七福神がそろうまで

宮城・仙台
ライター
KIROKU vol.09
佐藤綾香

 

2〜3週間前だろうか、友人とおいしいピザを食べていたときだった。

「わたし、自分だけの七福神をそろえようとおもってる」

つい口が勝手に動いてしまい内心はオロオロと慌てたが、嘘ではない。

くもりのない意志が宿されたような言葉が自らの口から放たれたとたん、頭の中のわたしが「あ、そうだったのね!?」と驚いていた。

自分自身のことなのに、七福神を探し求めていると初めて認識したのだ。

 

案の定、友人は「なにそれ!?」と目を輝かせて詳細を聞きたがっている。

長い間、七福神を探すという突拍子もないアイデアを無意識に温めつづけてきたのか、不思議と言葉がスルスル出てくる。

あまりにもスムーズに話すものだから大切な友人に嘘をついている気もしてきてちょっぴり罪悪感を覚えたのだが、自分も詳細を初めて知るので「こんなことを考えていたのか」という驚きの気持ちのほうが勝った。

 

友人とのやりとりからわかった、わたしがずっと考えていたのであろう「七福神探し」は、短期間で終わるものではないらしい。

まずもって、ここで言う【七福神】の定義から説明する必要がある。

わたしが探し求める【七福神】は、一般的に思い浮かべる恵比寿さまたちのことではなく、どちらかというと、すべてのものに神は宿るといった意味合いの「八百万の神」に等しい。

あらゆるもののなかから神として選りすぐった7体を集めることが、七福神探しのゴールだった。

 

振り返れば、思い当たるふしがある。

数年前、わたしは自分の部屋に「神棚」を作った。

心の友から誕生日にもらったクマの陶器の置き場所に悩んだことが、現在わたしが神棚と呼ぶスペースを作り始めたきっかけだった。

プレゼントしてもらったクマの陶器は、可愛い! だけでは済まされない厳かなオーラがあった。

わたしはアザラシがとても好きなのだが、はじめはコレクションしているぬいぐるみなどのグッズに囲まれるように置いてみたものの、あきらかにクマの陶器が嫌に浮いていた。

「可愛いもの同士に境界はない!」と決め込んで我が家のキュルキュルとした愛らしいアザラシたちと共存させても、違和感を増幅させるだけだった。

それじゃあ厳かさを活かす場所へと思い立ち、インテリアの一部として窓際に置いてもしっくりこない。

ここぞ! というスペースを見つけたとしても、すこし日が経てば「なんかやっぱり違うわ」と別の場所に移動させる。

そんなことを何度も繰り返して、最終的には、アザラシたちからも、 お気に入りの雑貨たちからも遠ざけられ、奥まった棚の上にポツンと行き着いた。

たったひとつだけ、ひっそりと置かれたクマの陶器は、仕方なくここにいるというよりは、やっとふさわしい場所に落ち着いたような佇まいだった。

 

そうか、あなたは神さまでしたか。

クマの陶器の様子を見て、わたしは瞬時に察した。

それから、そこはわたしにとって「神棚」になったのだ。

 

 

クマの陶器が神棚に鎮座してからしばらくして、2体の神たちも加わった。

贈り物のアザラシの貯金箱、そして一目惚れして購入した青いミニだるま。

どちらもクマの陶器と同じように、可愛らしい見た目ながら荘厳な雰囲気をまとっていた。

おそらく見るひとによっては 「なぜこれが神と崇められているのか」 と疑問をもたれることもあるだろう。

神と勝手に決めている側のわたしも、なぜ神と判断しているのかがよくわかっていない。

とにかく神たちから発されるオーラを、自分のフィーリングで察知しているだけだ。

難しいのは、ただ可愛いだけでも、かっこいいだけでも、思い入れのあるぬいぐるみだとしても、神にはなり得ないことである。

そんなわけで神はすぐには見つからないし、自分以外のひとが「これは神だよ」と紹介してもわたしにとっての神になることもないので、七福神探しはラクじゃない。

だからといって、神を買うためだけにショッピングに出かけるのはナンセンス(と、自分で友人に口走っていた)。

偶然出合うことが大切で、自分の直感が呼び覚まされ、さらに畏怖の念を抱くものであることが条件。

 

それと、かならずしも七福神では止まらないかもしれないし、ハチ福神やキュー福神になることだってあり得る。

もしかしたら、生きているうちに7体も集められないかもしれない。

「あと1体なのにぃ〜〜〜」と死ぬ直前に虫の息で駄々をこねるのも十分考えられる。

ちょっと想像するだけで、死んでも死に切れない。

いつまでたっても三途の川を渡らずに 「あと1体! あと1体だったのに!」 と地団駄を踏む姿だってたやすく想像できてしまう。

 

 

わたしは無神論者だが、生涯をかけて死後に無念を抱えそうな企画を全うしようとするまで、無意識にも神を求めてしまうのはなぜなんだろう。

宗教がさまざまな対立や争いを生む現実があると知っていても、なぜわたしは神をつくってしまうのだろう。

ただ、いまわかっているのは神に祈りを捧げるだけで無力さを思い知るときの自分の気持ちが少し救われる気がして、真っ暗闇のなかにも希望を見出しやすくなることだ。

 

わたし一人が神にすがったって、痛ましく、悔しく、かなしく、誰に怒っていいのかもわからないような状況がよくなるわけでもない。

それでもいまは、すこしでも平和な世界に近づけるよう、自分自身がまずは平穏でいられるよう、己の目と心を信じて選んだ神たちに祈りをささげよう。

 

次なる奇跡の出合いをじっと待ちながら。

 

 

 

プロフィール
ライター
佐藤綾香
1992年生まれ、宮城県出身。ライター。夜型人間。いちばん好きな食べ物はピザです。

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