「百人一首」、清少納言が詠んだ歌は宮城谷昌光の小説の世界
百人一首に載る
清少納言が詠んだ歌
令和6年大河ドラマ
「光る君へ」。
主人公は言わずと知れた紫式部、源氏物語の作者。
そして彼女と並び立つ平安の才女と言えば清少納言。
「春はあけぼの」のフレーズで中学古文でもおなじみのエッセイ集「枕草子」の作者である。
ドラマではファーストサマーウイカが演じる清少納言は、学問の家系・清原氏の生まれ。
曽祖父の清原深養父は
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ
(宵かと思っていたのがいつの間にか明けてしまった、短い夏の夜。これでは月も山に隠れる暇はないだろう。月は今頃、どの雲に隠れているのだろうか)
父の清原元輔は
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
(あなたは約束しましたよね。互いに涙で濡れる袖を絞りながら。あの陸奥の国の歌枕の地「末の松山」は津波ですら乗りこえないように、恋心が変わることはありえないと。それなのにあなたは…)
と、それぞれ歌が「百人一首」に選ばれている。
先祖以来の文才のDNAを受け継いだ清少納言、和歌に関しては「大歌人だった父の名を辱めてはいけない」と、自ら進んで披露しなかったとされるが、その彼女の歌もまた小倉百人一首には採集されている。
夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ
(夜中に鶏が鳴くものですか。鶏の噓鳴きで騙そうとしても、逢坂の関の番人が許すわけがありませんよ)
ただ、このように現代語訳を並べられても「?」だろう。
この歌の真意を解釈するには、当時の時代背景、そして清少納言自身の職場環境、男女関係を汲み取ることが肝要だ。
その顛末こそ、「平安のキラキラ女子ブログ」であるところの「枕草子」136段に詳細に記されている。
「史記」「孟嘗君」の故事が
詠みこまれた清少納言の歌
ある時、官僚組織のトップ「蔵人頭」の位にある藤原行成が清少納言の職場を訪れる。
「光る君」では渡辺大知が演じる行成。彼の蔵人頭への栄転には「別の貴族・藤原実方と『歌の解釈』を巡って口論になり、そのはずみで冠を奪われ投げ捨てられた。この時代、被り物の無い頭をさらすのは大変な恥だったが、それでも行成は冷静に対応した。その心根を一条帝に褒められ、蔵人頭に出世した。一方の冠を奪った藤原実方は左遷され、任地で寂しく死んだ。死後に雀に生まれ変わり、出世できなかったことを恨んで宮中の米を食い荒らした」などという逸話があるのだが、それはまた別のお話。
さて、行成とよもやま話をしているうちにはや日が暮れた。行成は「明日は用があるし、物忌みだから…」と、さっさと帰ってしまった。
翌朝早くに行成は
「名残惜しかった。朝までずっと話していたかったのに、鶏の声にせっつかれてしまって……」
と、見事な筆跡で文をよこしてくる。さすが行成は「三筆」の一人に数え上げられる書の達人だ。
「あんな夜中に鳴く鶏があるものですか。かの孟嘗君の故事にあるような、噓鳴きの鶏ですか」
とツッコミを入れて返書をすると
「孟嘗君の鶏は、函谷関をうまいこと開けさせて、三千人をなんとか逃しましたけど。でもね、私の話は函谷関ではなく、逢坂の関ですよ。私たちが「逢う坂の関」💛
と、歯の浮くような返信された。
そこで清少納言は例の歌を詠む
「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
(夜にそんな偽の鶏が鳴いたとて、逢坂の関は開くものですか。私という関守が守ってるんですよ)
この一連の流れを解釈するには、漢籍の知識が必須だ。
当時の男性貴族ならば必学の書であった、中国の歴史書「史記」その中に「函谷関」「鶏鳴狗盗」の故事がある。
紀元前300年頃、中国では春秋戦国時代の末期。現在の中国、山東省のあたりにあった「斉」の国に田文という王族がいた。彼は死後に「孟嘗君」と追号されるのだが、ここでは田文で統一したい。
その孟嘗君こと田文は才知にあふれ、邸宅には「才能ある者」を何百人も召し抱えていた。才能は何でもいい。学問でも武芸でも、あるいは卑近な「一発芸」でも…とにかく、何かに秀でた者があれば召し抱えていた。
評判を聞きつけた秦の昭襄王は田文を宰相として召し抱えようとする。だが田文は所詮は斉の王族だ。秦の宰相になったとて、斉を利する政策を執るのでは…このように進言された昭襄王、自分が秦に呼びつけたはずの田文を始末しようと企み、秦の領内に招かれた田文が滞在する屋敷を包囲する。自分が招きつけておきながら、あんまりな手のひら返しではないか。
