Do と C
「あの、めちゃくちゃどうでもいいこと話してもいいですか」
5月の、とある週の水曜日。
仕事が終わったあと、友人と仙台駅周辺で待ち合わせて夜ごはんを食べた。
わたしたちは延々とくだらない話を続けつつ、おいしいゴハンを食べた。
空腹と疲れと運ばれてきた料理のおいしそうな見た目や匂いがいいカンフル剤となって、バクバクゴクゴク食べて飲んだ。
やっとバクバクゴクゴクが落ち着いてきたころ、友人はそう言ったのだ。
え、待ち合わせてからいままで、ずぅっとくだらない話してたけど、もっとどうでもいい話なの?
「パスポート用の証明写真にうつる自分の顔がおもってたより左右非対称だったからみてほしい」
「小顔矯正モニターのビフォーでよくみるやつみたい」
「あと10年はこれなんですよぉ」
「「ぐわぁーーー」」
「でもね、わたしの免許証の顔写真もだいぶやばいからみてほしい、本人確認でこれ出しても意味ないとおもうんですよね、住所と名前が確認できても顔写真がニセモノっぽいから」
「なんで免許証の写真ってうまくいかないんだろう」
「いまって令和なん年?」
「6年」
「あと2年はこれですよ」
「「ぐわぁーーー」」
こんな話題よりも、友人がこれから話す内容はもっとどうでもいいらしい。わくわくする。
なぜこんなにも嬉々としているかというと、わたしは、生産性やら効率やらを度外視したどうでもいい話が大すきだからだ。
そしてそれを許してくれて、前のめりになって一緒に話せる人も大すきなのだ。
どうでもいい話はどうでもいいだけに忘れてしまうものがほとんどだが、当時バイト中に仲間と話題にした「いちばんダサい一人称はなにか」はいまもふと思い出しては笑いそうになる。
わし、あたい、あたしゃ、おいら。
仲間とわたしは交互に案を出し合い、最終的には「俺っち」がいちばんダサいんじゃないかという結論に至った。
お互いが「俺っち」が醸し出すおぼこさにハマり、その日だけ自分たちの一人称が「俺っち」になったのだが、裏では「俺っち」という単語が出るたびにヒーヒー笑った。
お客様の前にでるときは何食わぬ顔で仕事をするという落差がまた笑いを誘い、しゃべれねーとか、腹いてーとか、ほっぺいてーとか、しぬーとか、正常に息を吸えず生命の危機を感じるほど笑って苦しんだ。
ふたりともよくその日を耐え、ちゃんと働いたなとおもう。
そんなわたしが、どうでもいい話を断るわけがない。
わたしは胸を躍らせて「もちろん、さぁどうぞどうぞ」と大きくうなずいた。
詳しい内容は友人のプライバシーを守るためにふせるが、彼女のどうでもいい話をいったん最初から最後まで聞いてみると、とあるエンタメをどうしても真っ直ぐ捉えられず別の世界線の出来事として見てしまう、というものだった。
「でも、そう見えてしまうのは自分のぶ厚いフィルターがかかっているだけであって、思い過ごしなんじゃないかっておもうんです。いやでも、それを見るたびに ん? っておもっちゃうんですよ。制作者がその世界線としても楽しんでもらえるように意図的にそう見せてるのかもしれないけど、ん? って。そこで、第三者の意見がほしくなって。フラットな視点で、これは実際にそうなのかどうか、判断してもらえないでしょうか」
もしかしたら仕事の悩みに聞こえる人もいるかもしれないので、ここで確認のためもう一度お伝えしておくと、ほんとうにどうでもいい内容だというのは忘れないでいただきたい。
でも彼女は、どのように見たらいいのか、というか自分の趣味を押し付けているだけなのではないか、と行ったり来たりするのがとても苦しいと悩んでいた。
どうでもいいけど、どうでもよくない。
くだらないのは間違いないんだけど、絶対に見過ごすべきじゃないと野生の勘が警報を鳴らしている状態。
なんとか救いたい。
わたしで救えるのであれば、救いたい。
なんだか世界の謎を解き明かすべく全財産を投げうつトレジャーハンターのような気分。
よし任せなさい。
なぜなら客観視はわたしの得意分野なのだから!
「わかりました、PDCA まわしていきましょう。あとできっかけになった動画資料ほしいです」
「うわぁありがとうございます。資料はまとめて送ります」
「いえいえ、わたしも気になってきたし」
「ところで PDCA の C ってなんだっけ」
「あれ、なんだっけ」
「C は Check だって」
「Check かぁ〜」
「ということでもう P はしてあるから、Do と C よろしくお願いします! わたしは A するから!」
Do と C。
せっかく C は Check って調べたのになぜ D だけ……と立ち止まってしまったら、内容のどうでもいい塩梅に箔がついた気がしてもっとわくわくした。
食事をしている間も、お店をあとにしてからも、駅まで一緒にたらたら歩いた帰り道も、友人は「Do と C をよろしくお願いします!」と繰り返した。
そのたびになぜ D だけ……と気にしつつも、わたしも「Do と C がんばります!」と友人に向かって宣誓した。
おそらく「Do と C 」は、我々だけの、我々でしか通じない共通言語だ。
わたしはどうでもいい話をすることで、特別な言語を探しているのかもしれない。
わたしとその人の間だけの、思い出せば胸のあたりがポカポカして心地よくなるような、ほっぺが緩んじゃったのを周りに悟られないようにするから余計にへんな顔になっちゃうような、そんな特別な言語が増えていくのがすきだ。
わたしがすきな特別な言語は、往々にしてどうでもいい話のなかで編み出されている。
国語辞典になんて載るはずもなく、流行語大賞にだってノミネートされることもない、どうでもよすぎるがゆえに素通りされてしまう言語たち。
だけど、わたしは自分の日常にあふれるどうでもいい言語を素通りさせず、勝手に輝きを見出し、特別な言語として大事にしまっている。
つまるところ、さまざまな人との特別な言語は、何にも代えがたいわたしの宝物なのだ。
後日、PDCAをまわそうとしたところ、友人は Do と C を飛びこえて静かに A しはじめた。
「その話なんですけど、よく考えたらどっちでもいいんですよね。やっぱりわたしの固定概念が強かったんだって反省したんです。そうだとしても、そうじゃなくても、どっちでもいいんですよ。みんながしあわせだったら」
どうでもいい話も、きっとそんなもんだ。
白黒はっきりさせなくていい。
わたしはそんなところも好きなんだ。
しかもわたしたちには「Do と C」があるんだから。