誰かがなくなるとき
だいすきなひとが、突然いなくなった。
「きょうも通勤電車の発車時刻にどうにか間に合ったぞ」と駅のホームでほっと胸をなでおろし、朝のニュースをスマホでチェックしていたら、谷川俊太郎さんの訃報が目にはいったのだ。
ご高齢だったし覚悟はしていたつもりだったが、その一瞬、正常だった呼吸がひゅっ、と止まった。
お話したことも、お会いしたこともないのに、谷川俊太郎さんのことを考えると、のどの奥がツンとなり目に涙がたまってくる。
こんなにかなしいのは、なんでだろう。お話したことも、お会いしたこともないのに。
まるで自分の身近なひとが亡くなったように、かなしくて、さみしい。
もう会えないという事実が、なんとも言いがたいさみしさを助長させる。
谷川俊太郎さんと、どんなかたちであれ、お会いすることが夢だった。
ほんとうに恐れ多いのだけど、一緒にお仕事をしてみたいとさえおもっていた。
でも、もうかなわない。
すきという想いが大きくなりすぎて、イベントなどに足を運ぶこともできなかった。
谷川俊太郎さんを一目見られるまで自分は必死に生きているのか、いやまだ生きていない、と漢文の授業でよく使われた反語の訳のようなお堅い自問自答をくりかえし、憧れの君への想いをこじらせたのだった。
すきなひとには、生きているうちに会いにいったほうがいい。
そうわかっているのに、わたしという愚かな人間は同じ失敗をしつづけている。
わたしと谷川俊太郎さんの出合いは、たしか小学生だったとおもう。
「春に」という詩に衝撃を受けたことがきっかけで、日本語でつむがれる言葉もすきになった。
なんてきれいなんだろう、と感動して体温がぼわぼわっと急上昇したのを覚えている。
そして、いつも学校という枠組みでどこか孤独感や生きづらさを抱えていたわたしにとっては、この詩が心の拠り所になっていた。
いまも変わらず、「春に」はわたしのいちばんすきな詩である。
春に
この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
この気もちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする
この気もちはなんだろう
あの空のあの青に手をひたしたい
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい
ぼくはもどかしい
地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい
この気もちはなんだろうP.86-87『どきん: 谷川俊太郎少年詩集 (詩の散歩道)』
つらいときも、かなしいときも、喪失感でどうしようもないときも、この詩を読んでふんばってきた。
たのしいときも、うれしいときも、この詩を読んで一度立ち止まりしあわせを噛みしめた。
世の中にはやさしくない言葉があふれ、それに傷つき、最悪の場合は自ら命を絶ってしまうケースもある。
しかし言葉には誰かを救い、勇気づけ、希望も授け、強くさせ、生かす力もある。
わたしはそんな美しさを信じ、これからも言葉と戯れていきたいのだ。
言葉はほんとうにすごい。
レイ・ブラッドベリのSF小説を映画化した『華氏451』(フランソワ・トリュフォー監督/1966年)では、本が禁止された社会だとしても口伝という方法で人々の自由が守られる。
言葉には「自由」も勝ち取る力もあるのだ。
大切な誰かがいなくなったときも、言葉があればそのひとを語り継げる。
誰かがいなくなるのはかなしく、さみしいことだけれど、残されたひとたちそれぞれにしか語れないものがある。
わたしはそういう記憶をムダにせず、いなくなったひとを語り継ごうとおもう。
そうすればきっと、いなくなったひとも消え去らないだろうから。
谷川俊太郎さんに、敬意をこめて。