ふぃ〜 をたしなむ
金よう日。23時37分。
わたしはこの日、とある無料休憩スポットの駐車場に愛車を停めて一人の時間を満喫していた。
明日はお休み。
起きる時間はいつだっていいから目覚ましはセットしない。
予定はあるけど、夕方から準備すれば待ち合わせには余裕で間に合う(無念にも30分遅刻することも十分考えられるが、いまは自分を信じよう)。
とにかく明日は朝6:30に起きなくていい。
そんな日、みなさんはどんなことをして過ごしているのだろうか。
何をして過ごすのがいちばん好きだろうか。
もしわたしがそう聞かれたら、答えはこう。
本屋に入り浸ったあとにいつものスポットまで好きな音楽をかけてドライブして、そこで本を読んだりラジオを聴きながらぼーっとしたり真っ白のノートに何かを描いたりして、満足したらまたゆっくりドライブして帰るのがすき。
金よう日の夜、どの本屋もわたしには特別な場所になる。
これはわたしの個人的な感覚にすぎないが、金よう日の夜の本屋は一人客が多くなる。
「新たな出合いはないか」と本棚をじっくり見つめているひと。
お目当ての本を一生懸命探しているひと。
気になる本が見つかって「ちょっと立ち読み」が「けっこうじっくり読んじゃった」になっているひと。
こちらも一人の時間に集中しているが、そんなひとたちの様子を伺いながらなんとなく本屋にいるのがとてもすきなのだ。
わたしの場合、金よう日の夜に本屋にいくときは目的をもたない。
ただ、本に囲まれた店内をぐるぐるとお散歩するのがすき。
「こんな本があるんだ」と発見していくのもすきだし、「次にお給料がでたらこの本を買おう」と目標をつくるのもすきだし、もう、いるだけでしあわせ。
この日、わたしは読みたい本が見つかったので1冊の文庫本を購入し、約1時間半/1店舗の本屋散策を終えた。
本屋散策の次は、ドライブだ。
目的地の無料休憩スポットの駐車場まで、30〜40分。
クーラーをつけずに窓を開けて夏の夜風を感じながら、好きな音楽を聴くのがすき。
ただ、音がきっと漏れでるので、赤信号で止まったときは隣り合わせになった車のひとに迷惑がかからないように(あとなんだか恥ずかしいし)音量をかなり下げる。
でも、青信号に変わったらまた音量を上げる。
もう深夜だし、歩いている人もいないし、まっくらだし、住宅地も離れているし、まあいいか! という具合に。
赤信号中に感じた恥ずかしさはどこへいったんだろう。
自己中もはなはだしい。すみません。
自己中の頂点にいるままドライブしていると、あっという間に目的に到着する。
心のなかでは「ふぃ〜」という声が漏れでている。
目的地の無料休憩スポットの駐車場は24時間出入り自由で、よく運転に疲れたひとが車内で休んでいる。
ときにはキャンピングカーが停まっていることもあり、バカンス気分をおすそ分けしてもらっている。
そこに着いて適当な場所に車を停めると、わたしはまず窓は開けたままにして「ふぃ〜」と一息つく。
それからドライブの途中で調達したサンドイッチをたべる。
おともはサンドイッチと一緒に調達したアイスコーヒー。
ただ外のまっくらな景色を見ながらたべるだけ。スマホは一切触らない。
節分で恵方巻きをたべるときでさえ、方角も喋らない決まりも守らないこのわたしが、金よう日の夜のこの時間のサンドイッチだけはどこかの方角の一点を忠実にみつめながら黙ってたべる。
「誰かとおいしさを共有しながらたべるほうがおいしい」のは、ほんとうだとおもう。
だけど、なぜだろう。
一人で黙ってたべているのに、この金よう日の深夜に、この場所で、この車のなかでゆっくり頬張るコンビニで買っただけのハムときゅうりのサンドイッチは、涙がでそうになるほどおいしい。
そして、すごくたのしい。
たった120円のアイスコーヒーも格別だ。
サンドイッチを味わいアイスコーヒーを飲むと、また「ふぃ〜」と深く息を吐く。
はらぺこだったおなかも満たされたわたしは、さきほど購入した文庫本を読みはじめた。
アイスコーヒーを飲む。文庫本を読む。
暗いなか文庫本を読むのにも慣れてきたころ、2台分の駐車スペースをあけて1台の車が停まった。
その車のひとも窓を開けたままエンジンを止め、運転席の座席をたおして横になった。
開けられた窓からうっすら聞こえてきたのは、ラジオだった。
スマホから流しているのか、ポータブルラジオから流しているのか、どちらか。
なにを聴いているのか気になったけれど、距離もすこし離れているので十分には聴き取れなかった。
しかし誰かがたのしそうに喋っているのは聴こえる。
その音がすごく心地よくて、何を喋っているのかはわからないが文庫本を読みながら聴き入ってしまった。
2台隣のひとも、わたしと同じようにわざわざ一人の時間を満喫しにきたのだろうか。
それともただ運転に疲れたから立ち寄っただけなのだろうか。
普段はどんなラジオを聴いているのだろうか。
そんなことを考えていると文庫本の内容が頭に入らなくなってきたので、読書をやめて、またサンドイッチをたべるときと同じように1点をみつめながらぼーっとすることにした。
ぼーっとしながらも、いろいろなことに考えを巡らせていると、2台隣のひとが帰ってしまった。
時計をみると、深夜1時半になろうとしていた。
うっすら聴こえるラジオがすごく落ち着いたのに、もうない。
さあ帰るかと車のエンジンをかけ、行きとは違う音楽をかける。
またゆっくりとドライブをしていたのに、すきな時間がすぎるのはとてもはやい。
自宅に帰るまで30〜40分かかるはずなのに、体感は10分程度だ。
玄関を開けると、飼い猫が座りながら「遅い!」と言わんばかりに睨んでいる。
「ごめんよ〜」と頭と顔をなでまわすと、相当嫌だったのかわたしから離れていってしまった。
飼い猫のおかげでメンタルも鍛えられている気がする。
今宵も飼い猫にあしらわれてからお風呂に入り、寝る準備をして、バタンと布団に倒れこむ。
枕に頭を沈めたとたん、我ながらしあわせそうな「ふぃ〜」が声にでた。
これがわたしのすきな金よう日の夜の過ごし方である。
先日、いつもヘアカットをお願いしている美容師さんがこう言った。
「ぼく、サウナがすきなんですけど、たぶん “整う” とかどうでもよくて、ひとりになりたいんですよね 」
サウナが苦手なわたしは、いままでそれがすきなひとと意見が合ったことがなかった。
むしろ “整う” と連呼するひとたちが、なにかの感覚と危険信号を無視していそうで恐ろしかった。
でもこの「ひとりになりたい」という感覚はすごく共感できた。
たのしいひとたちとお酒を飲みながら過ごす金よう日の夜もすきだけど、そればかりではリフレッシュされないのがわたしという人間だ。
ひとと一緒にすごす時間もすきなのだが、それと同じくらい自分ひとりの時間で “ふぃ〜” をしたい。
ひとりの時間のなかで “ふぃ〜” がほしい。
きっとわたしにとっての “整う” は、“ふぃ〜” だ。
会うひと全員に “ふぃ〜” の大切さを説いていきたいけれど、怖がらせたくはないので、ひそかに自分だけで “ふぃ〜” をたしなんでいきたい。
ひとりきりで “ふぃ〜” するのも、“ふぃ〜” の醍醐味。
つまり “ふぃ〜” って、いったいどんな状態なんだろう。