幻の「練馬大根」、何がそんなに練馬人を掻き立てるのか【岩崎さんのねりぐらしVol.5 後編】
前々回の投稿で練馬名物・練馬大根が長くて立派な大根ということをお伝えしましたが、そもそもなぜ練馬区は大根作りにこだわったのでしょうか?
以前、としまえん企画展を開催していた石神井公園ふるさと文化館の常設展示で学んだ練馬区の歴史を踏まえて、個人的に分析してみました。
中世の時代、現在の練馬区は豊島氏が統治しているエリアでした。しかし豊島氏は戦に敗れ、城を捨てて逃亡します。詳しい資料が残っていないそうなので正確なことはわかりませんが、恐らく練馬はトップ不在の時代があったと思われます。主(あるじ)を失った練馬の人々は、氏神様である氷川神社を心の拠り所としながらなんとか生きていったようです。
練馬大根の栽培がはじまったのは江戸時代に入ってから。きっかけは「区内の農家が栽培を始めた」「江戸の将軍様に命じられて栽培を始めた」説が有力視されています。
少なくとも大根栽培が当時の江戸の将軍様に評価されていたのは間違いなく、文献に「練馬の大根マジうまい(意訳)」と残されるほど。
練馬の人たちも将軍お墨付きをいただいたことで自信がついたのではないでしょうか。品種改良への挑戦や栽培方法にこだわり、遠くは江戸の城下町まで大根を担いで売りに行ったそうです(当時は西武鉄道もJRもありませんから、夜通し歩いたそうです)。こうして練馬大根は練馬の名産品として知られていき、練馬は練馬大根とセットで名を馳せていきました。
しかし、昭和に入ってから干ばつやモザイク病の流行、第二次世界大戦後の食の欧米化や宅地造成による農地減少などの煽りを受け、練馬大根は栽培されなくなっていきます。
東京練馬漬物組合員149名が大小500個ほどの漬物石を春日町にある愛染院の鐘楼の土台に寄贈し、区内の野菜生産はキャベツへとシフトしていきました。
土台の石にしては丸っこい
また、大根への感謝の意を込めて1961(昭和36)年に「練馬大根供養」が練馬大根碑(1940年建立)の前で行われました。
愛染院の前にある練馬大根碑
こうして練馬大根は歴史から姿を消しました……。
……ん?ちょっと待てよ。
いい話なので思わずスルーしそうになりましたが、供養って亡くなった人や動物に対してやるものだよね?
大根の供養って、何?
個人的な考察ですが、漬物石で鐘楼の土台作ったり供養したりと、まるで大根を英雄のように扱う練馬の人々の姿は、事情を知らない他地域の人々には奇特に見えたことでしょう。
これが練馬=練馬大根=田舎臭いと、他の都民からなんとなく馬鹿にされていることにつながっているのではないかな?と、個人的に思っています。
時は経ち、練馬大根は消えても練馬大根スピリットは練馬人に脈々と受け継がれていました。
平成に入り、区内農家の尽力で練馬大根の栽培が再開。幻と言われた練馬大根が、今では「練馬大根引っこ抜き競技大会」を始めとする関連イベントが大盛況になるほどの復活を遂げました……というのは、皆さんご存知ですよね?
たかが大根、されど大根。
練馬の人と練馬大根の間には「栽培者と野菜」という言葉では表せない、深い絆があるのかもしれません。
ちなみに、JA東京あおば石神井支店の前には戦後のキャベツの功績を讃えたキャベツ碑もあります。練馬区民、こういうの好き?