での人生をスタートしました。
念願の放送業界での人生をスタートされたのですね。いかがでしたか?
「放送に関わることなら何でも覚えたい」と前のめりで吸収していきました。最初に任せていただいたのは『ひるまえスタジオおおいた』の送出スタッフ。午前中はスタジオで働き、午後はキャスターに同行して取材・撮影・編集をサポートする業務です。カメラマンに撮り方を教わったり、編集マンに編集のテクニックを教わったり、キャスター研修も受けさせていただきました。表舞台と裏方の仕事をしっかり叩き込まれた2年間でした。
そして3年目には念願のキャスターに?
2年間の下積みを経て、『ひるまえスタジオおおいた』と『天気予報』のキャスターをお任せいただきました。午前中はスタジオ、午後は地域の取材・撮影・編集とスケジュールは変わりませんが、当時はメイクも衣装も自分持ち。自分の見せ方についても考えるようになりました。
やがて、夕方5時台の番組『ゆうどき5おおいた』もお任せいただき、キャスターとしてスタジオ進行を務めたり、リポーターとして各地へ取材に出向いたりするように。早朝のラジオ番組のふるさとリポーター、紀行番組『西日本の旅』も担当させていただき、キャスター・リポーターとして成長を実感できた時代です。
印象に残っている仕事についてお聞かせください。
ある年配の画家さんのことをよく覚えています。その方は、取材させていただいた方のお父様で、終活として絵を片付けていらっしゃるとのことでした。私にも大分の海を描いた青い絵画をくださり、ぜひスタジオでお話をお聞きしたいと打診したところ、「最期だから」とスタジオ出演、そしてロビーでの個展を快諾くださいました。その方は放送を終えて数年後に他界されてしまったそうです。人生で最期のテレビ出演、人生で最期の個展に寄り添えたことが心に残っていますし、いただいた絵画は今でも大切に飾っています。
たくさんの方に愛され、充実したキャリアを離れたきっかけとは?
6年間の遠距離恋愛を実らせて、結婚することになりました。ちょうど私自身も「自分のやりたかったことをやり尽くせた。違う仕事にチャレンジしてみるよい機会かもしれない」と思っていました。そう思うようになったのは、ベテランアナウンサーが不在で、新人アナウンサーも私もまったく話せないという最悪な1日がきっかけ。アナウンス部の上司にきつくダメ出しをされて、自分はキャスターに向いていないのかもしれない、と適性を見つめ直していたのです。主人も横浜から長野への転勤が決まるという人生の節目を迎えて、長野についていくことにしました。
焦る気持ちを抑えて、7年間子育てに専念
長野でも制作会社に入社されていますね。
今度はキャスターではなく、ディレクターとして番組作りをしてみようと、大分のハローワークで会社を決めました。入社してすぐにテレビ信州『ヤングネット信州』とSBC信越放送『エコロジー最前線』が決定。ふだんは自社でイベント関係の制作に携わり、月に数回はテレビ局に出向いてディレクター業を学ぶ毎日を送っていました。 ところが2年目を迎えようとした頃に第1子を妊娠。引き留めていただきましたが、自宅から職場までは車で1時間半の長距離でしたので、子育てとの両立は難しく退社を決めました。
仕事を離れてみていかがでしたか?
早く仕事がしたいと痛切に感じました。デジタル放送に切り替わった時代で、自分だけが乗り遅れてしまう焦りもあったのかもしれません。「子どもが1番だから。仕事を再開したくなったら紹介するよ」という知人の言葉を心の支えに、いつか子育ての知識の役立つ時が必ずくると信じて、子育てに専念しようと決めました。そして、5年の間に3人の男の子を出産。子育てをしながらも、幼稚園のVTRを作ったり、パソコンの編集ソフトを触ってみたり、できるだけ現場の感覚を忘れないようには心がけていました。
初めてお仕事に復帰されたのはいつでしたか?
