明滅するメタファー、流れるようなアート、舞台「ねじまき鳥クロニクル」再演
村上春樹作品を映像化、舞台化する。
映画では『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』『パン屋襲撃』『バーニング 劇場版』『ドライブ・マイ・カー』『神の子どもたちはみな踊る』などなど、舞台では「海辺のカフカ」「ねじまき鳥のクロニクル」など。
結果として世に出た作品が少ないのは、その難しさを如実に物語っていると言っていい。異界との接触、多くの謎、一見脈絡のない結びつき、観念的な表現などなど、村上春樹が村上春樹であるゆえんとも言ってよい数々の特徴が、映像化、舞台化にあたっては、大きな壁になるからだ。
しかし、2020年に初演された舞台「ねじまき鳥クロニクル」はむしろその謎や観念を主体化して、イメージの森を彷徨うような作風と、演技、コンテンポラリーダンス、観念的身体表現などによって、村上春樹文学にもっとも近い世界を獲得したと言える作品となったのである。今年2023年、その舞台「ねじまき鳥クロニクル」が再演されている。新しいキャスト、新しい解釈の入った身体表現も予想以上の効果を上げている。
「ねじまき鳥クロニクル」は村上春樹の8作目の長編小説。1992年から1993年にかけて「新潮」に掲載された文章がもとになった第1部「泥棒かささぎ編」が、書き下ろした第2部「予言する鳥編」とともに1994年4月12日に発売された。1995年8月25日には第3部「鳥刺し男編」が発売され、完結している。
単行本3巻もの中に村上作品で最大級の謎が込められている小説だけに、あらすじの簡略化もまた至難の業だ。 要するに、失踪した妻を探し求めるうちに、異界に通じる涸れた井戸を見守り続ける女子高生や、予言する人々、絶対悪などが次々と登場し、影響を受けたり、対峙したりしながら「誰かがこの世界のねじを巻かなければ」とねじまき鳥という存在に共鳴していく青年のお話。なにしろ、派生していく世界があまりにも広く深く、世田谷の空地からついには何十年も前の戦争の記憶にも結び付く。村上文学の特徴である「喪失」のメタファーは多く登場するが、その先に明滅する光や、生命力にあふれた闘いへと結びついていく力強さも獲得しており、村上文学に新たな方向性を付け加えた作品としても意義深い。
今回の舞台「ねじまき鳥クロニクル」は物語を演技でつないでいくというよりは、イメージとしての群舞やコンテンポラリーダンサーたちの示唆に富んだダンスを挟み込みながら、流体のように流れていくと言った方が近い。村上作品をそのまま演技でとらえていくことも重要だが、比喩やメタファー、観念などが横溢するその文学性を観客に感じさせるためには、こうしたイメージのオーガニックなつながりを重視した作品作りが最もふさわしいと言えるだろう。
初演、そして今年と、この先端的作品を創り出したのは、イスラエル出身で今や世界的に評判を呼ぶインバル・ピントとアミール・クリガーのコンビだ。ダンサーから出発して振付、運出、美術と活動範囲を広げていったピントと、脚本・演出で世界観づくりに長けたクリガ―。演劇をアートというかたちでまとめ上げていくことに抜群の才能を持つ2人なのである。作品の中で「水」が重要な役割を果たすことが、ピントらの流体的な表現とマッチしているのは決して偶然ではないだろう。
「難解な小説の物語が、さらに分かりにくくなった」という感想が観客の中に存在していることも知っているが、訳知り顔の主人公が巧みな話術で明快に説明したところで、本当の真理は永遠に分からないだろう。前後の脈絡やキーワードを理解したところで、この物語は分かったことにはならない。主人公と共に「旅」をしてこそ、この物語を体験する意味があるのだから。
出演は、成河、渡辺大知、門脇麦、大貫勇輔/首藤康之(Wキャスト)、音くり寿、松岡広大、成田亜佑美、さとうこうじ、吹越満、銀粉蝶、加賀谷一肇、川合ロン、東海林靖志、鈴木美奈子、藤村港平、皆川まゆむ、陸、渡辺はるか。
舞台「ねじまき鳥クロニクル」は、2023年12月1~3日に大阪市の梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティで、12月16~17日に愛知県刈谷市の刈谷市総合センター 大ホールで上演される。それらに先立って、11月7~26日に上演された東京公演はすべて終了している。