パズル雑誌の表紙イラストは350冊を突破。駆け出し時代の“酷評”をバネに成功を掴んだ独学のイラストレーター
- 名古屋
- イラストレーター 服部 ユーイチ 氏
- Profile
- 高校を卒業後、会社勤めをしながら独学でイラストレーターの道を歩む。2005年よりパズル雑誌の表紙イラストを描き始め、現在までに約350冊の表紙を手がけている。名古屋コミュニケーションアート専門学校非常勤講師。
就職するまで絵を描くことには興味がありませんでした
デザインの専門学校には通わず、独学でイラストレーターの道を歩んできたんですね。
高校を出て就職するまでまったく絵に興味はなかったんです。普通に会社勤めをしていました。
そこから絵を描くようになったきっかけは?
上司が特徴のある顔をしていて(笑)、面白半分に似顔絵を描いてみたら周りの人たちにすごくウケて、それから同僚の似顔絵を次々と描いていったんです。初めて自分の生み出したものが認められたのがすごく嬉しくて、それがきっかけで絵を描くことに興味を持つようになりました。
イラストレーターになろうと思ったのはいつからですか?
会社勤めをしながら地元の美術展のデザイン部門に応募していたんですが、3年連続受賞したことで自信がついて、イラストで稼げるようになれたらと思うようになったんです。でも、どうすればイラストの仕事ができるのかわからない。それで、地元の印刷会社に作品を持って行ったところ……。全然話になりませんでした(笑)。人を描いても右手と左手の長さが違っていたりして。デッサンの基礎から勉強しなさいと言われました。
専門学校で基礎から学んだ方がいいと。
そこは悩みました。入社して5年経ち、仕事も任されるようになってきた時期でしたから。今まで積み上げてきたものを捨ててまで専門学校へ行くべきかどうか。結局、そこまで思い切ることはできずに、“二足のわらじ”で行くことにしました。
仕事を続けながらイラストの勉強をしていこうと。
毎日、仕事から帰ってきたら机に向かって延々と絵を描く生活を続けました。そのくらい時間をかけないと、専門学校で学んできた人たちには勝てないと思って。どうすればイラストでおカネを稼ぐことができるようになれるのかを考え、色々なタッチの絵を描けるように、自分の中に一杯引き出しを作っておくことを心がけました。
イラストレーターとして認められるまで7年間、作品を持ち込み続けた
初めてイラストで報酬を得たのはどういう仕事でしたか?
地元の求人広告情報誌のカットの仕事でした。1点800円から1,300円くらい(笑)。それでも、自分の描いた絵が印刷物になるというのは嬉しかったですね。その後、東京のイラストレーターのエージェンシー(代理店)に自信作を30点描き溜めて持って行ったんですが……。最初に地元の印刷会社に持ち込んだときと一緒です。全然話にならないと言われました(笑)。自信作を30点ともダメ出しされて、すごく悔しかったです。
それでもあきらめなかったんですね。
採用されるとファイルに自分の作品を入れて事務所に置いてもらえるんです。絶対にこのファイルを手に入れてやろうと決めて、最初に持ち込んでから7年間、毎年、新しい作品を持って行きました。
7年間もですか。何度断られ続けてもあきらめずにトライし続けたんですね。
持って行った作品へのアドバイスをしてくれるんです。その意見を参考に、作品に磨きをかけ続けました。それで7年目、やっとファイルがもらえることになって。涙が出るほど嬉しかったですね。
エージェンシー(代理店)に認められたことで、どのような変化が生まれましたか?
