イベント運営スタッフから第一線映像クリエイターへ。すべての経験は自らの夢の実現の糧になる
イベントの企画・運営を経て、映像クリエイターの道をまい進している丹羽大輔(にわ だいすけ) さん。大手企業のイベントのオープニング映像をはじめ、CGを駆使した映像制作の第一線での実績は20年以上に及ぶ。
フリーランスに転身した2009年はリーマンショックの年。逆風にさらされながらも、すでに10年余り(映像クリエイターとしての)実績を積み重ねてきた。変化の激しい世界でクライアントから支持され続ける理由はどこにあるのか、その足跡や仕事への姿勢などを伺いながらクリエイターとしての魅力を探る。
映像の世界に入る前はイベント制作会社で企画・運営に携わっていた時代も
映像クリエイターになるまでの経緯をお話し願います。
父が三菱電機のエンジニアを務めていた影響もあって、子供の頃からパソコンになじんでいました。大学で情報処理を学んだ後、新卒でシステム開発会社に就職したのです。
1年で退職されていますね。
勤めてみて 、プログラミングという作業が自分には合わないと分かりました(笑)。映像制作の仕事でもプログラミングが関係することはありますが、デザインや映像を制作するうえで視覚的な「感覚値」を大切にしてきたいと思ったのです。
もともと、映像やデザインにも興味はあったんですか?
映画監督を志していた時期もありましたから。システム会社での経験を通じて、得手不得手がはっきりしました。
退職後、イベント制作会社に転職しましたね。
映像の仕事をしたいと思って、友人に相談したら、テレビ局と仕事のつながりのあるイベント会社に紹介してもらえて、うまく就職できたんです。でも、実際にはテレビ局の手掛けるイベント事業を仕切っている会社でした(笑)。それでも、イベントの仕事自体は面白かったので、数年間はさまざまな大規模イベントの企画・運営に携われました。
その後、映像制作会社の共同経営者として、映像の世界へと進むことに。
社長が、僕がデザインや映像を作りたいと思っていることを理解してくださっていて、新たに映像部門としてCG制作会社を立ち上げたとき、共同経営者に指名してくれたんです。企業のコンベンションやイベントのオープニング映像やファッションショーの映像など、CG制作のディレクション役として、若手スタッフとともに、さまざまな案件を手掛けました。
フリーランスになった翌月にリーマンショック。荒波の中で身に付けた新たなスキル
独立なさったのはいつですか?
2009年、40歳でした。すでに数千万単位の仕事を何度も受けていましたから、十分やっていけると思っていたんですが……。フリーランスになった翌月にリーマンショックが起こって、仕事がほとんど飛んで、目算が狂ってしまいました。
現在のコロナ禍のような状況ですよね。
それで 、とにかく「今は生活レベルを下げてでも耐えるしかない」と考え、それまでは受けていなかった新規分野にも乗り出しました。
どのような仕事ですか?
ブライダル映像です。正直なところCG制作と比べると単価は低いのですが、仕事を選べる状況ではありませんでしたから。内容は結婚式の様子を撮影して、エンドロールに流す映像を作る。「撮り編」といって、その場で撮影から編集まで仕上げることもありました。
単価を下げてでも仕事のジャンルを広げてよかったですか?
フリーランスとして仕事をしていくうえで、自分に“足りないもの”が多いというのは感じていました。CG制作会社では主にディレクションを担当していたので、CGの現場作業は少なかったんです。ただ「全部自分でできるようにしないと」と思って、After Effectsなどのアプリケーションの使い方をはじめ、イチから必死で勉強し直しましたね。
撮影も手掛けるようになったんですよね。
撮影も 以前の職場ではカメラマンに外注していましたが、もともと興味のあった世界でしたから、「自分が撮りたい画(え)は自分が一番分かっている。それなら自分で撮ろう」と。本当に、フリーランスになってから何でも自分で手掛けるようになりましたね。
先の見えない状況で、それだけ前を向けて行けた理由は何だったんでしょう。
自分が好きなことに取り組むというのが、大前提としてあったんだと思います。だから、それまでと違う技術を身に付ける努力が苦になることは、ありませんでした。勉強するというよりも、新しい技術や知識を理解していきたいという欲求が強かったですね。
特定の技術を 深く追究するのも大切ですが、深みにはまってしまうこともあります。僕はそれよりもスキルの拡大を重視しました。アプリケーションでも、単体でできることは限られてしまいます。違うアプリケーションと連携できると、ワークフローもスムーズに組み立てられるようになる。今でもマスターしたいと思っているアプリケーションは数多くありますよ。
イベント運営側で得た経験が、オープニング映像の制作に生かされる
リーマンショックの荒波にもまれながらもスキルを磨いて、独立後も企業コンベンションやイベントのオープニング映像制作などの、幅広い案件を手がけてきている丹羽さんですが、基本的な仕事の流れを教えてもらえますか。
企業クライアントの案件は制作会社経由で受けることが多いので、まずは制作会社との打ち合わせになります。CG制作は予算によってかけられる工程数が変わってきますから、金額設定からスタートですね。
金額が決まったら、今度はプランを提案していくわけですね。
予算が十分に確保されていれば、デザイン編集ソフトで作成した絵コンテやラフ絵で作品の流れを伝えます。それでなかなか理解してもらえない場合は、手描きの簡単なイラストで動画に仕上げて把握してもらいます。
発注側から事前に具体的なイメージ共有はないのですか?
