桃太郎のお供は「イヌ・サル・キジ」じゃなかった?
誰もが知る昔話「桃太郎」
プロパガンダにも論争にもなる
日本の代表的な昔話を一つ上げよ、といえば「桃太郎」だろうか。
子どものいない老夫婦。ある日、川に洗濯に出た老婆が大きな桃を拾う
その桃を真っ二つに切れば中から元気な赤ん坊が現れる。
桃から生まれたので「桃太郎」。
桃太郎は成長し、「鬼退治」に出発。道中で出会った仲間と共に見事に鬼が島を征伐しましたとさ。
めでたしめでたし。
日本人ならば誰もが知るストーリー。
だからこそ戦時中には「桃太郎・空の神兵」として「英米の鬼を退治する」プロパガンダアニメの主人公となり、
世間が落ち着いた戦後には
「島で平和に暮らしていた鬼たちを、桃太郎は侵略した!」
「桃太郎は動物たちに報酬を払ったのか?黍団子たったひとつで『鬼退治』という危険な任務に当たらせるのはブラックではないか!」
「鬼の宝物を奪うのは強奪ではないか?仮に鬼が民衆から奪った宝物であるなら、元の持ち主に返すべきではないか!」
などと論争のネタになり、それでいて
「最初にお婆さんが桃を切る時、桃太郎まで切ってしまわなかったのか?」
などというどうしようもないギャグも絶えることはない。
それもこれも、桃太郎の物語が日本で親しまれている証と言えよう。
「イヌ」「サル」「キジ」が登場しない
桃太郎の物語もある
さて、筆者はこれまで「桃太郎のお供」をあえて詳細に書かなかった。
書くまでもない事、だれでも知っていることだから、ではない。
桃太郎のお供と言えば、イヌ、サル、キジと決まっている!
とは安易に決めつけられないのだ。
狭い日本だが、昔話の世界は広い。
そこにはイヌ、サル、キジをお供にしない桃太郎も存在するのだ。
愛媛県北宇和郡の伝承から
婆さんが川で桃を拾い、食べたらうまかったので、もう一つ流れてきた桃を拾って家の戸棚にしまっておく。その桃がいつの間にか男の子に変わっていた。黍団子を持って鬼退治に出発し、途中で出会った「石臼」「針」「馬の糞」「むかで」「むくろじ」をお供にして鬼を退治した。
広島県某地
桃から生まれた桃太郎が鬼退治に出発すると、臼と栗と蟹が仲間になった。鬼の留守宅に忍び込み、栗はかまどの中、蟹は水桶の中、臼は勝手口の上に隠れ、帰ってきた鬼を退治した。
広島県比婆郡
桃から生まれた桃太郎が黍団子を携え鬼退治に出発すると、犬と猿と雉、さらに「栗」「臼」「腐れ縄」「蜂」「蟹」がお供に加わる。鬼が島の門は猿が塀を越えて開ければ鬼は昼寝の真っ最中、栗が火の中で弾けて火傷した鬼は蜂にも刺され、治療に味噌を塗ろうと味噌部屋に行けば蟹に手を挟まれる。戸口から逃げ出そうとすれば、腐れ縄に繋がれていた臼が落ちて鬼を押しつぶす。鬼が降参して宝物を差し出し、犬、猿、雉が宝物の車を牽き、臼や蜂たちにも褒美を分けて凱旋する。
お供は「臼」「針」「糞」「蟹」…
これでは「猿蟹合戦」ではないか!
口伝えで伝えられる昔話
自由な発想の昔話
もともと「昔話」とは文字に頼らず「口」で語られるものである。
親から子へ、そして孫へ。
あるいは旅の商人や坊さんの語りを聞き知って。
語り伝えはテープレコーダーのように一字一句、正確に記録するものではない。
話を受け継いだ者が独自の想像力や創作センスを有していたならば、オリジナルの物語に飽き足らず他所で聞いた面白い別のエピソードを忍び込ませることもわけないだろう。
主人公が動物をお供に悪を倒す「桃太郎」
動物や道具が連れ立って敵を討つ「猿蟹合戦」
似たような両者を結び付けるのは造作もないことだろう。
ふたつの昔話は江戸時代には絵本に取り上げられ、文字となって伝承が固定化した。
だが地方の民衆は依然として文字に頼らず物語を語り伝え、新たな説話を生み出していく。
自由な語りこそが、口承文芸の面白さともいえようか。
※参考文献
『日本昔話大成3 本格昔話二』 関敬吾 角川書店 1978年