初めて東京から来た仕事は教科書に掲載するカットだったんです。予算が少ないけれどお願いできますかと言われて、普段が1カット1,000円程度でしたからもっと安いのかと思ったら、10数点で16万円ですと(笑)今までの仕事との落差に驚きました。
たった一度のチャンスを掴んでパズル雑誌の表紙イラストを手がけることに
パズル雑誌の表紙を描くようになったのは、どういう経緯だったんでしょう。
東京からの仕事を受けるようになってからも、まだ自分の絵の方向性が定まっていなかったんです。どこに活路を見出せばいいのかと。そんなときに書店でパズル雑誌の表紙を目にして、これこそが自分が目指すべきところなんじゃないかと。
どこが目に留まったんでしょう。
元々『ファミ通』(Gzブレイン)の表紙イラストを描いていた松下進さんの絵が好きだったんです。エアブラシを使った立体的なタッチで、自分も松下さんのようなイラストが描きたいと思っていたところ、パズル雑誌の表紙がそういう志向にピッタリだったんです。それで、出版社に持ち込みに行ったんですが、ここでも門前払いばかりで。
表紙のイラストに採用されるというのはハードルが高いですよね。
雑誌の顔ですから。実績のある人でなければ描かせてもらえない。何社持ち込んでも断られ続けて、さすがにあきらめかけていたんですが、そんなときに偶然、エージェンシー(代理店)からパズル雑誌の表紙コンペの依頼が来たんです。
エージェンシー(代理店)にもパズル雑誌の希望は伝えていたんですか?
そういった希望は伝えていませんでした。これも運命なのかなと。数人の作品の中から決定するということでした。このチャンスを逃したらパズル雑誌の表紙を描く機会は二度と得られないだろうと思い、自分の考えうる限り“最高の作品”を仕上げて出したら、それが見事に通って、表紙イラストを継続して描いていけることになったんです。
チャンスを掴んだんですね。
その雑誌は創刊後1年経っても売れ行きが振るわず、リニューアルのための表紙コンペでした。僕のイラストが表紙になってから売れ行きは上がり出したんですが、それでもいつ休刊するかわからない状態が続いて……。あのとき休刊になっていたら今の自分はなかったと思います。
雑誌が続いたことで他社からの依頼も増えてきたんですね。
最初の雑誌では今では考えられないくらい時間をかけて制作していました。ラフを2案送って編集部に選んでもらって、毎回“最高の作品”を納得できるまで仕上げて送っていました。それを見た他の出版社からも依頼が来るようになって、一度に5社から仕事を受けて、年間12冊の表紙を描いていたこともあります。
そうして積み上げた実績が、350冊の表紙になるんですね。
8年目の挑戦で掴んだ年末ジャンボ宝くじのイラストレーターという称号
キャリアの中でも最も華々しい経歴は2010年年末ジャンボ宝くじのイラストだと思いますが、これはどういう流れだったんでしょう。
これもエージェンシー(代理店)からのコンペの依頼です。30人くらいのイラストレーターから作品を募って、その中から選ばれます。最終候補は3案まで絞られるんですが、7年間で4度最終選考まで進んだのに、最後に落選の繰り返しで。
こちらも7年間、挑み続けていたんですか。
絶対にいつか採用されてみせると思い、毎回、自分の中では“最高の作品”と自負できる出来栄えの作品を提出していました。20年かけてでもやってやるぞと。依頼する側も毎回同じイラストレーターを選ぶわけではありません。“やる気”が感じられる作品でなければ、次回から声がかからなくなってしまいます。
そして、8年目にとうとう採用されたんですね。
毎回、最高のクオリティを目指して、細かいところまで作り込んで描いていたんです。採用された作品に負けていない自信はありました。それなのに最後の最後で選ばれない。どこが違うのかじっくりと考えてみたら、“パッと見の印象”が違うことに気づいたんです。細かいクオリティよりも、第一印象の雰囲気が大事なんだと。それで、少し肩の力を抜いて雰囲気重視で描いてみたら、それが採用された。選ぶ人の感覚に合わせられるようになったことが勝因だったと思います。
年末ジャンボ宝くじのイラストに採用されたことが、『かつなりくん』の仕事に結びついていくわけですね。
採用されたことを刈谷市長に報告しようということになって、お会いしたら「よくぞやってくれた」と非常に感激していただいて、刈谷ハイウェイオアシスでの個展にも来場してくれました。それから『刈谷わんさか祭り』のポスターを手がけるようになってさらに繋がりが深まり、刈谷城築城480年イベントのマスコットキャラクターを作って欲しいと依頼されたんです。
それが『かつなりくん』なんですね。
刈谷藩初代藩主の水野勝成がモチーフです。勇猛果敢な武将だったそうですが、そのままでは子どもたちに愛される存在にならないですよね。それで、可愛らしいキャラクターにして、刈谷市を象徴する花『カキツバタ』を兜にしました。自分が住んでいる街のキャラクターを描ける機会なんて滅多に得られるものではないですから、刈谷市に住んでいて良かったと思います。
キャリアの行き詰まりを打開するべく、新たな境地の開拓へ
イラストレーターとして目覚ましいキャリアを積み上げてきた服部さんですが、最近、新たな転機を迎えていると聞きました。
パズル雑誌の表紙を描き続けながら、年末ジャンボ宝くじのイラストに採用され、『かつなりくん』も手がけて順風満帆だったんですが、次に何を目指していけばいいのかが見えず、現状維持のような状態に陥ってモチベーションが上がらない時期があったんです。それで、新しいタッチの作品にチャレンジして、東京ビックサイトで開催された『クリエイターEXPO』に出展しました。
どのような作品を出展したんですか?
