『光る君へ』イケメン公任が詠んだ百人一首の秀歌、その忸怩たる思いとは?
道長を嫉妬させる
イケメン公任
NHK大河ドラマ
「光る君へ」
主人公・まひろは「源氏物語」執筆にとりかかり、藤原道長の勧めで宮中に参内する。
物語はいよいよ急展開する。一方で不遇をかこつのは藤原公任。出世競争で道長に抜かされ忸怩たる思いをかこちつつ、詩歌の道に耽溺していくのであった。さて、ここ数カ月「『光る君へ』の登場人物が詠んだ歌を特集していたが、やはり当時の文化人の常として藤原公任が詠んだ歌も百人一首に選ばれている。
今回は藤原公任を特集してみたい。
藤原公任、ドラマでは国民的イケメンとも称される町田啓太が演じる彼は康保3年(966年)の生まれ。藤原道長とは奇しくも同年齢だ。彼が町田啓太のようなイケメンだったか、それを伝える資料は存在しないが、幼少期より俊才ぶりを謳われていたのは事実だった。その評判に面白くないのが道長の父である藤原兼家である。ある時、兼家は家隆、道兼ら息子たちを呼びつけ、
「お前たちは公任の影にも及ぶまいよ」
と愚痴をこぼす。
他人の子をうらやましがり、我が子をけなすなど、子育てでは禁じ手だ。だが明確な子育て論もネットの質問箱も無い時代だから仕方がない。実の父から痛いところを撞かれて委縮する兄弟。だが道長は違った。父の前で自信満々に宣言した。
「影を踏むどころか、顔を踏みつけてやります!」
以上は、平安時代末期に編まれた歴史物語『大鏡』に載る逸話である。道長の豪胆ぶり、後の栄華を予感させるエピソードとして載せられている。だがしかし、町田啓太の顔を踏みつけるなどドラマでは再現できなかったか。
それでもやはり公任は優秀だった。寛和2年10月10日(986年11月14日)の事と言うから両者が20歳の頃。時の円融天皇が優雅な遊びを開かれた。都の郊外を流れる大堰川に三艘の船を浮かべ、それぞれ「和歌」「漢詩」「管弦」の名手を誇るものが乗り込み、船中で才を競う、というものだ。
公任はこの折に「和歌」の船に乗り込み秀歌を詠みあげた。だが漢詩の船に乗り込んだならば一層の名声を得ただろう、と自画自賛のように悔やんだという。歴史物語『大鏡』では、公任を「三船の才人」と称賛する。
才能で優っても出世では負けた
それでも百人一首には載った
だが文才や音楽に秀でてはいても、政治能力では道長が優っていた。父が羨んだ公任を、やがて道長は追い越した。公任は自身の文才をもって道長におもねざるを得なくなる。
そんな折の長徳5年(999年)秋、公任は道長に随行して西山に紅葉を訪ねた。西山とは都の西方、嵯峨の大覚寺。嵯峨は嵯峨天皇が離宮を営んでいた明媚な地である。離宮に壮麗な庭園を設えられ、ほとばしる瀑布が水流を形成して池を潤していた。嵯峨天皇と言えば、都を奈良から長岡を経て平安京に遷した桓武天皇の2代ののちの天皇。道長や公任の時代から数えて200年ほど前の治世だ。だが幾星霜を経た今、公任らが望む庭園の滝はすっかり涸れはてていた。
公任は詠む
滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
滝が涸れ果て音も絶え、長い年月が経ちました。でもその名声は世間に広まり、今でも音として聞こえていますよ。
藤原公任と道長は、それぞれ「男系の曽祖父が同じ」親戚同士。
200年前は全く同一の家系だった。
だが今は別々の家系で出世を争う。
滝が流れていた過去を想い、そして出世で抜かされた今を今を想い、自身の文才を「名こそ流れてなお聞こえけれ」とすべく詠んだものだろうか。
公任の歌は百人一首に選ばれた。上の句の後半から下の句が「すべて『な』の音で統一され音が滑らかな秀歌」と称された。
だが道長の歌は「百人一首」には選ばれてはいない。
出世では負けても、文才では勝った。
公任の面目躍如だろうか。
なお公任、道長ともに曽祖父は平安時代前期の貴族・藤原忠平。
二人は同じ一族同士。
そして嵯峨天皇の時代は200年ほど前。
当時、両者の家系は分かれてもいなかった。
滝は豊かに流れていた。
今、滝は涸れた
それでも名声は広まっている。
あたかも家系が分散するように。
現代と過去
出世競争
忸怩たる思い
それらをすべてこね混ぜた歌だとすれば実に趣深い
そして深遠でドロドロな宮中策謀。