趣味を生かした営業ツールに宿る 普遍のモノづくり精神
- 名古屋
- 株式会社 オーディーエフ 代表取締役 大宮 正紀氏
絵の世界にいざなわれ、デザインの世界へ
デザインの仕事を始められたきっかけは何ですか?
とにかく「絵が描きたい」という思いが強かったです。当時は今のように就職や職業に関する情報も少なく、漠然と「絵の世界で仕事ができたら」と思っていました。
子ども時代から絵を描くことが好きだったのですか?
小学生の頃は、とても恥ずかしがり屋で、且つあがり症。誰とも話さず、ひたすら机に向かって絵を描いて過ごしました。高校時代はガンダムやスターウォーズなどアニメや映画のキャラクターを描いていました。生頼範義さんが描くスターウォーズの世界観に圧倒され、強い刺激を受けて自分でも真似して描いていました。
それなら美術の成績も良かったのでは?
確かに中学までは美術で5以外を取ったことはありませんでした。高校では、音楽と美術が選択科目で、第一から第三希望まで「美術」と書き通したのにも関わらず、何の手違いか、高校3年間「音楽」専攻になってしまいました。三年間くすぶっていた反動でより一層、絵を描きたくなったのかもしれません。その間も芸術系の大学に入学するためデッサン教室に通っていました。
デッサン教室ではどんなことを学ばれたのですか?
ビーナスなどの石膏像のデッサンと平面構成です。平面構成の課題で、講師から「ここの緊張した三角のバランスは何を表現しているのか」などと問われましたが、自分の思いが全く言葉にできませんでした。すると「自分の考え方が言えないなら、デザイナーの素質はない。辞めてしまえ」と言われました。
その言葉をどう受け止めましたか?
デザイナーは、必ずそれを作った意図、考え方、意味、趣旨を説明しなければならない。プレゼンテーション能力が必要だと痛感し、それから2年間、自分を変えようと必死で自分改革を始めました。
どんな自分改革をされたのですか?
第一志望の愛知県立芸術大学が大変な倍率で二次試験で落ちてしまい、短期芸術大学に入学しました。120人の定員に対し、男は15人くらい、周りは女性ばかりの環境でしたが、とにかく毎日違う女子大生に声をかけ、一緒に授業を受け、話をすることで、人見知りや話下手を払拭しました。周りからはちょっと変なやつと思われていたかもしれませんが、その経験があって、コミュニケーションがとれる人間になれたように思います。
卒業後は、就職されたのですか?
小さなデザイン会社に就職しました。勤務初日から家に帰れませんでしたね。
それはどうしてですか?
入社一週間目で、両面で300点の家具を掲載するB2チラシの作成を任されたのですが、当然ながら初めてでわからないことが多々ありました。しかしデザインができるのは自分以外には社長だけ、あとはコピーライターという会社だったので、自分で何とかするしかありません。なんとか、やり遂げようと、寝ずにやり続け、結局3日かかって仕上げました。
新人でありながら、丁寧に根気強くやり通される。そんな姿勢は社内でも評価が高かったのではないですか?
社長に認められたのか、入社1年目で取引先のリクルートブックの表紙デザインコンペを勧められ、応募してみたところ採用されたこともありました。
すばらしいですね。その実力を糧に独立されたのですか?
そういう訳ではありませんが、入社から1年半ほどで会社を辞めました。
辞めてからしばらくして、以前勤めていた会社で取引のあった広告代理店に勤める大学の先輩から連絡があり、直接、仕事の依頼をいただくようになりました。紳士服店ののぼりや垂れ幕、POPといった細々とした仕事をもらえるようになったのです。
不思議なことなのですが、仕事をもらえるようになってくると、勤めていた時の成果を高く評価してくれる会社とも出会うようになりました。
ただその頃にはすでに複数の会社から様々な納期で仕事を引き受けており、それらを責任をもってやり遂げたいという想いもあり、独立してやっていこうと決めました。
当時の仕事で思い出深い仕事やエピソードなどはありますか?
今では考えられませんが、スーツやジャケットのセールタグやDMなど、一つずつ手書きで制作していました。
仕事を依頼したいので打合せに来るように言われ、その場で仕事を仕上げたり、クライアントからの返事を待つため会社の近くで待機したりするような案件を多く経験しました。短納期の仕事を多く引き受けるうちに技術も磨かれ、信頼をしてくれたフリーランスの仕事仲間から別の会社を紹介され、本当にありがたいことに、仕事はどんどんと増えていきました。
苦労されながらもその後、会社を立ち上げられたのですね?