ここで活躍するのが並みいる居候たちだった。まず田文は王が寵愛する姫のもとに居候の一人、恐らくは弁舌に優れた者を遣わし、主人・田文の命乞いをする。すると姫も大きく出る。
「狐白裘と引き換えにするのなら、田文を助けてやってもよござんす」
狐白裘とは、「狐の脇の下の部分の白い毛」のみを集めて作った毛皮のコート。何千匹もの狐の命との引き換えで一着が仕立てられる天下の珍品だ。
その狐白裘を田文は持っていた。持っていた、と過去形なのは、その時には既に無かったから。秦の王にまみえた折に、献上してしまっていたのだ。
ここで活躍するのが一発芸に秀でた居候。
ドロボウ猫ならぬ、犬のように盗みが上手いコソ泥「狗盗」だ。彼は秦の王宮の宝物蔵に忍び込むや、うまうまと狐白裘を盗み出す。盗み出された狐白裘は姫に献上され、喜んだ姫のとりなしで屋敷の包囲はとりあえず解かれた。
だが「一度献上した狐白裘を、盗み出して再度献上した」
このカラクリがいつバレるか。バレたらその時は最後だ。
危ぶんだ田文は三千人の居候を引き連れ、秦からの脱出を図る。秦の国境の関所・函谷関を突破すれば、何とか身の安全は保障される。だが関所にたどり着いたのは深夜、門は閉ざされ、夜間通行は固く禁じられている。すでに昭襄王はカラクリを悟り、追手を差し向けている。このまま朝を迎えるころには袋のネズミ…
ここで活躍するのが、一発芸に秀でた居候。ただ「鶏の鳴きまねがうまい男」だ。彼が声高らかに「コケコッコー」(古代中国語でのニワトリの声のオノマトペは不明。とりあえず日本語で)とやれば、近隣の村落のニワトリも吊られてコケコッコーと啼きかわす。関所の役人は朝が来たものと早合点し、関所は開かれ、こうして田文一行は無事に斉国に帰り着きましたとさ。めでたしめでたし。
「つまらない才能」あるいは「つまらない才能でも、何かの役には立つ」を意味する「鶏鳴狗盗」の語はこの故事に由来するのだが、それはまた別のお話。
さて本題に戻ろう。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
行成は「鶏が鳴いたから」との口実で清少納言のもとを去った。だが実際には鶏は鳴いていない。唐の国の函谷関の番人はウソ鳴きのニワトリで騙されたが、私は騙されません。ここは日本国です。日本国の関所と言えば、都のある山城国と近江の国を分かつ逢坂の関。いくら「逢う坂の関」と言ったところで、関の番人は、すなわち私は騙されませんわよ
と、やり込めてやりましたとさ。
さて、この一連の会話は実際に対面して言葉を交わしたものではない。
文字で書いたものだ。
文字とはいってもtwitterもラインもEメールも「ファックス」も無い時代のこと。
いちいち紙に、それも当時は租税で納められるような高価な品である紙に筆で書いて、乙丸や百舌鳥彦のような下働きのものを介して届けさせたものだ。
現代人から見ればもどかしいことこの上ないが、もどかしいからこそ歌を詠みあげる隙が生まれる。秀歌を詠みあげれば後世に評判が広まる。それが平安のみやびか
そして行成は書の達人であるからこそ、端正な筆致の文はそのものに価値がある。
たとえ「やり込められた」証拠の文章であっても。
枕草子の当頁も、やり込められた当の行成が負け惜しみの歌を詠み、その筆跡がまた素晴らしいというので貴族たちの奪い合いとなりました、とお美しく〆られる。
枕草子と言えば、平安のキラキラ女子ブログ。
そして清少納言の漢学知識ひけらかしブログ
大雪が降った日、中宮様が「香炉峰の雪はいかなるものか?」とおっしゃるので、
とっさに唐の詩人・白楽天の詩の一節
香炉峰の雪は簾を撥て看る
を思い出して御簾を跳ね上げさせたところが、我が意を得たりとお褒めにあずかった…
の段は有名で高校古文でも有名なネタだが、この孟嘗君ネタの意趣返しも漢学の知識を体得していればこその技。だが恋のさや当てではさすがに高校古文には載せられない。
そしてこんな文章を意気揚々とブログ古文に載せるからこそ、後の紫式部に
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
(清少納言ときたらしたり顔でいい気になって、異国の漢字を書き散らしたりしてるけど、よく見ればまだまだ未熟なことばかり。こんな「あたしは人と違う!」なんて息巻いてるひとは間違いなく周りよりはイマイチで、行く末もいいことなんかありゃしない。感性をウリにしてるから、いちいち「もののあわれ!」「をかし!」なんて騒いでるけど、そんな誠実でない、中身のない人の行く末なんてどうなっちゃうの)
などど酷評されてしまうのだろうが…
そのあたりは、ドラマでは描かれるのだろうか?