今までのパズル雑誌のイラストのテイストとは違う、パステル調の作品です。鳥瞰イラストにも力を入れました。
刈谷市青年会議所のFacebookコミュニティー『カリヤラバーズ』のポスターのような作品ですね。
青年会議所からポスターの依頼が来たときは鳥瞰図と決まっていたわけではなかったんです。もっと自分の住んでいる街を好きになってもらおうという想いを込めて、刈谷市のランドマークを散りばめた鳥瞰イラストにしました。
鳥瞰イラストを今後の柱のひとつにしていこうと。
新しい作品を打ち出して仕事を取っていこうという意欲が、年末ジャンボ宝くじのコンペ作品を描いていたときのハングリー精神を思い出させてくれました。一番キャリアが輝いていた時代の気持ちに戻りつつあるのを感じます。
“やめたら終わり”。あきらめずに続けていればいつか花開くと信じて
刈谷市在住のイラストレーターとして活躍されているわけですが、東京へ出ることは考えなかったんでしょうか?
東京に憧れはありましたが、地元で家を建てたいという夢もあり、刈谷から発信する道を選びました。東京へは何度もイラストを持って出向き、厳しい言葉も浴びながら勉強させてもらいました。そのとき感じた悔しさが、地元にいながらにして、全国誌の表紙を手がける原動力になったんだと思います。
何度断られても、落選が続いても挫けなかったんですね。
自信を砕かれて挫けそうになったことは何度もありましたが、何とか見返してやろうと。自分の夢はイラストでしか実現できませんから。チャンスを掴むための近道ってそう簡単には見つからないと思うんです。やはり、地道にやり続けていくしかない。続けていればいつか花開くときが来るだろうと信じて。 “やめたら終わり”ですからね。
やめなかったからこそ、今の自分があると。
さまざまな理由で地元から離れられない人も大勢いると思いますが、僕のように独学でやってきた人間でも、地元に腰を据えたままこれだけの仕事を手がけてこられた。あきらめずに続けていく気持ちさえあればチャンスは巡ってくると信じて、日々の仕事に向かっていくことが大切だと思います。
ありがとうございました。
取材日:2018年8月21日 ライター:宮澤裕司
服部ユーイチ/イラストレーター
愛知県刈谷市在住。高校を卒業後、会社勤めをしながら独学でイラストレーターの道を歩む。2005年よりパズル雑誌の表紙イラストを描き始め、現在までに約350冊の表紙を手がけている。2010年には年末ジャンボ宝くじのイラストに採用され、脚光を浴びる。刈谷市のマスコットキャラクター『かつなりくん』のデザインを手がけたり、刈谷市青年会議所のfacebookコミュニティ『カリヤラバース』のポスターを作成するなど、地元を舞台にした仕事でも活躍。名古屋コミュニケーションアート専門学校非常勤講師も務めている。