はい。1991年に有限会社大宮デザイン制作所として法人化し、2006年頃より従業員も15人を超えるようになって、2008年に有限会社から株式会社に社名を変え、株式会社オーディーエフとして、株式会社化し、ブランドも変えていきました。営業をI、II、III部に分け、ディレクションチーム、オペレーションチームを作り組織編成しました。ただ大所帯の欠点が浮き彫りになりました。
グラフィックの仕事がちょうどアナログの手作業からMacの時代への移行期で、仕事がガラッと変わりました。それに加えて、社員が増えて大所帯となったために、自分の知らないところで仕事の受注があり、知らぬ間に仕事が終わっているというようなことが出てきて、それでもその仕事は「大宮デザイン制作所」の仕事として世の中に出る。そこに自分の名前がつくことに、とても違和感がありました。
烏合の衆ではいけないと思い、組織のボトムアップを図り統率をとるため、会社としての器を整える必要がありました。社名を変え、個々のスキルアップを図り、社員の意識改革をしました。
ロードバイクの本を自費出版されているそうですが、なぜ趣味の本を出版されたのですか?
名古屋発のデザイン専門雑誌『Something』に1998年の創刊当時から参加していましたが、惜しまれながらVol.14をもって休刊しました。これにより、オーディーエフの実力を広く示す場がなくなってしまったわけです。社名変更とともに会社がブラッシュアップした情報が対外的に発信できていないという課題も合わさり、人が減ると同時に仕事も減ってしまいました。そこで「オーディーエフはここまでできる」ということをアピールするツールが必要でした。そこでふとロードバイクの趣味を使って、会社の営業ツールを作ろうと考えました。
ロードバイクの本を営業ツールにするとは、面白いアイデアですね。
私たちはデザインで人の心をつかみ、集客を図ることで、顧客の課題を解決する会社です。そこに知恵をしぼらずして、ただ走り回り、営業トークをしているのでは芸がありません。
ロードバイクの本を見せれば、クライアントもみな一瞬で目の色を変えます。「何これ?」と手にとってくれます。明らかに反応がよかったです。目先を変えたアイデアで、人の興味を惹きつける。そのアイデアやユーモアも含めてデザイン会社としての実力を感じてもらえたらと思っています。
ロードバイクの本を3冊自費出版されて、何か会社に変化はありましたか?
サイクルショップから新店舗をオープンするにあたり、ブランディングを依頼され、ショップのロゴを始め、トータルなデザインに関わりました。ホームページの作成も手がけ、今では定期的に情報の更新もしています。また、名古屋競輪場で行われた世界選手権のポスターの依頼が来ました。
仕事と趣味が一緒になる苦しみはありませんか?
ノルマがないから、苦痛にはなりませんね。もし本をたくさん売らなければならないとなると、ジレンマが生じるのかもしれませんね。
名古屋の広告業界で30年仕事をされてきて、思うことはありますか?
今この業界の仕事のやり方は正直、厳しいなと思います。インターネットが発達したことにより、時間の短縮が図られてスムーズになりましたが、逆にやみくもに時間ばかり使って無駄なやりとりをしているように感じる時もあります。人と人とが顔を向き合わせてのやりとりが少なくなって、広告という「コミュニケーションツール」を作っているのにコミュニケーションが希薄になってしまっているような気もします。 計画的に動かすことによって無駄がなくなるし、きちんと打合わせすることによって意思の疎通が図れると思います。 今のままでは、この業界に魅力を感じてくれる次世代の子達がいなくなってしまいます。広告制作は「楽しいこと」「面白いこと」「やりがいのあること」を広め、夢のある業界にしていくことが必要です。
私たちオーディーエフは、今後も人々に求められる限りこだわりのある広告制作に、一層総力を尽くして取り組んでいきます。
取材日: 2016年12月24日 ライター: 望月佑香
株式会社 オーディーエフ
代表者名(よみがな):大宮正紀(おおみや まさのり)
設立年月:1991年 3月1日
資本金:450万円
事業内容:広告制作(広告企画、グラフィックデザイン、Webデザイン)
所在地:〒461-0004 愛知県名古屋市東区葵一丁目4番34号 双栄ビル5階
URL: http://odfjapan.com/
お問い合わせ先:052-931-7398