男優と女優に区別しないで、ベルリンが先導する映画界の新たな動き
今、世界の映画界で新たな動きとして注目されているのは、俳優を「男優」と「女優」に分けることを考え直そうという動きだ。カンヌ、ベネチアと並ぶ世界三大映画祭のひとつであるベルリン国際映画祭は既に昨年、今年2~3月開催の第71回ベルリン国際映画祭から従来の「男優賞」「女優賞」を廃止し、受賞者の区別を問わない「主演俳優賞」「助演俳優賞」を新設することを発表し、今年3月、史上初の主演俳優賞にSFコメディー映画『アイム・ユア・マン』で主演を務めたドイツ人のマレン・エッゲルトを選んでおり、「模索を始めた」などという段階ではなく、改革を実行に移していこうという最終段階にあることが分かる。
ただ現在開催中の第74回カンヌ国際映画祭や今年4月に開かれたアカデミー賞ではまだ男優、女優の区別はあり、この動きは始まったばかりと言っていい。しかし早晩、これらの映画祭や映画賞でも議論が持ち込まれることは想像に難くないし、やがてそれは日本の映画賞や地域ごとに行われている小さな規模の映画祭にも波及してくる可能性がある。いますぐに態度を決める必要があるわけではないが、映画関係者やクリエイター、一般の映画ファンも、ある程度の意見を固めるために、判断材料を集めておいた方が良いだろう。
生物学的な性別(sex)に対して、社会的・文化的につくられる性別がジェンダー(gender)。これは性差による差別を生むとして、「男らしさ」や「女らしさ」を押し付けることや、「男だからこれをやれ(やるな)」「女だからこれをやれ(やるな)」という決めつけをしないことなど改革の必要性が叫ばれてきた。
映画界でも賞を並べて表記する際に女優賞を男優賞よりも上位に置く傾向が強くなっており、一見改革が進んでいるようにも見えるが、「単にレディー・ファーストを装っているだけ」と批判する人もおり、そもそも「女性を先や上にしておけばいいという問題ではなく、俳優は俳優であって、男優や女優という区別をすること自体がおかしい」と考える人たちにとっては、現状は何ら改革の手が入っていないと受け取られているのだ。
しかもアカデミー賞の審査をする会員には、ほんの少し前までは白人の男性が多く、有色人種の俳優が選ばれにくいと長年言われてきたし、若手のトップ女優が批判したように「男優より女優の方が出演料や契約料が安い」という現実があった。多くの関係者が声を上げたおかげで、ダイバシティー(多様性)の問題には改革のメスが入っているし、共演者との間でギャラのバランスをとることを表明した男優まで出てきていて、取り巻く環境は変わりつつある。ただ、まだまだ人種や性差については保守的なのが実際のところだ。
そういう現実に風穴を開けようというのがベルリンの動きだろう。この決定のころに開催されていたベネチア国際映画祭に訪れていた女優は軒並み大歓迎のコメント。ある女優は新聞のインタビューに「きっと誰もが従わなければならなくなるはず。間違いない」と力強くコメントしているし、ベネチアの審査員長を務めたケイト・ブランシェットはベルリンの改革を歓迎した上で、「私はいつも、自分のことを俳優と呼んでいる。私は『女優』という言葉が常にさげすみの感覚で使われていた世代の人間です」とまで言っている。
一般の人にとってある意味キラキラとしたイメージもある「女優」という言葉が、言われる人たちにとってはそこまでマイナスのイメージがあるということについて、私たちも自分の社会の問題として考えなければいけないだろう。
この映画祭に出品されている(あるいは賞にノミネートされている)作品の中で主演している俳優の中で一番は誰なのかという意味で選ぶ「主演俳優賞」は男優であろうと女優であろうと構わないわけだが、現実問題として、受賞する人数が半減してしまうことにもつながりかねない。男女の区別をなくすということは大きな流れだとしても、受賞者を増やすなど何らかの副次的な改革も必要になってくるかもしれない。
何よりも演技を見極め、映画の中の才能を見つけ、映画界の発展向上につなげることこそが選ぶ側の使命だ。ジェンダーに対する社会の配慮と一体となって、そうしたことに貢献できる改革が今、求められているのだ。