3人目が2歳の頃です。まだ手のかかる時期でしたが、3人目を出産した頃から私はたびたび落ち込むようになっていたのです。子育てに疲れていたのかもしれません。移住した当初から今まで感じたことのないような暮らしにくさを感じており、限界を迎えていました。
それで、主人がお休みの土日限定で単発のお仕事を受けるようになったのです。その1つが、テレビ信州『24時間テレビ』のフロアディレクター。朝5時から夜9時までという1日限りのお仕事でしたが、とてもいい息抜きになりました。
2014年に大阪へと戻られていますね?
主人の転勤が決まり、大阪へと戻ることになりました。大阪には短大時代の友だちが全員いますし、私の大好きな場所。うれしくてうれしくて「やったー!」と喜びました。 大阪に戻るとすぐ友だちに連絡して、自分にできる仕事はないかと仕事探しをスタート。当初は都合がつかず断念しましたが、3人目が小学校に上がった2年後にはNHK大阪放送局『ぐるっと関西おひるまえ』『ごごナマおいしい金曜日』などの番組で現場に復帰しました。子どもが学校から帰ってくる前に帰宅できる、週2~3回の午前中のみという働き方のおかげで、ゆっくりと現場の感覚を取り戻すことができました。
大好きな大阪で大好きな仕事がしたい
現在はどんなお仕事をされていますか?
テレビ大阪の夕方番組『やさしいニュース』で、スタジオのフロアディレクターやニュース取材、原稿作成などを担当してます。先日はヘリコプターからの取材・撮影もお任せいただきました。雨で延期になっていた取材に、代打で行かせていただいたのです。世界遺産に登録された百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)をリポートしたこの仕事が社内で評判となり、今、色んな仕事にも挑戦させていただいています。
素晴らしいですね。そこにママ目線も生かせていますか?
ママディレクターがいない環境なので、主婦としての意見を求められることは少なくありません。ママ友や子どもの感想が役立つこともありますし、女性目線や主婦目線の企画が少しずつ増えていけばうれしいですね。 帰宅時間が遅くならないように配慮してくださっていますし、学校行事がある時にはお休みもいただけています。周囲の理解があってこその両立だと感謝しています。少し遅くなった時には中学3年生になった長男がチャーハンを作って弟たちに食べさせてくれていたり、ニュースに興味を持ったり。子どもの成長が見られたことも喜びの1つです。
大阪と地方の違いを感じるのはどんなところでしょう?
規模の大きさとプロ意識の高さです。大阪は2府4県がフィールドですから取材のネタがとても豊富。各県に個性があるのでバラエティに富んだ情報をお伝えできます。そして、大阪の番組には全国区で活躍している方が出演されていますから、おのずとプロ意識も高くなるもの。「いいものを作りたい」という情熱と厳しさを感じています。
ローカルにはやりたいことをのびのびとできる魅力がありますが、上をめざしてスキルを磨きたいと思ったら、プロ意識の高い環境の方が成長できるかもしれません。
自分らしく働くために今も学び続ける
テレビ大阪
西澤さんにとって大阪の魅力とは?
大阪の魅力は「人」だと思います。大阪の人は裏表がないので気兼ねなく付き合えますし、親切な方も多いのではないでしょうか。仕事を始めたばかりの時に、ママ友が「預かるよ、子ども」と声をかけてくださって。どうしても抜けられない仕事の用事があったので、本当に助かりました。他の地方を経験したからこそ、私には大阪が合うと実感しています。
今後の⽬標について教えてください。
主人は数年おきに異動がある転勤族ですから、どこに行っても仕事ができるようにノンリニア編集のスキルを身につけたいと日々勉強しています。また、子どもが大きくなれば、働ける時間も増えてくるはず。長野時代にNARD JAPAN アロマテラピーアドバイザーの資格を取得したので、将来的には動画編集もアロマテラピーアドバイザーも並行して取り組めたら、と夢を描いています。
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取材日:2019年7月18日 コピーライター:葉月蓮