ゲーム2018.02.21

高い技術を引っさげ、縁もゆかりもない沖縄へ。沖縄のIT技術の向上を目指すプログラマー

沖縄
プログラマー 大浦 義弘氏
プロフィール
1975年埼玉県生まれ。プログラマーとしてのキャリアは約22年。東京の専門学校でプログラミング技術を学び、卒業後は様々な会社で数多くのアプリやシステム開発、ゲーム制作に携わり、2013年に沖縄へ移住。現在はフリーランスプログラマーとして、東京や沖縄のアプリやシステム開発に携わっている。
今回インタビューさせていただいたのは、沖縄でフリープログラマーとして活躍する大浦義弘(おおうらよしひろ)さん。東京の第一線でアプリやシステム開発、ゲーム制作に携わり、技術と経験を積んでこられた大浦さんが、縁もゆかりもない沖縄に移住したのは約5年前。安定した東京での生活を捨ててなぜIターンしたのか、その理由や、プログラマーとしての沖縄での抱負などを伺いました。

ゲーム作りに憧れて。キャリアをスタート

大浦さんがプログラマーを志したきっかけはなんですか?

ゲーム作りをしたいと思ったことがきっかけです。私はファミコン世代。テレビゲームと共に育った最初の世代と言っても過言ではありません。ゲームを作るにはプログラミングを学ぶ必要があると思い、高校卒業後、専門学校へ進学しました。当時はウィンドウズ95が発売され、従来のプログラムと、黒船に乗ってやってきた新しい技術が交錯していた時代。IT化の波にタイミングよく乗り、PC、ガラケー、スマフォまで、進歩と一緒に階段を登ってきました。

最初からゲーム制作に関わるお仕事に携われたのでしょうか?

それが違うのです。専門学校を卒業したらすぐにゲームの会社に就職したかったのですが、先生に「まずは普通の会社に勤めたほうがいい」と言われ、ソフトウェアやカーナビ開発をしている会社に入社しました。その会社を含めて、7年ほどゲーム制作とは関係ない職場で働いていました。

その後、ゲーム制作の会社に転職されていますね。

そうです。2004年頃、ちょうどプレステ2(PlayStation 2)などの新しいゲーム機が出た頃で、まさに社会のIT化のど真ん中。今は新しいゲームを開発するのに莫大な費用がかかる時代ですが、当時は自分たちで1から作る楽しさや夢がありました。いい時期にゲーム制作の世界に入れたと思います。

待望のゲーム制作に携わったのに2年ほどで退職され、またアプリ開発のお仕事に戻られていますが、それはなぜですか?

ゲーム制作には制限が多いのです。ディレクター兼プログラマーをしていたのですが、なかなか思い描くものが作れない。仕事であるが故のジレンマに悩まされていたのですが、巡り巡って、結局「自分は全部一人で作りたい」ということに気付いたのです。本当に好きなことは趣味としてやる方が良いと感じて、アプリ開発の方へ戻りました。

東京でのキャリアを捨て、沖縄へ。沖縄のシビアな現実と、豊かな暮らしを知る。

東京では、様々な会社で様々なプロジェクトを担い、順調にキャリアを積んでこられたように感じますが、なぜ沖縄へ移住したのですか?

寒いのが苦手で(笑)。3.11もあって、沖縄へ行きたいという気持ちがさらに強くなりました。幸い両親も元気ですし、家を離れても大丈夫そうだと。あと、もう一つの大きな理由は、東京での生活に「飽きた」ということです。

プログラマーとしての実績を重ねて技術にも自信が付き、就職には困らないレベルになれました。事実、引き抜きや知り合いの紹介などで転職してきたので、新卒以来一度も就職活動をしたことがありません。お金にも困らず、仲間にも恵まれ、たまに美味しい食事をしたり旅行に行ったり、充実した人生を送っていましたし、これからもそうだろうな、と。そんな平坦な人生がある時たまらなく退屈に感じたのです。しかし沖縄に行けば、何が起こるかわからない。と、人生に大きな変化を起こしたくなったのです。キャリアがあれば何とかなるだろうと思って移住したのですけど、それが大きな間違いでした(笑)。

何があったのですか?

