ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ」は小さな宝石箱
小さな宝石箱。毎日開いては眺めている方々もいるだろうが、私にとって、それは時々開く大切な大切な宝物。ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ 足ながおじさん より」だ。2009年にワークショップで生まれ、2012年からはミュージカル俳優の井上芳雄と声優の坂本真綾のコンビで日本でも上演されてきた。初演では口コミで人気が広がり連日満員に。4カ月後という異例のスピード再演となった2013年アンコール公演を経て、2014年、2017年、2020年(一部中止)に再演されている超人気公演。そして今年2022年は坂本に代わって上白石萌音が起用され、大きな話題を呼んでいるのだ。=写真はミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ 足ながおじさん より」2022年公演の一場面。上白石萌音(左)と井上芳雄(写真提供・東宝演劇部)
演出は「レ・ミゼラブル」や「キャンディード」「ジェーン・エア」などを手掛ける世界的な巨匠、ジョン・ケアード。井上芳雄という日本ミュージカル界のトップランナーを冠しての作品。それなのに私が先ほど「小さな宝石箱」と表現したのは、実はこの作品が手作り感覚でひとつひとつ布を織りあげるように創り上げられてきたからだ。ケアードの妻で作詞や翻訳も手掛ける今井麻緒子が提案し、米国でのワークショップで生まれた。これは実験的なもので、米英でのツアーもあったが、日本初演での熱狂的な大評判が米オフ・ブロードウェイや韓国でも熱く迎えられるきっかけとなった。もともとはささやかな作品だったのだ。日仏では、ジーン・ウェブスターの「あしながおじさん」は知らない人がいないほど有名な作品だが、ジーンが米国人の女性作家でありながら、米国などほかの国ではあまり知られていなかったことも影響している。
名門一家ペンドルトン家に生まれたが、幼いころ母を亡くしてから人との付き合いを避け、親族たちの金持ち然としたふるまいにもなじめない、若き慈善家で、やや偏屈で素直じゃない青年ジャーヴィスと、孤児だが前向きに生きる聡明なジルーシャとの長年にわたるやり取りと互いの思いのゆくえが描かれる。
物語はジルーシャの文才に気付いたジャーヴィスが生活費と学費の全面支援を申し出たところから始まり、ジルーシャには一つの義務が課せられる。手紙を書けと言うのだ。しかもジャーヴィスからの返信はなしで。
二人芝居でミュージカルなのに、ジャーヴィスからの発信はなし。この小説における難点をミュージカルでは逆手に取った。小説では返信どころか、人物的な描写も少ないため、新たにジャーヴィスを創り出すところから始めたのだ。それも彼女が書く手紙の文面から類推して色を付けたジャーヴィスの姿だ。
返信が例えあっても手紙のやり取りだけをしていると、相手のいろんなことを勝手に想像して作り上げてしまうもの(私も高校生の時にペンフレンドだった北海道の女の子との手紙のやり取りでほぼ完璧な想像図を作り上げていたが、青函連絡船上で書いたとみられる手紙を最後に「消えて」しまった)だが、ミュージカルではそこもうまく取り込んでさまざまな起伏を生み出している。
2人の感情は歌で大いに強調できるし、ジャーヴィスのオフィスとジルーシャの大学寮の部屋を組み合わせたセットはほとんど変わらないのに、俳優自身が組み替える箱や鞄などで次々と新たなシーンが展開していく。そこも手作り感がいっぱい。
上白石萌音は坂本の模倣をすることなく、自らの世界観で新しいジルーシャ像さえ創り上げている。若手女優では屈指の歌唱力を誇る彼女の歌には、身を任せたくなるような温もりや、さざ波の様に押し寄せる感情の起伏があり、この物語をさらに魅力的なものにしている。井上は毎回、ジャーヴィスに新たな要素を付け加えるかのようにより深い人物造型に取り組んでおり、ひとつとして同じ舞台はない。
このささやかだが、観る者の人生観にまで影響を与えるような物語をいつまでもあの小さな宝石箱を開く時のようなひそやかで、それでいて心の清らかさがじんわりと広がっていくような感情で見られるようでいたい。きっとそれは何ものにも代えられない大切な感情なのだから…。
ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ 足ながおじさん より」は2022年8月14日から31日まで、東京・北千住、大阪、東京・日比谷で上演された。公演はすべて終了しています。