人生が無意味でも

宮城・仙台
ライター
KIROKU vol.02
佐藤綾香

葬送のカーネーション』(ベキル・ビュルビュル監督/2022年)という映画をみてから、この作品について考えるのがここ2〜3週間の日課になろうとしている。

 

生きるってなんだろう。

なんのために生きてるんだろう。

死ぬって、ほんとうは何を指してるんだろう。

死ぬことって、なんで不謹慎とか、不幸におもわれるんだろう。

いったい何に向かって生きてるんだろう。

わたしがこの時代に生まれた意味はなんなんだ。

わけがわからない。

 

大学生の頃はよくそんなことを考えた。

わたしはいまも面倒な人間だが、学生時代も変わらず、いや、もっと面倒な人間だった。

友だちは何人かいたけれど、どちらかといえば一人で過ごすのが好きで、大人数でお酒を飲みに行くよりも、デートでディズニーランドやカフェに行くよりも、当時住んでいた6畳のアパートに引きこもって本を読んだり、安く借りた旧作映画をみたり、名付けるほどでもない自己流のお料理を開発したり、雑誌の好きなページを切り抜いてスクラップブックを作ったりするほうが楽しかった。

 

しかしながら、一人の時間は苦しみも伴う。

対話する相手は自分しかいないから、いやでも自分と向き合わざるを得ない。

自分との対話では「生きる」という意味をわざわざ考えることもあった。

というか、何を考えていても最終的には冒頭の問いにたどりついてしまうのだ。

20歳そこらの人間に答えなんてわかるはずもなく、ただ悩むだけ悩んで終わるのだけれども。

 

 

わたしが生きることについて真剣に考えたのは、学生以来のことだった。

映画『葬送のカーネーション』は、棺を運ぶ老父と、その孫娘のロードムービーである。

以下、パンフレットより抜粋。

荒涼とした冬景色のトルコ南東部。少女ハリメは、祖父のムサが約束を交わしたという亡き祖母の遺体を故郷の地に埋葬するため、祖父と棺とともに旅をしている。紛争の続く場所へ帰りたくないハリメだったが、親を亡くし、仕方なく一緒に歩く。
ハリメたちは、旅で出会う様々な人たちから、まるで神の啓示のような “生きる言葉” を授かりながら進んでゆく。国境、生と死、過去と未来、自己と他者、孫娘と棺をかつぐ祖父との心の融和。
トルコから届いた3人のおとぎ話は、境界線の先に感動の小さな光を灯す。

 

 

鑑賞後、ムサとハリメがヒッチハイクして乗った車で流れたラジオDJの言葉が、頭から離れなくなってしまった。

 

人生が無意味でも、価値を見出して進み続けるべきなのだろうか。
意味はないが、走り回って何かをしなければならないのが人間なのかもしれない。

 

なんと、人生はそもそも無意味だという。

学生時代のわたしがこの言葉を聴いたら「生きるってなんだろう問題」の深みにさらにハマって目がぐるぐる回っていたかもしれないが、いまのわたしにはスッと馴染んだ。

映画のなかのラジオDJは、こんなことも言っていた。

 

地球の歴史上、人生というパーティーはいつか終わり、大きな失敗と偉大な成功だけが残る。
しかし、仮にあなたの子孫が1000年続いたとしても、 誰もあなたに感謝しないし、そもそも認識すらしない。

 

この言葉たちを冷たく感じる人もいるかもしれない。

でも、やはりわたしはラジオDJの言葉に安堵しているのだ。

「この言葉が降ってくるのをずっと待ってたんです」と渇望していたくらいに。

 

 

いまの時代、さまざまな面で「生きづらさ」が話題になりやすい。

例に漏れず、わたし自身も30代の女性として「生きづらさ」を抱える一人である。

仕事。お金。恋愛。結婚。子ども。家族。人間関係。

自分の幸せが、ただの他人から定義され、そのものさしからすこしでも外れると、どう足掻いたって「不幸せ者」としてラベリングされてしまう。

偏見だらけの幸せの尺度に惑わされることはないが、感情の機微をもつ人間だからこそ、一応その度に最悪な気分にはなる。

だけど、人生が無意味なもので、1000年後の子孫の誰にも感謝されず認識もされないのだとしたら、他人の古びた価値観にいちいち最悪な気分になるのも、まるで意味を成さないことだ。

意味付けが人間の習性なのであれば、人生に決まりきった意味なんてないんだから、自分一人が生きる意味くらい、自分でもがきながら好きに見つければいい。

そこに他人の余計なお世話が介入する隙間はない。

しかも、「人生はパーティー」だという。

学生時代に衝撃を受けた映画『8 1/2』(フェデリコ・フェリーニ監督/1965年)でも、ラストシーンで「人生は祭りだ。共に生きよう」という台詞がある。

「なんのために生きるのか」なんて、32歳になったいまもわからない。

「なんのため」を一つに決めることすら難しい。

だが、これだけはわかった。

なんの偶然か、わたしと同じ時代に生まれて、奇跡的なタイミングが重なって出会えたリスペクトしあえる人たちと共に生き、人生という祭で存分に遊びたい。

大人になってから、一人は好きだけど、人は一人では生きていけないことを痛感している。

4人以上の団体行動ができない。口が悪い。朝がめっぽう弱い。待ち合わせ時間に遅れる。飽きっぽい。

人に迷惑をかけてばかりの面倒なポンコツ人間にも、健康と幸せを心から想い、願ってくれる人たちができた。

そんな人たちがわたしと同じ時代にいてくれるのならば、自分の生きる意味を求めることさえ野暮におもえる。

 

 

しかし、わたしはまだ未熟な人間だ。

その証拠に「人生はパーティー」「人生は祭」という言葉にいまいちピンときていない。

言いたいことはなんとなくわかる。

でも、“なんとなく” で片付けようとしているのが、かなりあやしい。

楽しいことも、幸せなこともたくさんあるけれど、人生なんて理不尽だらけだ。

それなのに、なぜ「人生はパーティー」「人生は祭」と言い切れるんだろう。

「人生はパーティーだ!」「人生は祭だ!」と断言できるようになるまで、あと何年かかるかな。

とにかく、わたしは思うがままに学びながら遊んでやろう。

 

たとえ、人生が無意味でもね。

 

 

『葬送のカーネーション』

監督:ベキル・ビュルビュル
脚本:ビュシュラ・ビュルビュル、ベキル・ビュルビュル
キャスト:シャム・シェリット・ゼイダン, デミル・パルスジャン
海外セールス:Alpha Violet
配給:ラビットハウス
協賛:トルコ文化観光省/トルコ国営放送局

2024年1月12日(金)
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMA ほか

プロフィール
ライター
佐藤綾香
1992年生まれ、宮城県出身。ライター。夜型人間。いちばん好きな食べ物はピザです。

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