「老い」をテーマにひろがる豊かなイメージ、舞台「八月の鯨」に見るクリエイティブ
例えば、「老い」について考える時、どんな道具立てが必要だろうか。老人、孤独、衰え、無気力、あきらめ、諦観…。いやいやこれはエンターテインメントなのだ。気の滅入るような要素が老いの現実なのだとしても、舞台やスクリーンやテレビ画面にそれを表現する時、それを観る人が、登場人物たちの気持ちや心の中をどれだけ自分事として、そして将来自分が置かれるかもしれない場所なのだと感じてもらえるかが、勝負だ。後ろ向きな話ばかりではなく、そんな境遇に自分が置かれた時に、どうやって未来を向いていくかを考えることもエンターテインメントの大切な役目だ。映画でも知られるようになった舞台「八月の鯨」は、老いの現実と向き合いながらも、決して自分の人生をあきらめずに前を向きて生きていく物語なのである。
米国の劇作家デイヴィッド・ベリーが生み出したこの「八月の鯨」は、当初1980年ごろはリーディング(朗読劇)作品として上演されていたが、自ら脚本を手掛けた映画『八月の鯨』(リンゼイ・アンダーソン監督)が1987年に公開されると、大反響を呼び、カンヌ国際映画祭でも特別賞を受賞するほどの評価を得た。日本では1988年に東京・神保町の岩波ホールで公開され、異例のロングランを果たした。
避暑の季節以外はひっそりとした米メイン州(カナダとの国境近くの米北東部)の島にある海沿いの別荘で夏を過ごす老夫婦の生活を淡々と描いた地味な作品だったが、しみじみとした味わいがあり、まさに「人生とは何か」を観客に訴え掛ける作品だった。
サイレント映画時代のアイドル的存在だったリリアン・ギッシュとハリウッド全盛時代を代表する演技派のベティ・デイヴィスという共に伝説的な女優による演技の競演と、そこに現れる人々の個性あふれる生きざまが人々の胸を打ったことは間違いないが、その成功のベースには朗読劇や演劇で培われた会話劇の魅力があった。映画の大ヒットの後、演劇としても人気作品となっていた「八月の鯨」を奈良岡朋子・日色ともゑで2013年に上演したのが劇団民藝だ。12年後の今年2025年、樫山文枝・日色のコンビで再演した。
物語に取り立てて特別なものはない。島の別荘で暮らすサラ(日色)とリビー(樫山)の老姉妹。戦争で夫を亡くしたサラの面倒をリビーがみていた時代もあったが、リビーはもともと一言多いタイプで、病気で目が不自由になってからはますます気難しくなっていた。世話好きだったサラにとってはそんなリピーと暮すことも苦痛ではなかったが、もやもやとしていたのも事実だった。話好きなこともあって、時々家の修理に来てくれるがさつだが人間味のある近所の工員ジョシュア(小杉勇二)や、幼馴染で親友のティシャ(細川ひさよ)らとの他愛もない会話を楽しんでいた。そんなティシャは、「リビーを施設に入れて2人で暮らそう」という悪魔の誘いを持ち掛ける。それなりに現実的なプランなのだが、サラは踏み切れない。
彼女たちにとって唯一と言っていい楽しみは、入り江が見通せる庭に出て、岸辺や海を眺めること。リビーには波の音や海風だけが楽しみとなってはいたが、それでもずいぶんな慰めにはなった。かつては鯨が入り江に来ることもしばしばで、それを見るのが楽しかった。しかしクジラが現れなくなってもうずいぶん経つ。ただ今年はえさのニシンが入り江に来ているのが見えており、鯨が来る可能性もありそうだった。
こんな人々の中にポトンと落とされたひとしずくが明らかに異質なマラノフ(篠田三郎)だ。ロシアの没落貴族で移民として米国に渡ってきた人物である。
釣りの後、たまたま立ち寄ってくれたマラノフに「魚をさばいてくださるのなら、ディナーに招待しますよ」と声を掛け、地雷ともなりかねないリビーとともに緊迫のディナーが始まる。 そのバトルの行方はともかくとして、ここまで見てきて分かるのは、象徴的なものがあちこちに張り巡らされていることだ。
さまざまな孤独があるが、それは人によって違う。その違いも鮮明に描き出されている。老姉妹の孤独は庶民的なものだが、亡くした夫への思慕が尽きないサラのさびしさは人とは違う。サラに迷惑を掛けているリビーの自分への怒り混じりの孤独感も色濃い。 マラノフの孤独は宿命的なものながら、島で一緒に暮らしていた女性が亡くなったばかりでいっそうのさびしさに包まれていた。
メイン州の寒さは老夫婦たちを閉じ込めているバリアのようなものかもしれないし、見えなくなって久しい「八月の鯨」は、老姉妹にとってかつての生命力にあふれた自分たちなのかもしれなかった。21世紀の今になってみれば、それは地球温暖化の影響である可能性が強いと分かるが、何かの象徴であることに変わりはない。
海があると思われる観客席側からは波の音が聞こえてくる。鯨は舞台上では決して描かれず、話の中で登場するだけだ。しかし観客の頭の中では確実に鯨が見えている。潮を吹き、海上にジャンプし、海の詩を謳っている。時には自分が鯨になっている。
終盤近く、サラは新たな象徴について口にする。悩みながらもひとつの決断をするのだ。客席という海にいる鯨たちは、例え姿は見えなくても、きっとサラを応援する高らかな鳴き声を上げているはずだ。 老いをテーマにしている作品だが、こんなにも豊かなイメージを広げてくれる作品はそうない。
舞台「八月の鯨」は2025年2月8~17日に東京・新宿駅新南口の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演された。公演はすべて終了しています。
