デザインという考え方で、生まれ育った関西の人や街を元気にしたい!
- 大阪
- グラフィックデザイナー 清水 友人 氏
- Profile
- 1976年滋賀県生まれ。30歳でデザインをスタート。33歳で独立・上京し、自ら顧客を開拓。有名アーティストのCDジャケットなどを手がけた。35歳で大阪へ。グラフィックデザイン事務所「360」の代表として企画・制作に携わるほか、「メビック扇町」のコーディネーターやデザイン専門学校の講師など幅広く活躍している。
30歳でデザイン業界に入り、33歳で見知らぬ街・東京へ
これまでのキャリアについて教えてください。
大阪のデザイン系専門学校を卒業した後、デザイン事務所や大手印刷会社で経験を積み、33歳で独立して上京。グラフィックデザイン事務所を立ち上げ、360度の視点で問題を解決するという意味で「360」と名付けました。有名アーティストのCDジャケットなど音楽系を中心にデザインを行っていました。その後、東日本大震災を機に、大阪に戻って「360」として引き続き活動を続けています。
グラフィックデザイナーをめざした理由を教えてください。
実は、私がデザインの仕事をスタートしたのは30歳と少し遅めなんです。高校卒業後は地元の会社に就職し、CDやビデオなどを店頭販売していました。私は昔から計算が苦手で、このまま苦手な分野で戦っても先がないと思い始めた矢先、父から「会社を手伝ってくれ」と懇願されて転職することにしました。しかし今度は、父親との戦いが待っていました。帰る場所が同じですから、仕事で意見が食い違うと家の中もギクシャクして……家族と仕事をするのは想像以上に大変でした。精神的に追い込まれ体調も崩し始めて「このままではダメになってしまう。自分には他に何ができるだろう」と考えるようになりました。小学校の頃から5教科も体育も不得意。しかし、美術だけは滋賀県のコンテストなどで受賞するほど得意だったのです。28歳という年齢を考えると最後のチャンス。人生を変える思いで、デザイン系専門学校の夜間クラスへの入学を決意しました。
28歳からの挑戦に不安はありましたか︖
不安はいっさい感じませんでした。18歳のクラスメートとはスタートラインが違いますから「彼らと同じようにやっていてはいけない。人の3倍はやろう」と心に決めていました。ですから課題も練習も人の3倍取り組みましたし、インターネットを駆使してプロのグラフィックデザイナーを探してはコンタクトを取り、現場ではどんな仕事をしているのかなど、お聞きしていました。当時の私は、自分が社会でどのくらい通用するのか、現場でどんなスキルが求められているのかが気になって仕方なかったのです。学校の成績ではなく、プロとして認められるスキルかどうかが自分の基準。専門学校にいる間にできる限りのことはしておきたいと貪欲にデザインと向き合っていました。そんな自分を支えてくれたのが先輩方の一人、現在の妻だったのです。
卒業後に東京へ行かれたそうですが、東京でのお仕事について教えてください。
東京には知り合いもおらず、仕事もない状態で飛び込みました。そんな時に当時付き合っていた妻が一緒について行くと言ってくれたので、上京と同時に籍を入れました。仕事がまだ少ない状態での結婚ですから、今考えると恐ろしい話ですよね(笑)。しかし当時は「もし仕事がなかったら探すしかない」という勢いでしたし、<国内の最先端>に触れたい、東京で自分を試したいという思いが強くて。広告代理店に営業をかけたり、インターネットを通じて自分の仕事をPRしたり、一所懸命に行動していたある日、ある音楽事務所の担当者が注目してくださったんです。
この時初めて<行動力>が功を奏することがあるんだなと、心から感じましたね。その方との出会いによって、仕事のフィールドがぐんと広がっていきました。手がけたのはヒップホップ系のCDジャケット制作から、店舗POP制作、有名アーティストの案件、放送局の案件、大手出版会社の案件など。その方が転職してステップアップするたびに、案件の規模が大きくなっていったのです。学生の頃に、お世話になった母校の先輩に音楽関係の仕事についている方が多く、憧れを感じていましたので、CDジャケットを担当できたのはうれしかったですね。また、東京発信の仕事は影響力が強いのが魅力。自分の制作したCDジャケットが東京のタワーレコードの棚に陳列されているのを見た時は本当に感動しました。
「人の役に立ちたい」。東日本大震災を通して進むべき道が見えた。
関西に戻ることになったきっかけを教えてください。
東京での仕事はとても楽しかったのですが、一方で「本当に人の役に立てているのだろうか」と疑問を抱くようになっていきました。確かに日本全国の方に見てもらえる大きな仕事を手がけて成果を実感していましたが、「やったー︕」というよりも「目標に達しただけ」と静かに状況を見ている自分もいたのです。大きな仕事をしたいという夢が叶ったからこそ「仕事の大小ではなく、人の役に立っているかどうかが大事」と思えるようになったのかもしれません。
そんな時に東日本大震災に遭いました。その夜、真っ暗な中をたくさんの人が一方向に向かって歩いていく姿、まるで戦争中のような壮絶な光景は今でも目に焼き付いています。翌日、新幹線が止まる前に妻を連れて関西行きに飛び乗りました。車窓を眺めながら「このまま東京で死んでいいのか」「関西で生まれ育った意味は」など、ありとあらゆることが頭を駆け巡りましたね。直後に妻の両親が体調を崩したことも重なり、「そろそろ関西に戻れ、ということかな」と感じて東京を離れることにしたのです。
大阪でのお仕事について教えてください。
