失って初めて気づく?心理——惜しまれる存在になるために
3月某日、大手製菓会社から同社のキャンディー「チェ〇シー」販売終了のお知らせが発表された。
これにはかなり驚いた方も多かったのではないかと思う。
もはや定番商品のイメージであったし、食べたい時そこにいてくれるもの、という感覚で見ていた。
ただ、商売においては何事もそうだが、「時々無性に食べたくなるんだよね~」では支えられないものも多い。
販売規模の低迷、というワードを重々しい気持ちで眺める。
しかし、自分を棚に上げて何だが、こうなると「売れてないなんて知らなかった。自分は買ってたのに…」とか「好きだったのに!」と急に情熱を発揮してしまいがちなのはなぜなんだろうか。
もちろん、自宅に常備していたり見るたび買っていたり、というレベルの人もいるはずだ。
それとは別に湧く、「なくなったら寂しい」「惜しい」的な感情。
これって結構どんな場面にも発生するわりに、“本当に大切なものは失って初めて気づく”と表現できるほどの段階でもないので、たまにその立ち位置に深く想いを巡らせたりする。
並べるのも烏滸がましい話、趣味で創作活動をやっている中でも、過去に一度だけ似たような心理の受け手となるケースがあった。
通常の畑とは違い、たまたまとてもひっそりと引っ込んだ場所で発表していた時。
だからこそ特に反応は期待せずやっていたのだが、まるで独り言のような状態になり、やや虚しさを感じ始めたので書きたいものを終えた時点できっぱり辞めてしまうことにした。
すると、そのお知らせを書いた途端「ずっと見ていました」と何件かメッセージをいただいたのである。
最後に餞とは有り難い、と思いながら拝見したが、中には辞めないで欲しいといった要望もあった。
実はこれ、私に限らず創作界隈ではありがちな事象らしい。
巷に流通している製品とは異なる事情だろうけれども、それまでタイミングが合わず「送る契機だ」と感じられたのか、今こそ!という気持ちになってくれたのか、それは分からない。
調べてみると「相手のプレッシャーになりそうで……」といった意見もあり難しすぎるところだが、とにかくいなくなると言われれば寂しい、と少しは考えてもらえたのだと思う。
とはいえ、やはりこれから仕事をしていく上でも、今はできれば常に必要とされる人間になりたい。
一世を風靡し、時代の流れとともに日常に馴染んでいったキャンディーほど惜しまれる存在にはなれなくても。
まずは目の前のことをコツコツこなし、日々精進していくのみだ。