没後40年超え寺山修司に今再びの熱い注目、現代の視点持った2つの舞台上演
50代以上の日本人で寺山修司を知らない人はいない。
1983年に亡くなった寺山は1970~1980年代に短歌、小説、映画、演劇などの分野で時代の寵児であり続けただけでなく、さまざまなチャンネルを通じて10代を含む若者に強いメッセージを発し、彼らにとってはカリスマ的存在だったからだ。
その寺山がこの世を去ってから昨年2023年で40年。今再び寺山修司の人物、芸術に注目が集まっている。それは何も中年以上の方々のノスタルジーによるものではない。若者を含む幅広い世代による人気。あの頃以上に混迷を深める日本社会にあって、寺山が若者たちに発したメッセージは普遍的で古びない。現代の若者たちもまた、混迷の出口を捜し求めているからである。
回顧企画や復刊なども相次ぐ中、今年2024年になってもっとも勢いづいているのは、寺山の持つ多彩な才能を包括する総合芸術のいれものとして寺山の生前最も活性化した演劇分野での企画。この2月から3月にかけての期間だけでも、東京と大阪で舞台「テラヤマキャバレー」が、東京で音楽劇「不思議な国のエロス」が上演されている。いずれも関係者の苦労や工夫がうかがえるが、ただ単に寺山の創り出した当時の作品を上演するだけではなく、現代とつながる新しい視点を入れている点が特徴的だ。
舞台「テラヤマキャバレー」は、寺山が死に際して見たかもしれない世界を脳内劇というかたちで「死」なる存在に見せているお芝居だ。寺山を慕ってキャバレーに集まってきた劇団員たちが、寺山から役という「命」を吹き込まれ、寺山を構成してきたさまざまな要素を再構築しながら語られていく物語。寺山が創作したものではなく、舞台・美術・映像をつくる団体「ゆうめい」を率いる池田亮が生み出した脚本と、日本の演劇もたくさん手掛けている世界的クリエイター、デヴィッド・ルヴォーによる演出で寺山の迷宮的世界へと誘ってくれる。近松門左衛門の時代に行って創作の極意にふれるなど過去の世界も登場するが、興味深いのは2024年という現代と寺山を出会わせているところ。ややデフォルメされた現代ではあるものの、そこで寺山が何を感じたかが示唆されている。主演の香取慎吾の演技にも惹きつけられる。
音楽劇「不思議な国のエロス」は、紀元前に生きたアテネイの劇作家・詩人、アリストパネスの代表作であるギリシャ喜劇「女の平和」をベースに、寺山が創り出した戯曲。反戦と平和への願いに加えて、ジェンダー的な概念に果敢に挑んだ半世紀前の日本では画期的な視点を持つ物語でありながら、執筆当時には上演されなかった(寺山没後の上演はあり)幻の作品。何しろ、男たちが始めた戦争を終わらせるために、女たちが敵味方の関係を超えて結託。兵糧や金庫を占拠した上、男たちの最大の欲望である「セックス」を拒否するストライキ戦術に出て、男たちを混乱のるつぼの中に突き落とす。
構図は決して同じではないものの、ロシアによるウクライナ侵攻や、ガザ地区での果てしない殺し合いなど戦争・紛争の相次ぐ現代の世界に強いメッセージを投げ掛ける作品だ。シンガー・ソングライターの古川麦により音楽劇として成立させており、文学座の稲葉賀恵による演出が痛快な作品だ。朝海ひかる、松岡依都美らの熱演が光る。
現代の気鋭のクリエイターたちによる部分も大きいが、根っこにあるのは寺山の普遍的な価値観や真実を見通す眼力である。各時代の大人たちが先送りにしてきたもの、正されなければならなかったのに見過ごさされてきたものがいっぱいあふれている。 いつの世も若者はそんな大人たちの嘘や偽善に薄々感づいている。しかし言葉にできない、言い出せない。今も昔も寺山は言葉を持っていた。人間の不満や社会の不安を鋭く突く文字列の力を知っていた。寺山の言葉があらためて注目されるのは至極必然的なことなのである。
舞台「テラヤマキャバレー」は2024年3月5~10日に大阪市の梅田芸術劇場メインホールで上演される。2月9~29日に東京・日比谷の日生劇場で上演された東京公演はすべて終了している。
音楽劇「不思議な国のエロス」は2月16~25日に新国立劇場で上演された。全公演が終了している。