具体案を提示してもらえるケースの方がまれですね。ヒアリングを行ったうえで、こちらが主導する形でイメージを膨らませて提案することになります。
その際にはどのようなことを意識しているんでしょう。
テーマはもちろんですが、カラーイメージを把握しておくことですね。そのうえで、トレンドを意識した提案を行います。例えば、高級感を志向するのか、ポップなイメージで打ち出すのかによって全体の雰囲気が変わってきますから。デザインのトーン&マナーをしっかり把握して共有しておくことも大切ですね。そこがズレると、クライアントのご要望に響かないものになってしまいます。
イメージを膨らませて説得力のある提案を行えるのは、豊富な経験があってこそだと思いますが、丹羽さんがクライアントから選ばれ続ける理由はどこにあると思いますか?
僕には、イベントディレクターとして、イベントを作る仕事をしていた経験があります。それが大きいでしょうね。
例えば、 ファッションショーを自分がプランニングしたときにどういう映像が欲しいか、主催者側の視点で考えながら提案できるのは強みになります。
ご自身の経験を基に語れる人は、依頼する側にとって貴重な存在ですよね。
珍しい経歴だとよく言われます(笑)。映像に関わるつもりで入社したのに、イベント事業に回されてしまった形だったんですが、結果的には映像制作にその経験が生きているのですからね。
ホームタウン名古屋は“大きな田舎”。“ウチ社会”でのコミュニケーションが武器になる
独立後もご出身の名古屋を拠点に仕事を続けておられますが、拠点を東京に移そうと思ったことはなかったんですか?
そういうお声をかけていただいだことはあります。ですが、やはりホームタウンである名古屋で仕事をしていきたいという思いが強かったですね。イベント業界でのつながりも名古屋が中心ですし。
名古屋の魅力をどこに感じますか?
一言で言えば、“大きな田舎”という感じでしょうか。都会ではあるんですが、東京や大阪、福岡といった大都市とはまた違う、地元出身者同士のつながりが感じられます。“ウチ社会”ならではのコミュニケーションの濃さは、仕事の場面でも生かされていると思いますね。
名古屋を拠点に、今後も仕事の幅を広げていけそうですか?
今はネットを介して仕事先とつながれる時代です。私自身、ネットからの引き合いで仕事を受けることもありますし。自分の好きな場所で暮らしながら仕事を続けていける環境が整ってきていますよね。
ひと昔前は チームを組んで作らなければいけなかった作品を、今は一個人ですべて作れる。これは大きな魅力ですし、撮影スキルがなくても、CGを駆使すれば人物も空間も作り出して、1本の映画のような作品が生み出せる。そのときに場所は問わないですよね。
動画クリエイターならではの醍醐味(だいごみ)ですね。
自分で撮影した映像を使って実写のストーリー作品を作るのも楽しい仕事ですし、映像作りは奥深い世界だと思います。今は発信の場も増えていますし、“自己表現”のツールとしても可能性は広がり続けていますよね。長年この仕事を続けていますが、いまだに全く飽きることのない世界です。
YouTube やTumblrでもCG制作のスキル発信をされていますね。バイタリティの高さに脱帽です。今後の活躍を楽しみにしています。ありがとうございました。
取材日:2020年6月1日 ライター:宮澤 裕司
※オンラインにて取材
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