デザインの企画・制作はもちろん、デザイン専門学校の非常勤講師や、クリエイター支援施設「メビック扇町」のクリエイティブコーディネーターなどもさせていただいています。 大阪に帰ってきてからは、メビック扇町との出会いによってネットワークが広がりました。そもそものきっかけは大阪での新たな活動にあたり、メビック主催のイベントに出店者として参加したことでしたが、後日所長とお会いした時に私の名前を覚えていてくださり、クリエイターとクリエイター。一般企業とクリエイターをつなぐコーディネーターをお任せいただけることになりました。 東京から戻ってきた当時はほぼゼロからのスタートでしたが、この出会いによって一気に人脈が広がりましたし、お仕事のチャンスも増えました。最近では関西各地から「商品のPR企画」や「人を呼び込む企画」をご相談いただいたり、すばらしい経験をさせていただいています。
大阪で印象に残っているお仕事について教えてください。
女性のストリートミュージシャンからCDジャケットのデザイン制作を依頼されたことがありました。 まだ売れていないアーティストですから、決して大きい仕事ではありません。一般的にはCDジャケットのデザインを渡して終了だと思うのですが、私は「デザイン戦略から行うべきだ」と考えました。道端にたくさんのストリートミュージシャンが並ぶ中で、彼女を覚えてもらうことがいちばん大切なこと。そこで私は「衣装をはじめ、活動に関して色を使うところはすべてオレンジ色だけを使うように」とアドバイスしました。オレンジ色は夜でも人目につきやすく、元気な印象も与えるビタミンカラー。CDジャケットから衣装までオレンジ色で統一し、写真はあえて目を隠して違和感を演出するなどブランディングさせていただきました。 現在、彼女は東京で活躍しています。ただ単に依頼された内容をこなすだけでなく、消費者に行動を起こさせるブランディングから取り組み、最終的に人の役に立つことが「360」の大切にしていることです。
東京と大阪の違いについて教えてください。
妻も私も「ホッする」というのが共通の意見です。振り返ってみると、東京ではいつも戦闘態勢で夜もしっかり眠れていなかったのかもしれません。空気が違うせいか、今ではぐっすり眠れるようになりました。戻ってきた当時は堀江に住んでいたのですが、子どもができてからは鶴見区に移りました。近くに大きな鶴見緑地公園があって、小学校や中学校も目と鼻の先。大阪市内でいろいろ見て回ったのですが、「子どもがこの公園で遊び、あの小学校や中学校に入学するんだな」と育っていく姿をリアルに想像できたのがこの場所でしたね。 そして東京との大きな違いは物価がものすごく安いこと。「うどん190円」の看板を見た時は、ここなら生きていけるなと思いましたね(笑)。大阪は商売人の街ですから、ビジネスでは仕事と関係のない話をしたり、用事がないのにふらりと遊びにきたり、というコミュニケーションがとても大事。東京は合理的なので必要なやり取りだけでお金をポンと支払ってくれますが、大阪は駆け引きありき。ビジネスの難易度は高いかもしれません。
仕事をする上でのポリシーを教えてください。
「人の役に立ちなさい」ということですね。これはある著名なアートディレクターの方から教えていただいた言葉です。専門学校時代に、大阪芸術大学で第一線で活躍するアートディレクターを招いた1DAYの講義のイベントが行われて、私は学校の授業を休んで大学にもぐりこみました。当時、就職活動を進めていた私は学歴の壁を感じていました。大手広告代理店の受験資格を見た時に、「大学卒業」でなければ受ける資格すらないことを私は初めて知りました。大学生なんかに負けていられないという思いもありました。
その日開講されていた3つの講義の終了後、アドバイス会が開かれ、私は年配のアートディレクターの方に勇気を振り絞り、こんな機会は早々ないと思った私は自分の悩みを打ち明けることにしました。「自分は専門学校に通っているが、専門学生は大手の代理店には入れないのですか」するとその方は驚きもせずに「私も高校しか出ていないよ」とおっしゃったのです。そして「人の役に立ちなさい。人の役に立ったら周りが放っておかなくなるから」と続けました。そのシンプルな答えがストンと心に響いて、私はその日以来、この言葉を実現するべく仕事を進めているのです。
目標は地元に恩返し。自分の心にウソをつかず納得できる生き方を。
今後の目標について教えてください。
いつか生まれ育った滋賀県長浜市に恩返しをしたいと思っています。27歳までずっと自分を育ててくれた街ですから、今度は自分が返す番。物産のデザインなのか、街づくりのブランディングなのか、その時に何ができるのかはわかりませんが、死ぬまでにお役に立てたらうれしいです。
Uターン、Iターンを考えている方にメッセージをお願いいたします。
人間どこでも生きられるよ、と伝えたいですね。派手なものに惑わされず、場所に左右されず、志を持って進んでいけば満足できる生き方にたどり着く、と。東京に未練がないといったらウソになりますが、東京に飛び出したことも大阪に戻ってきたことも、ぜんぶ自分で納得してやっていること。幸せですし、楽しいです。
先がわかってしまう生き方より、挑戦し続ける生き方がしたい……。
住み慣れた街でもあえて道をぐねぐねと曲がって迷子になるのが好きで、人生でも将来が見えてしまうのはあまり好きではありません。
仕事の大小やお金など人によって優先順位はそれぞれだと思いますが、私は死ぬときに笑って死ねるように、自分にウソをつかない生き方をしていきたいと思っています。
取材日:2017年6月16日 ライター:鹿野牧子
清水友人(しみずともひと)
1976年滋賀県生まれ。グラフィックデザイン事務所「360」代表、メビック扇町コーディネーター、デザイン専門学校非常勤講師。30歳からデザインをスタート。33歳で東京に出て独立し、有名アーティストのCDジャケットのデザインなどを手がける。東日本大震災をきっかけに大阪へと戻りデザイン指導から、ブランディングやデザイン、クリエイターのコーディネートなど、「人の役に立つ」をキーワードに幅広く携わっている。