なかなか就職できませんでした。知り合いがいない土地なので、ひとまず会社に所属して沖縄のIT状況を知りたかったし、基盤を作りたかったのですが、そもそも働き口が少ない。アプリ開発の会社はほとんどないし、あったとしても給与が低い。東京の半分ぐらいの給与だろうと覚悟はしていたのですが、それ以下という会社も多く、予想以上に就職に苦労しました。

しばらく就職活動をして何とかアプリ開発系の会社で働けることになり、4年ほど在籍しました。その間に知り合いが増え、基盤が整ったと感じたので、昨年8月からフリーに。今は東京や沖縄の会社からの依頼で、いろいろなアプリ開発に携わっています。

仕事の上で、東京と沖縄の違いはありますか?

沖縄は、良くも悪くもゆっくりだと感じます。ガツガツしていない分穏やかに仕事はできますが、技術はなかなか向上しません。精神的には、だいぶ楽になりました。東京では気づかないうちにストレスを貯めていんだと、離れてみて感じたのです。何かとストレスが多い東京で働く人の賃金が沖縄より高いのは、当然かもしれないと思うほど(笑)。東京で頻繁に飲みに行っていたのも、必要以上に買い物をしていたのも、ストレス発散のためだったのでしょうね。沖縄に来て収入は減りましたが、生活は豊かになった気がします。暇があれば海へ行ってシュノーケリングや散歩をしているので健康になりましたし、物欲は減ったし、いいことずくめです。

これからの目標は、沖縄のIT基盤を向上させること。

これから沖縄でしたいことは何ですか?

沖縄のITレベルの底上げです。「沖縄に発注すれば安い」という理由でウェブ系の下請けのような業務が、東京の会社から沖縄の技術者やIT関連会社によく発注がきますが、沖縄のITレベル向上を目指すのであれば、そのような仕事を請け負うのは止めた方がいいと思っています。ただしそのためには、まず若い技術者を育てる必要があります。私ができることは、彼らに技術を教えて、ある程度のレベルまで上達させ、東京でも戦える腕を身につけさせること。そして東京へ行って揉まれてから、沖縄にUターンして欲しいのです。そうすれば、自ずと沖縄のITレベルの底上げに繋がるはずです。

今後は協力会社へのコンサルティングなども予定していますし、教育という観点から、底上げに貢献したいと思っています。

もう一つ、沖縄のIT基盤を整える方法として取り組んでいきたいことは、フリーランスの方々との連携です。沖縄は狭いですし、さらにIT業界はもっと狭い。繋がった人を大事に、コネクションをどんどん繋げていくことで、発信力が出てくると考えています。

UターンIターンを希望するクリエイターに向けてメッセージをお願いします。

東京で仕事をやり尽くして「飽きた」と感じたら、UターンやIターンすることをおすすめします。なぜなら、東京でプログラマーをしている方が楽だからです。東京には仕事が豊富にありますし、お給料もある程度はもらえます。東京のレベルに飽きるほど仕事ができる人なら、どこへ行っても何とかなる。逆に、東京に未練がありながら沖縄に来られても、移住者全体の評価にも影響しますし、迷惑です。実はこの間も、沖縄に移住したいという後輩を一人追い返しました(笑)。

厳しいですね。でもそこまで沖縄のことを考えているのですね。

沖縄のためではありますが、引いては自分のためでもあります。高いレベルの人が沖縄へ来てIT業界がさらに発展すれば、いつか自分に還元されますから。私は埼玉出身ですが、今では沖縄の方へ強く地元愛を感じているほどです。だからこそ、東京で仕事を続ける自信がないという理由で、沖縄へ来て欲しくないのです。「沖縄のプログラマーは技術が高くてしっかり仕事をする」という状況を、作り上げていきたいと思っています。

取材日:2017年12月25日 ライター:仲濱淳

大浦 義弘(おおうら よしひろ)

1975年埼玉県生まれ。プログラマーとしてのキャリアは約22年。東京の専門学校でプログラミング技術を学び、卒業後は様々な会社で数多くのアプリやシステム開発、ゲーム制作に携わり、2013年に沖縄へ移住。アプリ制作を行う沖縄企業に約1年勤務したのち、独立。現在はフリーランスプログラマーとして、東京や沖縄のアプリやシステム開発に携わっている。

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